M-8 逃避
体が軽い。まるで背に翼でも生えているようだ。
軽く地を蹴るだけで、僕は楽々と銀髪の人との距離を詰めることができる。
そして、それだけではない。
「不思議だ……」
時間がさっきよりずっとゆっくり回転している。
先ほどは読めなかった太刀筋が、はっきりと目で見てとれる。
人間は死を乗り越えると超常的な力を手に入れる事があるって聞いたことがあるけれど、その類なんだろうか。僕は、この一瞬でずいぶんと強くなったようだ。
銀の閃きを頭上すれすれに見切ってかわし、剣の柄を構えて懐に飛び込んだ。
が、それはさすがにかわされる。
代わりに問答無用で拳がとんできた。
「くっ……」
何とか上体をひねって避けるけれど、体勢が崩れている。すぐには反撃できない!
苦し紛れに思いきり地を蹴った。
すると。
「……あれ?」
一瞬で視界が暗転した。
いや、よく見れば真っ暗ではなくかすかな光の粒がいくつも煌めいている。
ああ、そうか。
「飛び過ぎちゃったのか」
ふっと足元を見下ろすと遥か、ランプの薄明かりが揺らいでいるのが見えた。
僕は、夜空の中に一人飛び込んでしまったのだった。
動体視力だけじゃなく基礎視力もかなり上昇しているらしい。僕の目の前には見た事もないような星の海が広がっていた。
白銀に煌めく「休息の鷲」、それよりほんの少し青みを帯びた「飛翔する鷲」。そして二つを繋ぐ「大いなる懸け橋」。この3つの星には古い物語が秘められている。その起源は東方だったと聞くが、詳しい事は分からないし、物語の内容もよく覚えていない。でも、それは確か一年に一度だけ会える恋人たちの、悲恋の物語だったように思う。小さい頃、母さんが暖炉の前でゆっくりと僕ら二人に聞かせてくれたのだけ覚えている。
そしてその周囲を取り巻く銀の粉。光る羽根を持つ蝶が飛びまわったような、煌めく世界が広がっていた。
が、その余韻に浸っている場合ではない。
剣を握る手に力を込めた。
「行くぞ!」
体を捻って上下入れ替える。
すると、周囲の空気の流れが変わった――僕は、ものすごい勢いで落下し始めた。
剣をまっすぐに構え、目を凝らして狙いを定めた。ランプの明かりの中心で、あの銀髪の人が僕を見失って焦っている。
チャンスは、一度きり。
狙うのは――銀色に光る刃。
僕の体はどんどん加速して、闇夜でも薄ぼんやりと燐光を帯びる銀髪に近付いていく。
「うおおおおお!」
雄叫びをあげると、深淵を移す群青の瞳がこちらを向いた。
そして、銀の切っ先が迫ってくる。
僕は、落下の加速を生かして、渾身の力でその刃を叩き折った。
「何っ?!」
銀髪の人は大きく目を見開いた。
発せられた闘気に、僕は思わず飛び退る。
いったん距離を置いて呼吸を整えた。
先ほどまで眠そうに半分瞼が降りていたのに、今はくっきりとした群青の瞳の収まる眼が僕を睨んでいて、溢れ出す闘気を隠そうともしていない。
「まさか千里眼まで使えるとは思ってなかったよ」
「せんりがん?」
思わず首を傾げると、銀髪の人はなぜかにこりと笑った。
それだけでその場の威圧感が増す。
全身の高揚感が薄れている。僕の剣を取り巻いていた銀色の霧も消えかかっている。さらに、ゆっくりと回転していた世界がもとの速さに戻っていく。
貫かれたはずの腹は全く痛くならなかったから感知しているのだろうけど、ここでこの身体能力――おそらくそれは、本当の両親だと言う人が僕に残してくれた羽根の加護によるものと思われるが――を失ったら、また先ほどの繰り返しだ。
主武器である銀の刃は折ったけれども、他にも武器を隠し持っている可能性の方が高い。
僕はこの銀髪の人に勝てない。何しろ、この人と僕じゃ実力が違い過ぎるのだから。
でも、ここで倒しておかないと先に逃げたミーナが……
「マルコっ!」
そこへ、鋭い声が飛んだ。
はっと見ると、そこにはミーナを連れて逃げたはずのお兄さんの姿があった。黒毛の馬を駆り、闇の中から僕の方へ一直線に駆けてくる。
「ミーナはちゃんと逃がした。今度は、君も逃げるんだ!」
「あ」
僕も敵の銀髪の人も突然の乱入で油断している隙に、お兄さんはその柔な見た目からは信じられないくらいの力で僕を馬上へと引き上げた。
その間も馬は足を止める事はない。
「全く君たち兄弟ときたら、無茶ばかり……さあ、行くよ! 捕まって!」
僕がしっかりと馬にまたがった時には、銀髪の人も横転した馬車も倒れた聖騎士団の人たちもずっと後ろへと遠ざかっていた。