第2章 人の世界のオモテとウラ 《3》
タソガレの匂いがする。
そんな夕陽の言葉の意味を考えながら午後の授業を終え、彰二はここまで珍しく何事もアクシデント無く放課後を迎えられた。適当な世間話をそこそこに帰り支度をしていると、夕陽の姿が見当たらないことに気付く。
「……お? え? あら? 夕陽がいないぞ?」
先ほど逃げ込んだロッカーの上にも、教卓の中にも女子生徒の腕の中にも何処にも見当たらない。彰二がほんの少し目を離した隙に忽然と姿を消してしまって、慌てて教室中を探しまわるも見つからない。そこに偶然紫苑が現れ教室の外の方を指差してこう言った。
「あ、仄宮君。さっきの猫ちゃんが屋上の方に行ったんだけど……いいの?」
「マジっすか朝月さん!? ちょ、俺行ってきます!」
「あぁ、そんなに慌てたら」
勢いよく教室を飛び出したところで偶然にも校長先生にラリアットを喰らわせてしまい、落ち着きが無いだの廊下を走るなだの大声で五分ほど説教をされてから彰二は階段を駆け上がって屋上へと向かっていく。普段ならきっちり閉まっているはずの扉が、今日は猫が一匹ほど通れるような隙間が空いていた。
「夕陽、何処だー?」
転落防止用のフェンス以外にほとんど飾り気のないがらんどうとした屋上。ここは吹奏楽部やスポーツクラブの応援団などが練習によく使う場所で、ベンチのような洒落たものは端っこに二つしかない。そのため昼休みは専ら一部の女子に占領されてしまっていてあまり利用する機会は無い。彰二も、前に来た時に友人から奢ってもらったサンドイッチを落として以来来ることは無かった。遠くに沈み掛けた夕焼けがコンクリートの地面をオレンジ色に染めている中、そこにぽつんと影が落ちていた。
「……虎千代センセ?」
ベンチの片側に一人の女性が肩を落として座っているのが見える。肩ほどまでに伸びたライトブラウンの髪に黒いスーツ。平時から覇気に満ち満ちているはずの担任の後ろ姿は、黄昏時ということもあってかかなり疲れているように見える。時折、肩が大きく揺れるのは溜息を吐いているからだろうか。どうにも声が掛けづらい雰囲気の中で「にゃあ」と小さな声がした。
「まったく……もう、お前は幸せそうで羨ましいにゃあ……」
「……あれ、もしかして夕陽か?」
虎千代の隣には尻尾をふらふらと揺らす夕陽の姿があった。虎千代に頭を撫でられるたびに「にゃあにゃあ」と可愛らしい返事で答えながら、特に何を話すでもなく傍に居続けている。そんな夕陽の額を指で突っつく横顔は何処か憂い気で、不意にまた肩が大きく揺れた。
「お前は虐められ……や、そういう経験ないだろうなぁ。子猫にしちゃあ綺麗な毛並みしてるし、何より拾ってくれたのがあの仄宮だしなぁ。アイツは基本馬鹿だけど見てくれ以上に気の利く奴だし、他人に合わせて裏表変えるような奴でもないしな」
「エージか? エージはいいやつだぞ! 私は初めて会った時からエージ大好きだぞ!」
「……世の中、あんな馬鹿ばっかりならもっと上手く回るんだろうになぁ」
「なんか……き、気まずいな」
ドアの隙間から様子を窺ってはいるものの、虎千代の重苦しい雰囲気に呑まれ何となく姿を出し辛い。顔だけそーっと伸ばし、なるべく音を立てないよう細心の注意を払いながら彰二はそのまま耳を欹てる。普段なら聞かないような虎千代の声のトーンはなおも低く落ちていくばかり。
「助けたくても助けられなくて。放っておけばどうして放っておいたと責められて。何か出来るはずの自分なのに、結局何も出来なくて……って、お前に愚痴ってもしょうがないよなぁ。よしよーし、うりうり」
「……うぅー、ごろごろ」
喉元を指でくすぐられて気持ちがいいのか夕陽がうっとりとした声を上げる。……なんかちょっと、エロい。
「ふふふ~♪ やっぱり子猫は可愛いなぁ。ちょーっと大きくなると手が焼けるってのに……まぁ、それは人間も同じか」
「……どうしよ、声が掛けず…………ふぁ、ぶぁっくしあがッ!?」
すきま風に鼻孔がくすぐられ、身を潜めているのにも拘らずド派手なくしゃみを一つ。勢いでヘドバンしたおかげでドアに衝突し、そのまま豪快にキィキィと鳴き声を上げながら鉄製の扉が開いていく。
「あ、エージ!」
「うお、び……ビックリした……って、仄宮!? 何でお前そこに……!?」
「ゆ、夕陽を探しに……おっぶわ!?」
エージを見つけるなり夕陽が弾丸の如き速度で抱きつくと彰二の胸の中に収まる。ほんのり甘い匂いに、微かにだがしょっぱい匂いも混じっている。ゴシゴシと顔を擦りつける夕陽を撫でながら、彰二はベンチの方へと向かっていった。
「今の話、盗み聞きしてたのか?」
「や、そのぉ……すんません。俺が馬鹿って件の辺から」
「……それなら、いい」
「……?」
虎千代はそれだけ残すとそのまま屋上を出て行ってしまった。独り言を聞かれて恥ずかしかったのか。それとも放課後の職員会議だろうか。
「エージ。あの人ね、泣いてたの」
「はぁ? 虎千代先生が? そりゃ鬼の眼にも涙が出るんだし虎にも…………」
夕陽の、予想以上に真面目で真摯な瞳。
その黒い瞳は一切の淀みもブレもなく、今の言葉が嘘や冗談の類ではないと雄弁に語っていた。
「……“タソガレ”の匂いってのは、どうなんだ?」
「やっぱり、する。だから私気になる。あっちに、戻らなきゃいけない」
「戻らなきゃって……でも、どうやっ……ん?」
ふと、ズボンのポケットに違和感を感じ手を入れてみると奇妙な物が出てきた。
「何だこれ……ビニールテープ?」
入っていたのは、ちょうど手の平に収まるサイズの赤いビニールテープだった。ただ、彰二は普段からビニールテープを持ち歩くような人間でもなければここ最近で使った覚えもない。鏡花の悪戯とも考えにくいし、夕陽に見せても特にこれといった反応も無し。
「……と、紙切れも出てきた」
ポケットの奥からさらに一枚、下部に花の模様があしらわれている小さなメモも出てきた。そこにはまるでキーボードで打ち込んだかのような機械的に綺麗な文字で何やら記されていた。
「えっと……あ、これ。今日の夢に出てきたアレか。なになに……?」
夢の出来事が現実に……ということに対する疑問は一切脳裏から消えていた。彰二はそのままメモに視線を走らせる。
「えーっと……
“このテープは、一次的に君の世界とタソガレとを繋げるために僕が用意した特別なアイテムです。使い方は至ってシンプル。そのテープを鳥居の形にテープを張り付けてその中をくぐるだけ。これだけで君たちはいつでもタソガレの世界に来ることが出来るよ。ただし、このテープは基本的に一方通行だから、帰りは他の神社の鳥居をくぐってね。”
……だってさ。これって、あの霖って人が作ったのか?」
「ほへー……?」
どう見ても百均で白と黒と三色セットで転がってそうなビニールテープにしか見えず、彰二は訝しげな目でそれを見つめ夕陽は訳分からんと首を傾げる。本当にそんな簡単にあの世界に行けるのか? そもそも、彰二は“タソガレ”にどういう経緯で辿りつけたのかも不明だというのに。それをこのテープ一つで行けるというのは俄かに信じ難い話である。
「騙されたと思ってやってみるか」
出入り口の反対側の壁に移動すると、彰二はビニールテープをびりっと大きく引っ張り、メモにあった通り鳥居の形に張り付ける。その作業、およそ二分ほど。パッと見、中学校の文化祭でオバケ屋敷を作るクラスが雰囲気を出すために作った背景のようなチープさ。特別光るわけでも無し、壁は以前壁のままである。
「……だよなぁ。んな何処ぞの大百科に載ってる発明品でも無し、鳥居の形にしたってただの壁は壁で」
ぐにゃり。
彰二の手が触れた瞬間、赤いテープを張り付けただけの壁が不意に泥のように歪んだかと思えば彰二の腕がずぶずぶと壁の中に沈み始めた。
「おッ! お!? おぉッ!? なななな、何だッ、これ……ッ!? 引っ張られ……!?」
「あ、エージ! 待って待って!」
冷たいような、温いような、温かいような。
徐々に沈んでいく自分の腕が何とも言いようのない感触に飲み込まれていき、いくら力を込めようともまるで底なし沼に吸い込まれていくかのようにいくら抵抗してもビクともしない。肘が飲まれ、肩が飲まれ、やがて彰二の全身がコンクリートの壁に飲み込まれていく。
「あッ、がば!? なん、じゃッ、こりゃああああ…………!?」
夕日に叫ぶ彰二の声は、生憎と誰の耳にも届かなかった。
ビニールテープ云々は、静岡でエンドレスに再放送されるあのアニメのアレが元ネタです。
個人的に、ドラ○もんよりこっちのほうが好きですけど。
次回更新は11月11日。
所謂ポッキー&プリッツの日。
……日本人って何でもかんでも無理やり関連付けて意味分からん日を作るの好きですよねぇ。
では、待て次回。