第1章 鬼とパンツと猫耳少女 《5》
「やぁーっと、一段落付けたなぁ……」
夕陽の食事を終えて二階の自室に戻るなり、彰二は思い切り床に寝ころんだ。ほんの僅かの間の休息。この後は二十時まで鏡花と一緒にお店を手伝うのだが、今日は余裕があるから一人で大丈夫とのこと。
「ここがエージの部屋かぁ……」
口の端にご飯粒くっ付けっぱなしの夕陽が一人でメリーゴーランドのようにクルクルと回りながら物珍しげに部屋のあちこちを見回している。見回されてはいるものの、特別物珍しいものを置いてあるわけでもない。至って普通の六畳間。本棚には所々抜けた漫画本が並んでいるし、小さな机には必要最低限の文房具と教科書が転がっている。押し入れの中にはぺしゃんこな布団と、ちょっとヒトには言えない本が少々と。何ら変わらない、ごくごく普通の日本男子の一人部屋である。そんなに目を輝かせるほどのものがあるとは露ほどにも思わないのだが、夕陽はあれやこれやと指を差し彰二に何度も訪ねてくる。
「エージ、あれ何だ?」
「んぁ? それは時計だぞ」
「エージ、あれは?」
「んー? あぁ、そりゃカーテン。……ちょっと穴開いてるけど」
「エージ、エージ! その中、何入ってるんだ?」
「布団とエ……ぉ本、ってオイオイ勝手に開けるなってのに」
「わーい! ふっかふか……じゃない。でもやわらかーい!」
こんな調子で、最終的には折り畳まれた布団にダイブしてごろんごろんとはしゃぐ始末。見ようによっては微笑ましいそんな光景を、彰二は嘆息混じりに眺めていた。
「……少し学が足りないって、そういうことね」
見たもの全てに、まるでそれを初めて見た子供のように全力で興味や関心を注ぐ夕陽のその行動で彰二は何となく察した。夕陽はその見た目通りまだまだ“子供”なのだ。影の神様だとかいう話はさておくとしても、夕陽はまだまだ色々と常識や何やらが足りていない。あの鏡子や霖が手を焼くと言っていたのはこれのことだろう。常識を持たない子供を好き勝手に戦わせていたら、それは胃に穴が開くような思いに違いない。
こっちの世界は、夕陽にとっての言わば社会科見学のようなものなのだろう。
そんな重大事を彰二に任せた理由はサッパリ不明だが、任されてしまった以上何とかするつもりだ。
「ねぇねぇ、夕陽はエージと一緒に寝るの? 寝てもいいの?」
「へッ? あぁ、えー、えっと……」
とは言え、外見上は普通に可愛い女の子。布団からひょいと小ジャンプしたかと思えば、文字通り猫のように夕陽がすり寄ってくる。息遣いが触れ合いそうなほどの至近距離。ほんの僅かに覗かせる白い胸元に微かなふくらみは、守備範囲外とはいえ何というかこう色々と刺激が強過ぎる。
「えーちゃん? お風呂先に入っちゃいなさいよー?」
「わ、わかったー…………ハッ!?」
夕陽の純真無垢な瞳が彰二を見据えて離さない。キラキラと粒子を放つその眼は完全に「私、気になります!」みたいなニュアンス。
「おふろって、何だ? エージ、おふろするのか?」
「え、あー、お風呂ってのは水浴びみたいな……違う違う、お湯。お湯で身体を洗う場所……行為? 行動? と、とにかく身体を洗うことを言うんだよ」
じゃあ、夕陽も一緒に入る!
と、光よりも早い即答が飛んでくるのかと思ったのだが、彰二の予想に反して夕陽は微妙な反応を見せた。ぶーっと頬を膨らませ、若干視線を右にずらす。不機嫌、というより嫌悪感のような色が見える。
「みず……浴び、やー」
「嫌っておま……あ、そうか」
たまーに、ペット系の番組で猫の入浴シーン的なモノの投稿映像を見かけたことがあるが、本来猫は体毛が濡れるのを非常に嫌う生き物である。元々寒さに弱い猫の体毛は水を弾きにくく、一度濡れてしまうとなかなか乾かなくて、濡れたままでいると体温を奪われてしまう。雨が降ってはしゃぐ犬はいても、猫は基本的に水を嫌う生き物だ。それが今の夕陽にも適応されているという事だろう。傍から見ている分にはちょっとだけ面白い。
「お風呂ってまぁ、お湯なんだけど……習性っていうかそりゃ本能だもんなぁ。しゃーないしゃーない。じゃあ俺ちょっと行ってくるからココで待ってろよな」
「え、や、やぁー! エージと一緒が良い! 夕陽もお風呂、行く!」
「行くって、お前なぁ……」
それは寂しがって鳴き声を上げる子猫同然だった。「ついていくー」だの「一緒に入る」だの言っているうちに、気が付けば夕陽は彰二と一緒に脱衣所までついてきてしまった。ベルトに手を掛けた瞬間のこの気まずさといったらない。
「エージ、どうした? 痛いのか?」
「いや、その……だな……」
他から見れば子猫とはいえ、彰二から見れば夕陽は一人の少女なのである。それがある程度情緒の育った年頃の女の子であれば察してくれて出ていってくれるのだろうが、夕陽は完全にお子様。今から服を脱ぐという事を説明すれば理解は得られるかもしれないが、そんな汚れを知らないうら若き少女にボロンと見せびらかすのは何というか、その、一人の男として、非常に紳士的ではない気がしてならない。つーかそれじゃただの変態だ。ロリコン。……違う、断じて俺はロリコンじゃない。
「あらあら、えーちゃんってば、まさか夕陽ちゃんと一緒にお風呂入るのぉ? 酷いわぁ、やっぱり若いコがいいのねぇシクシク……」
「あのさ、実の息子の前で本気で泣くの止めてくれない? なんか罪悪感凄いし、というか若い子ってアンタな……」
「じゃあじゃあ、その罪悪感を払拭するためにもお母さんと一緒にお風呂入りましょっか。私も、最近色々溜まっちゃって……」
くねくね腰を躍らせ接近してくる鏡花に戦慄すら覚えるが、とりあえず今はそれに感けてる場合ではない。問題なのは夕陽のことだ。
「大丈夫よ、えーちゃん」
「え、何が?」
唐突に、ふふふ、と優しいようで何処かで何かを企ててそうな怪しい笑みを浮かべる母親に彰二は首を傾げる。
「夕陽ちゃんなら、えーちゃんの後で私と一緒にお風呂入るわ。よく考えれば、猫ちゃんのお世話とかえーちゃんしたことないでしょう? 私はお父さんと結婚する少し前まで飼ってたからちょっと経験あるのよ。だから、私に任せておきなさい?」
「へぇ……そうなの? そんな話初めて聞いたわ」
「えーちゃんより倍以上生きてるんだから、色々と経験豊富なのよ~♪」
自分の年の功を自慢した鏡花は夕陽の頭をぽふぽふ撫でてから二人で脱衣所から出て行ってしまった。普段から割とハチャメチャなことばかりする鏡花だが、たまにあんな感じに自ら年増ぶることが結構ある。女性としては、相当珍しい部類だと彰二は思う。基本的に女性は、常に若く在り続けたいとか、決して自分の老いを前面に出すようなことはしないイメージがあるのに不思議である。
「……親父と結婚する前、か。じゃあ俺も知らなくて当然か」
ようやく夕陽から解放され、彰二はそそくさと湯船に浸かる。何処ぞの温泉の素が入った薄緑色の湯で顔を洗ってから彰二はぼんやりと天井を見上げた。
「…………ふう」
ひとまず考えるべきことは一つ、夕陽のこれからのこと。
何をどうやって、何処から何処までを教えるべきなのか。妹でもいればもう少し勝手が違ったかもしれないが、いないものを嘆いてもしょうがない。湯船の中でブクブクと泡を立てながら、彰二はそんなことを適当に思い耽っていた。
次の日の学校のことなんぞさっぱり忘れながら。
これにて第1章はおしまい。
そして次から第2章「人の世界のオモテとウラ」になります。
次回更新は10月21日。
では、待て次回。