第1章 鬼とパンツと猫耳少女 《4》
「なーんでこんなことになったんだろうなぁー……」
とぼ、とぼ、と間抜けな効果音が聞こえそうなほどのっそりとした歩調で彰二は元の奈月町を歩いていた。
夕陽を任されてみないか、という突拍子もない話をされてから彼女のボルテージが一瞬で跳ね上がり、腕が千切れそうなほどの勢いで引っ張られているうち、気が付けば彰二は“タソガレ”と呼ばれていた世界から抜け出しあの鳥居の並ぶ場所で棒立ちしていた。
「エージ、エージ! エージの家って何処? 何処なの? ねぇねぇねぇ!」
彰二の隣にはこのスーパーハイテンション状態の猫耳少女こと夕陽が歩いている。ただでさえこんな特徴を持ってて目立つというのに、真横でギャーギャーと騒がれてはたまったもんじゃない。
……と、思ってはいるのだが彰二は首を傾げていた。
今彰二たちが歩いているのは奈月町の中央通り。暮れ時とは言え人の往来は激しく、参考書を片手に歩く女子中学生もいれば、自転車で子供を二人乗せている親子だったり道路工事をする作業員など様々な人が忙しなく動き続けている。にも拘わらず、騒ぎまくる夕陽をことなんぞ歯牙にも掛けていないのか全くの無反応。ただ何度か、小学生の集団が彰二の隣を通り過ぎた時だけ『わー、可愛い~』『おりこうさんだ~』と黄色い声が上がった。……ちょっと照れる。
「で、問題はこれをどう母さんに言い訳するか……だよな」
街道の末端で左に曲がると徐々に景色が住宅街へと移り変っていく。先ほど襲撃されていたあのコンビニは窓ガラスが飛び散ることも無ければレジスターが宙に舞う事も無く至って平穏に営業している。それを横目で眺めながら進んでいくと、やがて正面に赤い暖簾が掛かった一件のお店が見えてきた。暖簾には『斜陽』と書かれている。書いたのは彰二の父親だそうだ。
「見えてきたぞ。アレが俺の家な」
「あれ? あれがエージの家? 何か、良い匂いする!」
「まぁ、一応……ラーメン屋だからな」
匂いは良いんだよ、匂いは。
父親が死んだ今となっては彰二と母との二人暮らし。彰二も店の手伝いはするのだが、いざ包丁を握りるとロクな事が起こらないのであまり気は進まない。……が、彰二が手伝わないとそれはそれで大変な事が起こる可能性が大である。
「? エージ、そっち入り口じゃないよ?」
彰二は店の入り口――ではなく裏口に回り込んだ。そりゃ夕陽を連れているのだから正面から堂々と行くのは気が引けるし他のお客さんの視線も集めてしまう。この店の客は九割が男なので何を言われるか分かったもんじゃない。表の入り口に比べれば相当に質素な裏口を開けると、小声で「ただいま」と告げる。
「おじゃましまああああああああす!」
「アホ、声がデカ過ぎ……うわわ!」
ドンドンドンと床を叩く音を聞き付け彰二は慌てて身を隠そうとするも、背後はニコニコ笑顔の夕陽に阻まれて身動きが取れない。
ゴクリ、と嫌な味の唾を呑みこむ。
床を叩く音が不意に止んだかと思った次の瞬間、
「えぇえええええええちゃああああああああああああん!!」
「うおおっわああああああああああ!!??」
細い廊下の曲がり角からエプロン姿の母親が彰二目がけて飛び込む。成人女性、しかも彰二より6センチも身長も大きいし体じゅ――脳裏を過ぎった思考をぶち壊すかの如く、彰二の胸板に向かって母親の頭突きがクリーンヒット。派手に砂埃をまき上げながら親子揃って下駄箱になだれ込む。
「お帰りぃ~い! 今日も無事に帰ってきて母さん嬉しいわぁ!」
「朝一番にドロップキックかましといて何言ってやがるこの母親はぁ!? 無事だとか大袈裟だしつか、離れ……むごご」
「あれは本当に事故だってぇ。バナナの皮にすべって転んでついやっちゃったのよ」
格ゲーの投げキャラのような強烈な掴み判定に捕まり、無慈悲な鋼鉄超人のような強烈なハグを受け彰二は恥ずかしいやら痛いやらちょっと気持ちいいやら。ありとあらゆる複雑な思考が混ざり合って脳を含め全身が火照っていく。離れたいのに、今迂闊に手を動かすと母のHカップにあたってしまう。いくら親子でも、親子だからこそ、だからとて、絶対に触れてはならぬ禁忌の果実。
「じゃ、じゃ、今日はもうお店閉めちゃってご飯にする? お風呂? それとも……わ、た…………あら?」
母の視線が、ふいと反れて夕陽の方向へとずれる。こんなハイテンションの母親に、あんなハイテンションの少女をぶつけたらどうなるのか。想像するのも恐ろしいような気がするが、その顛末は彰二も予想だにしないものだった。
「あら、あらあら……。えーっと、これはこれは。可愛らしい……黒猫さん、ね?」
「え? あー、そりゃ猫耳も尻尾もあるが、黒猫ってのはちょっとどうなんだ? 普通の女の子なん……」
「……えーちゃん、何言ってるの? えーちゃんがその子拾って来たんでしょう? ちっちゃくて、ふわふわしてて、可愛いわねぇ」
「……? ……??」
互いに噛み合わない話に違和感を感じ彰二は夕陽に視線を向ける。しばらく無言で大人しいなと思えば、何故か不機嫌そうな表情でピンと尻尾を立てている。警戒してる……というより、怒っている?
「……むー! こ、こらぁ! エージから離れろ! 嫌がってるじゃん!」
「あら、あーらあらあら。もしかしてヤキモチ妬いちゃってるのかしら? ニィニィ鳴いちゃって可愛い~。えーちゃんの次の次の……次くらい?」
「え、ちょ、ニィニィ? それはどうなって……ぉあ!?」
裏口の壁に掛けてあった姿見に映る彰二の驚いた顔。
鏡には何故か少女の姿は無く――代わりに、ご機嫌斜めな表情をした一匹の黒い猫が映っていた。
※
姿見に映った夕陽の姿、そして食卓に用意された白飯にかつおぶしと醤油とをぶっかけただけのシンプルな一品、それに加え道中で聞いたあの黄色い声。それらを統合した結果、彰二の中である結論が出来上がった。
「……もしかして、俺以外には夕陽の姿が猫に見えるのか?」
だとすれば先ほどの小学生の反応も頷ける。あれは彰二の横をついていく子猫を見て『可愛い』やら『おりこうさん』だの言っていたのだ。決して彰二の事を言っていたわけではなかった。ちょっとでも喜んだ自分が恐ろしく恥ずかしい。
「エージ、これ食べていいの? すっごいイイ匂いする!」
そして当の夕陽はと言えば、こんな貧乏飯を前に初めてオーロラを見た少女かのような夢と希望で瞳を輝かせている。そりゃ彰二も小さい頃はふりかけご飯でも狂喜乱舞するほど喜んだものだが、ふりかけとこれとじゃグレードに天と地ほどの差があるような気がする。人はこれを五十歩百歩というのだが。
「キャットフードなんてないから、今はそれで我慢して頂戴ねぇ」
「…………普通だ」
台所からひょこっと顔を出し、やがて彰二のほぼ真横に正座するとふわりと優しい匂いが漂ってくる。
彰二の母親、仄宮鏡花。
父親が亡くなってから女手一つでこの店を切り盛りしながら彰二の世話まで、かれこれ十年以上この生活をこなしている。しかし、その姿容に陰りの色は一切見当たらない。出るところはキッチリ飛び出ていて、出なくてもいいところは綺麗に凹んでいる雑誌モデル顔負けのプロポーション。肌の衰えなんぞ何処吹く風。パッと見ようが至近距離だろうと超遠距離だろうと二十代にしか見えないと常連のお客さんに太鼓判を押され、ニコリと微笑めば桜の花びらのような可憐さ。実の息子である彰二としては誇らしいような、でも若干恥ずかしいような気持ちに挟まれ何とも言えない心地。白いエプロンで濡れた手を拭きながら、鏡花はそそそっと彰二の体に自分の体を擦りつけてきた。
「ねぇねぇねぇ? えーちゃんが子猫拾ってくるなんて珍しいわね? 動物とか拾って来たの……うぅん、幼稚園の時のセミ以来?」
「それは拾ったって言わねぇような……てか、近い、近いっての」
「いいじゃないの~、寂しい未亡人にとって親子のスキンシップは大切な癒しなのよぉ? 私としてはお風呂も一緒に入りたいし、お布団も、その奥の方まで」
「……寝ぼけてジャーマンスープレックスホールドやられるこっちの身にもなれよ? てか、風呂も布団も嫌だっての」
「そんなことしてないって~」
ほほほとお口に手を添え上品に笑うが、幼いころから色々と武闘派な鏡花の様子を見ている彰二としては決して笑えない。腕相撲は言わずもがな無敗、建て付けの悪い戸を見つければ鉄山靠で無理やり矯正していたし、毎朝の仕込みの音は“料理”しているとは思えないほど物騒な音が鳴りやまない。昔、冗談で、
『かわらわりが見たい!』
と両親に言った時、父親は一枚を割るので精々だったのだが鏡花は十二枚を左手の手刀で一刀両断して見せたこともある。これ以降、決して母には逆らうまいと心に刻んだ。
「でもでも、お母さんもちょっと困るのよ。ほら、えーちゃん分かるでしょ?」
「まぁ……なぁ」
少し前に夕陽に話したばかりだが彰二の家はラーメン屋。母が言わんとしていることは分かっている。食品を扱うお店で子猫――少なくとも夕陽の見た目は猫らしいから――を飼うのは衛生的にどうかという話だろう。
「……俺の部屋から出ないようにすればいいだろ。そうすりゃ調理場の方には出てこないから問題ないんじゃ」
「まぁ! まぁまぁ……えーちゃん、それはいくらなんでもちょっと……」
彰二としては無難な提案だと思ったのだが、鏡花は眉根を寄せて困ったような顔を浮かべる。別に室内飼いの猫なんて珍しくも無かろうに何故か鏡花は難色を示す。夕陽は元気に箸でねこまんまかっ込んでます。
「そんな監禁みたいなことはダメよぉ。猫ちゃんは寂しくなると見境ないし壁だってバリバリやっちゃうし……それに、えーちゃんの貞操が心配で心配で……」
「ね、猫相手にてて、貞操ってなオイ!? しかも見境ないって……ほら、夕陽は子猫……だから、部屋の中の方が安全じゃ」
「ふぅん……“夕陽”ちゃん、ね」
その名前を口にしたその一瞬、鏡花の瞳がすぅっと細まったことに彰二は気付かなかった。逆にうっかり名前を口にしてしまったことを後悔していた。
「もう名前まで決めちゃってるだなんてえーちゃん可愛いわぁ。その優しさを、九割ぐらいこっちに向けてくれたらお母さん……今夜から、や、さ、し、く、シテあげるわよ?」
「……ガチで、やめてくれ」
本気を出した鏡花の妖艶な眼差しはあらゆるオトコを落とす。
前にお客さんから聞いたそんな与太話をふと思い出して、彰二はマジだと薄ら寒さを覚えながら確信した。
だいたいの女キャラが巨乳になるのは何ていうかこう……うん、勢い。
鉄山靠とか俺も使えるようになりたい。
次回更新は10月14日。
では、待て次回。