R-8 笑顔
どうやら先ほどの浮遊感は、馬上に引き上げられたことによるものだったらしい。
馬に横座りの状態で、手綱を取る御者のお兄さんに抱えられていた。
「だいじょうぶ? 怪我はない?」
「あ、あたしは……」
馬はとても人2人を乗せているとは思えない速度で草原を駆けている。
周囲は真っ暗で分からなかったが、目が開けられないほどに風を切っていることからすぐに分かった。
そこであたしははっとする。
「マルコがっ!」
「すぐオレが助けに戻るよ。君は、このまま馬を走らせて。このまま行けばラッセル山に続く街道に当たるはずだ。そこは石畳で整備されているから道に迷う事はない。まっすぐ西へ、カトランジェに向かって」
「えっ?」
「今度は、絶対に振り向いちゃだめだ。オレの事ならだいじょうぶ。きっと君が思ってるよりも強いよ、ミーナ」
お兄さんはそう言うとにこりと笑った。幼く見えるその笑顔に、一瞬どきりとする。
というか、考えてみれば密着しすぎだし、何気に顔近いし……!
長い睫に縁どられた栗色の瞳を見て、柄にもなくどきどきしてしまった。
「さあ、ミーナを頼んだよ」
お兄さんはぽんぽん、と走る馬の首筋を叩く。
そして、同じ調子であたしの頭にぽんぽん、と手を置いた。
「じゃあ、分かったね。今度こそ、追いかけてこないでちゃんとカトランジェを目指すんだ。カトランジェについたら、ルークという人を探して、『アキレア』という名を告げて」
そう言うと、お兄さんは馬をとめた。
「君は本当に君の母親にそっくりだよ、ミーナ。姿だけじゃない、そうやって周りの人を助けようとする心も、その強い意志も」
呆然となったあたしを馬上に残したまま。
にこりと笑った栗色の瞳はとても優しい色をしていた。
指笛を鳴らすと、どこからか一頭の馬が駆けてきた。
お兄さんは一人、そちらに乗り換えてさっきの場所に戻るつもりだ。
「ねえ、お兄さん」
「なあに?」
「せめて……名前、教えて」
マルコが父さんたちと別れるあの時、こう聞いた気持ちが少しだけ分かる気がする。
あたしはこの人について何も知らないのだ。素性どころか、名前も歳も、家族も住んでいる場所だって。
せめて、名前だけでも知りたい。
そうすると、御者をしていた茶髪のお兄さんは、もう一度微笑んだ。
「オレは……リッドだよ。リディアルド=ピーシス。でも、あんまりこの名前は人前で口に出さないで。普段はコードネームのアキレアを名乗ってるから」
父さんが言ったのと似た台詞で青年は名乗った。
「リッド……気を付けて。マルコを、お願い」
「うん、任せて!」
屈託ない笑みが瞼の裏に焼きついた。
馬を駆っていると、風が目に入って乾燥してきた。瞬きすると涙がでて、するとその涙が止まらなくなった。そのままあたしは馬上で泣き出してしまった。
マルコを置いてきた事があたしの心をめちゃめちゃに傷つけていた。
あたしがリッドを助けに行くって言ったから。一人目をちゃんと倒しておかなかったから。結局マルコの言うとおり、足手纏いになっただけだったんだ。
全部あたしが悪い。
「マルコ……」
あたしにできることなんて、もうほとんど残されていなかった。
暗闇の中で馬を駆り、とにかく言われた通りカトランジェの街を目指すことしかできない。マルコを助けに戻ればまた足手纏いになる。リッド、と名乗ったあの人にすべてを託すしかない。
まだ出会ってからほとんど時間も経っていないのに、何故かリッドという人を信じる事が出来た。素直に言う事を聞いてカトランジェに向かう事も、マルコの事を託すことだってできた。
何故だろう?
最後に見た笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「また会えますように……!」
小さく、本当に小さくそう呟いて、獣臭い馬の鬣に顔を埋めた。
お願い。みんな無事でいて欲しい。
父さんも母さんも、マルコもリッドも。
誰も傷ついて欲しくない。
そう思うのは間違いなの? あたしはその前に自分の身を心配しなくちゃいけないの? 人の事を優先して思っちゃダメなの?
ねえマルコ、教えてよ。
マルコだったら……いったい、どうするの?
「お願い、リュシフェル……」
無意識に自分の口から出た名が、天使ではなく悪魔のものだった事に少しだけ驚いた。
やっぱりあたしは、クラウド=フォーレスとダイアナ=フォーレスの娘らしい。
たった一人で追っ手を撒いて、遠くカトランジェの街まで行かなくてはいけないというのに、思わず微笑んでしまった。
腰のベルトに差してあった二枚の羽が、微かな音を立ててさざめいた事を、あたしはその時まだ気づいていなかった。