「愛」を伝えると言うこと/歌うこと、小説を紡ぐこと
【愛】
たとえば、あなたが恋をしていたとしましょう。
片思いの相手へ、自分の「愛」を伝えたい。さて、一体どうやって伝えますか。
体育館裏へ呼び出して口頭で、下駄箱にラブレターを入れて、デートの帰り道暗闇の路上で。今時の子なんかはメールで告白することもあるかもしれませんね。いやいやメールなんてもう古い今はLINEだ、なんて声も聞こえてきそうです。
ともかく恋するあなたはあの人へ、何らかの状況、方法で「愛している」だの「好きです」だの「付き合って下さい」と伝えるのでしょう。
それでは、何故あなたは「日本語」で相手へ愛の言葉を告げるのでしょうか。
自分の胸の内にある熱い気持ち、それを表現するならば「愛している」では無くて、「I love you」でも「Ich liebe dich」でも「ti amo」でも、ともかく何でも良いはずです。告白するのに薄い手紙じゃ重い想いが伝わらない、一冊の愛の詩集(自作)を送ろう、という人もいて良いはずなのに、まず存在しない。現代日本でそんな告白をしたら、良くて引かれる、悪くてネットに晒しあげられて永遠に電脳世界に刻まれることになるのは想像に難くありません。
私たちが相手へ告白する時に「愛している」などの日本語を使うのは、なんてことはない、相手が日本人で、日本語が一番伝わりやすいからですね。
私たちは、相手へ愛を伝える、告白をする、という時、無意識のうちに、「相手に伝わること」を大切にします。いくら相手のことを愛しているからと言って、その思いを歌にして弾き語るなんて人は多くありません。その「方法」は失敗する――相手に自分の想いが上手く伝わらない可能性が非常に高いからです。
相手に「愛」を伝える時、私たちは自分の想いをどう表現するか、自分の気持ちを最も正確に表す方法は何か、ではなくどうしたら相手に伝わるか、そのことを考えます。それは私たちが意識しないほどあたりまえなことです。ませた小学生ですら、この事で悩んだりします(「わたる君にコクりたいんだけど、どうしたらいいかな? 手紙かな、直接言った方がいいかな」みたいな)。
【歌】
相手にどうやったら自分の思いが伝わるか。当たり前に考えなければいけないことのはずですが、表現活動においては、これがないがしろにされてしまうことが珍しくないようです。
ちょっとだけ、私の経験の話をしましょう。
私は歌を歌います。クラシックの、所謂「声楽」と呼ばれている奴です。
声楽のレッスンというのは多くの場合マンツーマンで、師弟の様な関係の中で行われます。生徒が上手く表現できない時、無能な教師(それは時に有能な歌手だったりするのですが)はしばしばこう言います。
「もっと感情をこめて!」
この言葉の発展形には「情景を思い浮かべて」や「登場人物の気持ちになって」なんかがあります。
こいつはおかしい。
もしこれが愛の告白ならば、「相手に気持ちを伝えたいの。どうしたらいい」という状況で考えなければいけないのは、たとえば口で直接告げるか、間接的に伝えるか、間接的だとしたら手紙か電話かメールかLINEかFACEBOOKかtwitterか、兎に角「どうやって」伝えるかであるはずです。友達から「雄也君に想いを伝えたいの、どうしたらいいかな?」と相談された時「もっと感情をこめて!」なんて答える人は、まずいない。
さて、それでは他の表現活動、たとえば小説ではどうでしょうか。
小説の内容――自分の頭の中にある壮大な世界観、魅力的な登場人物、ともかく読者に伝えたいものを「愛」とするならば、文章はそれを伝える「手段」と言えます。
歌と比べて小説は「手段」の方に重きを置くアドバイスが多い様な気がする。文章の構成がどうのとか、表現がどうのとか。神経質なものになってくると括弧中の文章の最後には句読点を付けてはいけない、三転リーダは二つ続けてなんてなってくる。その指摘はもっともなのだが、別にそれを破ったからと言って、相手に「愛」が伝わらないという訳ではないはずです。あくまで「相手にラブレターを出す時は、綺麗な紙で丁寧に書こうね!」位のものでしょう。ノートの切れ端に書かれているラブレターでも、もらったら嬉しいに違いなありません。
こんな風に書くと、「小説は『手段』にばかり偏っている、もっと『愛』を深めるべきだ」という主張に見えなくもないのだけれど、そう言うつもりは無い。「愛」とそれを伝える「手段」は、実際には明確に二つに分けることが難しい。これに関しては、次の節で触れようと思います。
【再び、愛】
「愛」を伝えると言う事。伝えようと努力しようとする事。それは「伝えたい相手」に寄り添おうとする事です。だから、「分かりやすい表現」や「伝わる表現」がひとつであるとは限らない。
日本人に愛を伝えようと思ったら「愛している」が適しているし、ドイツ人なら「Ich libe dich」だ。日本人に「Ich liebe dich」と言っても、新手の呪文だと思われるのが関の山でしょう。
あなたがもし、外国の人を好きになって、その人にキチンと愛を伝えたいと思うならば手段は大きく二つあります。その人の話す言葉を覚えるか、その人に日本語を教え込むかどちらかです。「その国の言葉を覚えるための近道は、その国の言葉を話す人を恋人にすることだ」とよく言うけれど、これが本当だとしたら恋の力はすごい。あんなに退屈だった英語の授業を思い出せば、言語を習得すると言うのがどれだけ面倒くさいかわかるはずです。その壁を愛の力はやすやすとうちこわしてしまうのだ!
ところで、ためしに「Ich liebe dich」(イッヒ リーベ ディッヒ、と発音します)と言ってもらえますか。恋人でもペットでも鏡に向かってでも、どんな対象に向かってでもかまいません。それが出来たら今度は、「愛している」と言ってみてください。
辞書を引けば、この二つの文の意味は同じだと書いてあるはずです。でも独語を使う機会が無い人には「Ich liebe dich」は良く分からない、ピンとこないことばでしょう。逆に「愛している」はなんとなくこっぱずかしいし、照れちゃう。
心の中にある愛情が伝えるべき「愛」だとしたら、「Ich liebe dich」と「愛している」は「手段」です。「Ich liebe dich」も「愛している」もただの手段のはずなのに、その言葉をつぶやく時の自分の心情にちがいが出てしまう。
実は、人間は伝えたい「気持ち」があってそれを伝える「言葉」があるのではなく、「言葉」によって「気持ち」が決められてしまう、といいます。
たとえば、私は道産子なので「あずましい」という感情を持っています。「あずましい」は北海道の方言で、安心するとか落ちつくとかそんな意味の言葉です。旅行から自宅へ帰って来た時など「ああ、やっぱり家はあずましいなぁ」なんて使います(本来は「あずましくない」という否定形でつかうのが正しいらしいです)。
この「あずましい」という感情、恐らく北海道出身者以外にはなかなか共感してもらえないと思います。でも、北海道の人たちだけに特別な脳の構造がある訳ではありません。誰もが持っているなんとなくもやもやとした感情の雲の一部を「あずましい」という言葉の枠組みで切り取って使っているだけです。
恐らく「愛」という感情もそうでしょう。人間が生まれながらにして「愛」という個別の感情を持っているのではなく、私たちが皆持っている感情の一部分を「愛」と名付けているにすぎません。
【再び歌】
「感情をもっとこめて!」という指摘はおかしい、と述べましたが、感情がまったく必要ないとは思っていません。
たとえば、「大嫌いな人」の長所を挙げてくださいと言われてもなかなか思いつきませんが、「好きな人」の長所や魅力なら一晩中でも語れるでしょう。
歌でも、ある表現をするために必要なのは具体的な喉や腹筋などの身体の操作です。でもモチベーション――感情が無ければ上手に操作することすらできません。
多分小説でも同じことです。
いかに素晴らしい文章校正能力、豊かな語彙、敏感な感性を持っていたとしても、「小説を書きたい」「表現したい世界観がある」という感情が無ければ、その素晴らしい「手段」を発揮することは出来ません。
【愛の結びに】
人間から人間に対する恋愛であれば、その愛を伝える対象は分かり切っています。
麗しのあの人へ、憧れのきみへ。自分が慕情を抱いている相手に愛を伝えればいい。もしその人がロマンティックな告白に憧れを抱いているのであれば、甘い言葉を重ねればいい。大仰な恋愛が苦手な人には、日々のさり気ない繰り返しの中に愛情をこっそりと隠せば良いでしょう。
それでは、歌や小説は誰へ向いて表現しているのでしょうか。
自分がだれに対して表現活動をしてるか、分かっていない。多分、私も含めて皆さんが悩んでしまう原因はここにあると思います。
あなたが書いているその文章、誰へ向けての文章ですか。
ネット文化に親しみがある若者? それとも既に顔を見知っている学校の友達? お偉いさん方に見せるお堅いお文章? それとも、誰にでもない自分自身に向けた文章?
誰への文章でも構いません。でも、文章の対象以外の人から理解されなくても、それは仕方の無い事だと思わなければなりません。
実家でならリモコンの事を「ピッ」と呼んでも伝わるでしょう、電子レンジを「チン」と呼んでも、ホッチキスのことを「ガシャコン」と呼んでも、玉羊羹を「ぱぁん」と呼んでもかまいません。でも家から一歩でも出れば、その表現を知らない人、たくさんいるんです。
自分の小説、なんか読みにくいって言われるとお嘆きのあなた。その小説は誰に向けて書いた作品ですか。もしかして、気が付かないうちに自分自身に対して、文章を書いてしまってはいませんか。
実は「愛」を伝える時にも良く起こることです。
良かれと思って送ったプレゼント、喜ばなかった……良くありがちです。
良かれと思ったサプライズパーティー、ぐだぐだ……考えるだけで気が重いです。
態度で示した愛情……大抵伝わっていません。
言葉で示した愛情……薄っぺらだと思われています。
良かれと思って、示したと思った、こう言うのは相手に向けて愛情を伝えようとしているのではなく、自分自身に対して愛情を示しているに過ぎません。だから、「頑張ったのに伝わらなかった」なんて嘆いてはいけませんよ。
もうちょっとだけ、加筆する予定。




