M-6 油断
ミーナがお兄さんに馬で連れて行かれた。それを見て安心した途端、力が抜けた。
抵抗をやめて短い草の生えた地面に転がる。
「あーよかった」
もういいや。ミーナにはお兄さんもついていることだし、きっと無事にカトランジェの街にたどり着くことだろう。
突然抵抗をやめたことを不審に思ったのか、男は奇異なものを見る目で地面に寝転がった僕を見下ろしていた。
でも、このあとミーナを追いかけられちゃたまらないから、殺さない程度にこいつらに深手を負わせておかなくちゃいけないな。
そう思って腹筋をばねに立ち上がる。
「なっ! 油断させておいて!」
油断するお前が悪い。一瞬で抜刀して目の前の大男の大腿を大きく切り裂いた。
一瞬間があって血が噴出す。
「うあああーっ!」
大男は悲鳴を上げて地面をのた打ち回った。
それを見て、右の手甲から銀色の刃を飛び出させている銀髪の青年はうっすらと微笑んだ。
さっき振り返った時にも思ったけれど、本に描いてある本物の天使みたいだ――どこも歪んだところがない。陶器のように白い肌の中で深淵を映しこむ群青の瞳が目立つ。どこか眠そうに半分瞼が降りてきているのも、なんだか怖かった。
「君も久しぶり、だね」
「……?」
銀髪の青年から発せられた言葉に、思わず首を傾げる。
おかしいな、初対面だと思ったんだけど。僕はちょっとばかりぼんやりしているから……会った事を忘れてしまっているんだろうか?
「いったい何年逃げ回る気だい? 今度こそ、もう逃さないよ」
何年も、だって?
ああ、そうだ。父さんは僕の顔を、父親の『アレイ』にそっくりだと言っていた。その父親の瞳の色はミーナと同じ紫らしいけれど――ん? 紫の瞳、戦争でセフィロトに被害?
それに、アレイっていう名前……いや、そんなはずはない。だってあの人は、伝説なんだから。
どっちにしても、この人は自分と本当の父親を混同しているのではないだろうか。
「ねえ、たぶん間違ってるよ。人違いだ」
すると銀髪の人はちょっと首を傾げた。そして、今にも閉じそうだった目を大きく開いた。
その途端、この人から感じ取れる闘気が一気に膨れ上がった。
「ああ、そうだね。目の色が違う。顔もちょっと違う。若いし、機嫌よさそうだ……いつ変えたの?」
だめだ。話にならないや。
この分だとミーナの事も、生みの母親と勘違いしてしまっているはずだ。
やっぱりここで足止めしなくちゃ。
「僕はマルコシアス=フォーレス、騎士団長クラウドの息子だ!」
剣についた血を拭う間もなく濡れた刃を閃かせて銀髪の人に切りかかった。
振り下ろした剣を、闇目にも切れ味がよさそうで薄い刃が受け止める。
こうして近くで見ると、ぞっとするほど整った顔立ちがよく分かった。瞼は半分降りていて、それでもまるで彫刻みたいだ。
しかも、この銀髪の人は見た目よりずっと――強い!
切っ先の速度も力も、受け流す技術も……
「ねえ、弱くなったんじゃない?」
剣で押し負けて、いったん距離をとる。
父さん以外では初めて出会う自分より格上の相手、しかもこの戦闘スタイルは初めてだ。
それでも、退く気はないけれど。
銀髪の人は軽く口角を上げた。半分閉じた瞼では、どこか狂った精神を反映した表情にしか見えない。
「いくら夜だからって手加減しなくていいんだよ?」
「手加減なんてしてない」
もう一度剣を両手でぎゅっと握りしめた。
「ふぅん、じゃ、人違い?」
「最初からそう言ってるじゃないか」
僕の言葉を聞いて、銀髪の人はすっと刃をおろし、大きなため息をついた。
「なあんだ」
分かってくれたのかな?
そう思って少し手を緩めた。
「でも、別だけど、同じだ……そう、『似てる』……同じだけど、違う……似てる?」
銀髪の人は何かをぶつぶつと呟いた後、きゅっと眉を寄せた。
「君は誰?」
「さっき言ったよ。僕はマルコシアス=フォーレス。きっとあなたが探している人とは別だよ」
僕の本当の父親かもしれないけれど。
「マルコシアス……?」
銀髪の人の目がもう一度ゆっくりと開かれた。
深い群青の瞳がランプの明かりに照らされて、揺れた。
「ああ、そうか。じゃあ君も……敵だ」
こんな時なのに、僕は一瞬にして銀髪の人の顔に釘付けになった。
なんて、美しい。
女とか男とか、そんなもの全部超越している。
「V-A-L-E」
完璧に整った唇から呟かれたセフィロト国の古代語は、学校で習った事があった。
それは――
「……がっ……」
目の前に銀髪が揺れている。
胸の辺りが焼けるような痛みを帯びて、喉の奥に熱い液体がせり上がった。
血に濡れた銀の刃が視界をかすめる。
「さよなら」
それはセフィロト国の古代語で『さようなら』。
僕は、そのまま地面に倒れ伏した。