第2章 人の世界のオモテとウラ 《2》
「おらぁとっとと座れ座れー、今から出席取るからな。朝月、荒井ぃ。えー井ノ口。金松……」
紫苑を始め、担任に名字を呼ばれた生徒が「はい」だの「うーっす」だのそれぞれ適当に返事をしていく。出席番号順に点呼を消化していき、いよいよ彰二の順番。
「仄宮ぁあッ!!」
「何で俺だけ至近距離でしかも怒鳴るんすか!? しかも近い近い! 虎千代センセーちょっと、しかも何か微妙に汗臭さごがががが!?」
「教室に猫を持ち込んでおいてタダで済むと思ってんのかオイィ!!」
その言葉の通り、今の彰二の机の上には真っ黒い子猫が小さく丸くなっている。……彰二から見ると、机の端に腰掛けているだけなのだが。周囲の生徒もそれを見てクスクスケラケラと小さく笑っている。可愛いとか素直な感想をこぼしている人もいれば、何だか冷めた視線を向けてくる奴もいる。
「百歩譲って道端で助けたとしても、何も学校の教室にまで連れてくることはないだろ。しかもそんな子猫をお前なぁ……」
「エージ、このオバサン誰だ?」
「このおばさんはな、俺のクラスのたんにぎ!?」
夕陽の言葉にうっかり返答したのがいけなかった。舌先噛む寸でのところで虎千代の拳が脳天に突き刺さる。
「ほぉ……先生に向かって“オバサン”だぁ? まだ私は四十もいってねぇよ!」
「ず、ずみまぜん……」
「え、え、エージをぶったな!? こんのぉ~!」
机に顔面が半分埋まった彰二を見、怒りに燃え上がった夕陽が教師に向かって飛びかかる。教師は一瞬驚きはしたものの、その首根っこをひっつかんだ。
「へぇ、拾ってくれた恩義に守ろうってか。可愛……じゃない、勇ましいなぁオイ」
「鬼塚センセー、そのコ私も抱きたーい!」
「俺ももふもふしたいっす!」
「はいはい、休み時間にでもな」
片手でつまみ上げられた夕陽に生徒が怒涛の勢いで押し寄せてくるも、クラス担任の鬼塚虎千代は右手一本で受け止め、そして彰二の傍に夕陽をそっと下ろすと教壇へと戻っていく。
「まぁ、とりあえず……仄宮、とりあえず今日一日はお前が責任とって守れよ。後は……何だ、困ったら私のトコに来い。何とかしてやっから。……他のヤツも、あんまり刺激はしないようにな。どういう経緯かは知らんが、馬鹿の彰二が保護したわけだしな」
「愛してますグレートティーチャー!」
たまたま名字が同じという事もあって、生徒の間ではそのニックネームで通っている。まんざらでもないらしく、本人は呼ばれてもあまり気にしたりはしない。基本的には荒っぽいが正義感に強く、生徒のために尽力し、流行りのイジメ問題にだって真っ向から立ち向かう今時にしては相当にタフな先生。むしろ、そのあだ名に違わぬ教師で彰二も良い先生だと思っているし他の生徒だって同様だろう。
「はいはいありがとさん。……んじゃ今日の連絡と、あとプリントが少しあるから配るぞ」
猫一匹加わったものの、その後は滞りなく朝のホームルームが始まった。
※
猫の存在感というものは彰二が想像していたよりもずっと大きく、そしてそれが子猫ということもあって休み時間は否応なしに彰二の中心に生徒が集まってきていた。
「仄宮君、このコどうしたの?」
「えーっと、道端でダンプカーに轢かれそうになったのを助けて」
「ちっちゃくて可愛いよねぇ。抱っこしてもいい?」
「男の子? 女の子?」
「お前が飼うのか? てか、お前の家ってラーメン屋じゃん。大丈夫なのか?」
「飼い主探すの?」
「何なら私に頂戴よ~」
「うぅ……えぇーじぃ」
息を吐く暇もないほど矢継ぎ早に繰り出されるクラスメイトの言葉に彰二もたじたじで、寄せても返らぬ人の波に夕陽もロッカーの上に逃げる始末。夕陽も人を見たことが無いとまでは言わないが、それまでに比べれば圧倒的過ぎる物量に若干怯えてしまっていて、彰二に助けを求めるような視線を送り続けている。助けたいものの、怒涛のラッシュの所為で身動きすら取れない。しかも、休み時間を消化するたびに他のクラスから物好きやら暇人も顔を出してくる。ヒトのエネルギーをここまで濃密に味わったのは初めてな気がした。
「……つっかれたなぁ」
昼休みになると同時、彰二は夕陽を連れてなるべく人の来ない校舎裏にまで足を延ばしてようやっと一息つくことが出来た。片手には自分で作った中身のないおにぎりが四つ。無論、半分は夕陽の分。鏡花が「お弁当作ってあげるわよ~」なんて言ってたような気がしたが、食べられる物が出てくる可能性は限りなく低いので自ら握った。何故飲食店を経営出来ているのか不思議なレベルだ。
ふと、塩っ気の薄いおにぎりを両手でかじる夕陽の耳がピクリと揺れる。その視線が奥の体育倉庫に向かったので彰二も釣られて同じ方向を向いてしまった。
「エージ、あれ何してんの?」
「……見ない方がいいんじゃないか。俺らには関係ないって」
小柄な生徒が、それよりほんの数センチほど大きい生徒に三人で囲まれて何やらお話している。小柄な生徒の手にはお財布。語るべくもない光景に彰二はそっぽ向いて目を閉じた。
「困った顔、してるぞ。それに……わッ」
「はいはい。良いコは見ちゃいかんいかん。……そういや、猫同士って喧嘩はするけど、動物にもイジメとかってあるんかね」
完全に他人事と一線を区切り、彰二は自販機で買った烏龍茶を一口。イジメについて、良し悪しで言えば間違いなく後者。だからと言って自らが飛び込み解決しようだなんて全うな正義感は胸を過ぎりこそすれど決して実行には移さない。仮に解決したところで自分には何ら得は無い。むしろ、その後自分に降り掛かってくる火の子の方が大き過ぎて大火傷を喰らってしまう可能性の方がずっと高い。
そう常識的に考えた場合、多くの人間は見て見ぬフリを決め込む。彰二もご多聞にもれず、この場を見なかったことにして放っておくことを最善とした。……とある人物の声を聞くまでは。
「んなトコでこそこそと、何してんだ?」
聞き慣れたその言葉が耳朶を打ち、そして半ば反射的に身体を振り向かせる。そこには担任の鬼塚虎千代が件の連中の前で腕を組んでいた。教師の登場に旗色が悪いと、実行犯はそそくさと逃げ、当人ですら怯えた様子でさっさと退場してしまった。
「虎千代センセ……あっ、ちょい夕陽!?」
そしてふと目を離した瞬間に夕陽が飛び出し虎千代の元へと向かっていく。突然の子猫の登場に虎千代は驚くも、ゆっくりとしゃがんで夕陽の頭を撫でた。
「オバサン、強い? 困ってた人、たすかったか?」
「何だ何だこんなトコで。もうアイツに捨てられたか? ……し、しょうがないにゃあ。今日から家にでも来るか? 家にはいっぱいお友達がいて」
「……にゃあ、ってあーた」
「ほ……ほっ、仄宮!? んな、何でそこに……て、このコがいるんだからそりゃそうか」
朝は片手でつまみ上げていた夕陽を抱え(彰二には抱っこしてるように見えている)、虎千代は小恥ずかしそうな顔を浮かべた。
「……そのー、何だ。猫は可愛いよな」
「そういえば虎もネコ科の生き物っしたねっででで!?」
「い、今のは忘れろ! 忘れろよなぁ!?」
「ひゃ、っひゃい」
まるでナンでも千切るかのようにぐいぐいと頬肉を引っ張られ、出てきたのは彰二の間の抜けた情けない返事。と、不意に手が離れたかと思うと虎千代は「はぁ」と軽く溜息を吐いた。その顔は、今まで一度とて見たことのない疲れた表情をしていた。
「っとと、すまん。ちょっとやり過ぎた。痛くなかったか?」
「これぐらい別にどうってことないっすけど?」
「そうか。……まぁ、この辺のさじ加減はなぁ」
「……虎千代センセ、ああいうのって放っておいた方が良かったんじゃないっすか?」
「ばーか。放っておくと今度は別方向から苦情が飛んでくるんだぞ。無視できるか」
「いやでもさ」
言いたいことは分かるよ。
そう言って虎千代は彰二の頭をぺしぺしと軽く叩いた。
「イマの現代っ子は繊細だから難しいけど、でもだからって放っておくってのは私は出来ないよ。教師になったんだから、教え子のために私に出来る事があるんなら出来得る限りチカラになってやりたいじゃないか」
「……教師の鑑っすね」
「今更気づいたか? ……でもまぁ、限度はあるがね」
その言葉を口にした瞬間、彼女の顔に浮かび上がったのは“諦観”に近い色だった。今朝がた見たあの活発な覇気は失せ、何処か無力感に打ちひしがれているような感が見える。
「センセ、もしかして何か」
「鬼塚先生、鬼塚先生。至急、職員室までお越しください。繰り返します……」
「っと、そういえば職員会議あったんだっけ。そいじゃ彰二も、えっと……そのコ、名前は?」
「夕陽だぞ、夕陽!」
「夕陽っす」
「そうか、覚えておく。夕陽ちゃんの面倒も見つつ、次の授業も頑張りなさいよ。じゃあね」
ぱたぱたと忙しない足取りで校舎の方に戻っていく虎千代の後ろ姿を見送ると、彰二は残っていたおにぎりにかぶりつく。
「先生ってのも、大変だよなぁ」
「……あのオバサン、匂いがする」
小さくなっていく背中を見つめる夕陽が、ふとそんなことを口にする。
「匂い? どんな?」
「……タソガレの、匂い。何かジメジメした、くらーい匂い」
「……まさか」
そりゃ気のせいだよ、と夕陽を諭し、彰二は途中でゴミを捨ててから教室への階段を上って行った。
現代の先生って大変そうっすよねぇ……;
次回更新は11月4日。
では、待て次回。
……あーっと、明日ちょこっと活動報告でお知らせあります。