M-5 騎士
柔らかい沼地の泥がクッションになって僕らを包んでくれた。ぐちゃ、という音がして泥が体にまとわりつく。そのままいくらか地面を転がって、泥の中に埋まるようにして体が止まった。
馬車が遠ざかる間ミーナの口を手で塞いでじっと息を潜めた。そのまま草陰に息を潜めていると、追っ手の馬が遠ざかっていく音がした。
ふうと一息ついてミーナの口に当てていた手をはずすと、案の定マシンガンのように攻撃が始まった。
「何するのよ、窒息するじゃない! しかもドロドロ……最悪! この服お気に入りだったのよ、母さんが誕生日に作ってくれたの! それにあのお兄さんが! 囮だなんてあたしが許さないわ! 一人で敵をひきつけて……」
ミーナはそこまで言うと唇をひき結んで立ち上がった。泥のついてしまった服をパタパタとはたいたが、あまり取れなかったようだ。
紫の瞳には怒りと共に強い意思の光が灯っていた。
「行くわよ、マルコ」
「え?」
首を傾げて双子の相方を見上げると、彼女は目を吊り上げた。
「お兄さんを助けに行くの! 当たり前でしょ!」
「えええ? どうして? たった今あのヒトが僕らを逃がしてくれたのにわざわざ敵の中に突っ込むような事するの?」
「マルコ、これだからあなたは父さんの道場を継げないって言ってるの。人に助けられて、どうもありがとうございましたってのうのうと生きていくなんて、そんな風に簡単なもんじゃないでしょ?」
それはそうだと思うが、この場合僕はミーナを最優先したからこういう結果になったわけで。
お兄さんよりもミーナの方が大事だった。追っ手の事が分かっていて父さんたちと別れたのも僕がミーナを一番に考えたからだ。
僕の一番はいつだってミーナだったのだ。
「あたしたちは剣士よ。周囲の人を守りたいって思うのは当たり前の感情じゃない」
「守りたい?」
「そうよ。あなたは執着がなさ過ぎるの。今にも手の中の物すべて捨ててどっかにいっちゃいそうな気がするわ。もっと人を大切になさい。それは剣士にとって最も大切なことよ。鍛錬と思考能力だけじゃない、強い剣士に必要な強い願いというものがあなたには欠けているわ」
「だったら僕はミーナを守りたいよ。ミーナを傷つける何もかもからミーナを守りたい。ミーナさえいればそれだけでいいんだ」
正直にそう言うと、ミーナは目を丸くした。
僕は何か変なことを言ったかな?
「ありがとう、マルコ。それはとても嬉しいわ。でもあたしは強いの。守ってもらわなくたって自分で自分の身を守れるわ」
それは違うよ。ミーナは強いけど、それでも傷つくことだって辛い事だってある。
街を離れた昨日の夜のミーナの涙が、目に焼きついて離れなかった。
それでもミーナはあの時の泣き顔から想像もできないくらいに強い瞳をしていた。まるで小さい子供に言い聞かせるようにはっきりと言葉を紡いでいった。
「マルコは強いわ。だってあたしと試合して手加減しているのは今じゃ父さんとマルコだけよ?」
「……気づいてたの、手加減してたこと」
「当たり前でしょ」
ミーナはいつもの強気な笑顔を浮かべた。
「でもその力はあたし一人じゃなくて、もっと多くの人たちを救える力だわ。きっと騎士団長だった父さんがずっとそうしてきたように。だからあたしは守りたいの。世界中の人みんななんて言わない、眼の届く範囲でいい。人がひどい目に遭ってるのは見過ごせないの。だから助けたい。それにそうすれば次に父さんに会った時胸を張れるでしょう?」
ミーナはとても魅力的に笑った。
そう、ミーナはいつだってそうだった。
言いたいことは我慢しないで言って知らずに人を傷つけているくせに、その実周囲の人をすごく大切にしているんだ。自分を犠牲にしたって守ろうとするんだ。
僕はそんなミーナが大好きで、大嫌いだ。
「そんな事してたらミーナが壊れちゃうよ」
「じゃあ手伝って。マルコなら簡単でしょう?」
挑戦的な瞳をしたミーナは腰に手を当ててぐいっと顔を近づけた。
「さ、決めなさいマルコ。行くの? 行かないの?」
ミーナはいつもそうやって僕に選択肢を一つだけ残すんだ。
ずるいや。
口に出したらきっと、分かってない!って怒られるだろうから絶対言わない。でも今日ここで誓うよ。
ミーナがみんなを守るというなら、僕はみんなを守っている君を守ってあげる。
もう二度と涙を見たくないから。
立ち上がって、闇の中揺れるポニーテールを追いかけた。




