第1章 鬼とパンツと猫耳少女 《2》
誰しも『自分だけのお気に入りの場所』というものが一つや二つあると思う。
街を歩いている時にたまたま見つけた、見た目はちょっと地味だけど小奇麗な喫茶店だとか。大きな公園の端にある木陰の下のベンチだとか。自分だけが知っている、自分だけがこっそり使える、そんなちょっとした優越感を抱きながら過ごせる場所。
不幸の塊を背負って生きる彰二にもそんな場所があった。
場所は学校からほど近いところにある夜龍山。
その昔、飢饉に困っていた村人が夜にこの山で七日七晩祈祷を続けていると、何処からともなく金色の龍が舞い降りて村に一時の豊穣を与え村人を救った――という、何処かで聞いた覚えのありそうなモノにアレンジを加えたような伝承を持つ標高七十メートル程度の小高い山で、盆や正月ともなればお祭りやら初詣やらでそれとなく賑わう神社もある。
緩い傾斜の石段を上って行けばやがて本殿が見えてくる。その名の通り“龍”を祀っていて、手水舎や屋根瓦に龍をあしらった装飾の類がよく目立つ。彰二のお気に入りの場所は、この本殿の裏手にあるかなり傾斜のきつい獣道を上った奥、くすんだ鳥居が六つ並ぶ石段を越えたその先にある。
「はぁ~あ、今日も疲れたなぁ……」
山の頂上に当たるこの場所には小さな社がぽつんと一つだけ、まるで神様に忘れ去られてしまったかのように寂しく建っている。屋根瓦はボロボロと剥がれ落ち、クモの巣は縦横無尽に張り放題。社の中は空っぽで、代わりに大量のホコリが我が物顔で跋扈している。誰からも忘れられ、何を祀っていたのかさえ誰の記憶にもとどまらず、何の信仰もされなくなってしまった寂しい社。ここが、彰二のお気に入りの場所である。初めて訪れたのは亡くなった父親と一緒の時で、その頃から既に人気の類はなく、この時の彰二の印象は神社というよりかは秘密基地のような感覚だった。
「おとーさん、ここは?」
「ここはなぁ、俺とお母さんと初めて出会った思い出の場所なんだ」
「……おかーさん、ほーむれすだった?」
「幼稚園児のくせに何処でんな言葉を!?」
父親が母親との出会いを皮切りに惚気話を始めたのは覚えている。
遠い真夏の昼下がり。
あまりに惚気話が長過ぎて、彰二は腕と足と頬と合計七か所以上蚊に刺されてその日は眠れない夜を過ごした。父親は何処も刺されていなかったのに、何故彰二だけ。
「……あれ」
別に、本当に彰二だけが自由に使える場所ではないのだから特別不思議ではないのだが、この日は珍しく先客がいた。
黒いビジネススーツで、徐々に生え際が後退しつつある頭が特徴のサラリーマン。セカンドバッグを膝に乗せ、傍らにはビールの缶が何本か無造作に転がっている。くたびれたシャツやネクタイやらを見る限り、仕事帰りにここに寄り道してだらしなく酒盛りしてた、という風に見える。
彰二の登場にサラリーマンはあからさまに顔をしかめた。
「なぁに見てやがんだ」
「や、別に」
「……ふん」
独りの酒盛りを邪魔され酔った顔に不機嫌な色が加わり何とも邪悪なオッサンが出来上がる。何を言うでもなく立ち上がり、サラリーマンは空き缶を蹴散らし擦れ違いざま酒臭い肩を彰二に強引にぶつけてきた。ぶつくさ悪態を吐きながら覚束ない足取りで石段を降りていく禿頭を彰二は生温かい眼差しで見送る。
「うへぇ……大人ってのは大変やねぇ」
ほとんど他人事のように切って捨て、彰二は転がった空き缶を適当に拾い集め一カ所にまとめておく。少々手がビール臭くなってしまったがここには枯れた手水舎しかないのでしばしの我慢。そうして改めて彰二は先ほどサラリーマンが腰掛けていた場所に寝そべった。
ライトオレンジ色の木漏れ日、そう遠くない秋を匂わせる涼風。
目を閉じていると一日の疲労や降りかかってきた不幸の類が浄化されていくようで心が落ち着いていく。父親にこの場所を教わって以来、彰二は何かと理由を付けてここに寄り道をしていた。友人とわいわいするのも良いが、こうやって一人でゆっくりと過ごす時間も同じように良いものである。昔は、もう一匹道連れがいたのだが。
「今も元気にしてるのかなぁ」
彰二にとって忘れられない大切な友人。
ここに初めて一人で来た時に出会って、それから暫く遊んで、そして突然別れてしまった真っ黒い野良猫。妙に人懐っこくて、彰二を見るなりにゃごにゃご喚いて抱きついたりと、えらく積極的な猫だったのを覚えている。今も野良ライフをエンジョイしてるのか。それとも誰かに拾われセレブリティ溢れる生活を営んでいるのか。……既に死んでしまっているのか。少々残念だが、今の彰二には知る由もない。
「……やば、ウトウトしてきた。ちっとだけ寝る……か」
今日一日の疲労が急に睡魔と共に圧し掛かってきて彰二の瞼が重くなる。
急ぐ理由も無し、彰二はそのまま睡魔に身を任せてゆっくりと瞳を閉じた。
・ ・ ・
「ん……、ふわ……あ、あぁ。よく寝てたな」
気が付けば午後六時四分、時間にして小一時間ほど眠っていた。
未だ夏の名残を残す夕焼けの強烈な赤さに照らされ、彰二は大きな欠伸を一つこぼした。この後は特に予定も無し、コンビニにでも寄り道してから帰ろうか。隅に置いてあった空き缶を拾い集め、若干寝ぼけた頭から全身に信号を流しながら石段を降りていく。
「…………?」
六つ並んだ鳥居の前で、何故か彰二の足がピタリと止まった。
自分でも足を止めた理由は分からない。
そういえば、首の後ろを蚊に刺されて痒いような気もするが流石にそれを理由に立ち止まることもないし、突然の尿意だとか便意だとかそれでもない。忘れ物……いや、それもない。あれやこれやと思い起こそうとするも結局ただの気のせいだと決め付け、彰二は再び歩き出し鳥居をくぐっていく。
一つ、二つ。
三つ、四つ。
五つ、そして六つ目の鳥居をくぐったその瞬間、ざあっ、と身体が吹き飛びそうなほど激しい風が吹き荒れた。頭上では木々の揺れる音が潮騒のように響き渡り、遠く空の果てでカラスが同じ鳴き声を山彦のように繰り返す。それは、秋の訪れを感じさせるような何とも風情のある情景。彰二はそんな風に呑気に思っていた。
「今日の飯は何だろうなぁ。……まともに食えるもんが出ればいいけど」
本殿を通り過ぎ、緩い傾斜の山道を駆け足気味に降りていく。麓にある公民館の前を素通りしてそのまま中央街道に抜け出て見慣れた路地を歩きだす。
――異変に気づいたのは、最寄りのコンビニエンスストアに立ち寄ろうとしたその時だった。
「……ん? んん?」
店内が見えない。
それは彰二の視力が急に落ちたとか、通りすがりの美女に『ドーーン!』されたとかではなく、奇妙なことに店の中が真っ黒いペンキで満たされてしまっているかのように黒一色に染まっていた。窓に映るのはそこそこ高身長な自分の姿と後ろのアパートやら何やらのみ。自動ドアの前で飛び跳ねようとも全く反応が無い。
「何だ……こりゃ? どうなってんだ?」
彰二の脳内に浮かんだ答えと言えば、まだ自分が夢の中にいるのか、それとも斬新過ぎて彰二の理解が遠く及ばないような店内改装を絶賛実施中なのかの二択。
「……まぁ、改装中ならしゃーないか? コンビニって二十四時間営業だった気がするんだがなぁ」
何故か後者を選んだ彰二はそのままくるりと踵を返し別のコンビニに向かうことにした。
この時点で、彰二はまだ夢の中にいるのだろうと決め付けていた。
周囲を見回しても人の子一人見当たらない。無論、猫や犬も虫の一匹も。自動販売機も全て“売り切れ”表示だし、主婦でごった返す時間帯のはずなのに完全無人で気味が悪いほどに静まり返ったのスーパーマーケット。その全てが夢なら説明が付く……が。
「どう……なってんだ?」
流石にここまで来ると、これが例え夢であったとしても不思議に思えてならなかった。
いくら歩いても誰ともすれ違わない。
人の気配や息遣いが完全に失せてしまった街。
十年も過ごしているはずの街並みがこれほどまでに不気味で、言いようのない違和感を覚えるなど、彰二の人生の中でも初の出来事だった。
誰か、誰でもいいから人の姿が見たい。
無意識のうちに早足になる彰二の視線の先で、不意に陽炎のようにゆらりと人影が現れた。
「おわ!? ……ってあ、アンタは」
彰二の前に現れたのは、先ほど一人で酒盛りをしていたあのサラリーマンだった。覇気の薄れた禿頭に小脇に抱えたセカンドバッグ。何処か焦点の定まっていない目を震わせながら千鳥足でふらふらと歩いている。そして奇妙なことに、何故か彼の身体は半透明に透けていた。
「……え? えー、えっ……と……?」
文字通り、彼の身体は半透明になっている。
それは例えるなら、レースゲームのタイムアタックで出てくるゴーストのように、着の身着のままの状態で手にしたバッグまでもがそのまますぅっと透けている。状況が状況なので彰二もどう接するべきなのか躊躇してしまい、とりあえずじっと相手の様子を窺うことにした。サラリーマンは虚ろな眼差しのまま何かを呟いているようだった。
「って……だってなぁ……俺だって……」
「ど、どうしたんだよ……オッサン? 顔色悪いぞ? 何かこう、今にも……お前、消えるのか……的な……?」
彰二の言葉はほとんど聞こえていないらしく、彼はそのままとぼとぼとかなり遅い歩調で道を歩きだす。また肩がぶつかる――と思った瞬間、彼の身体は彰二の肩をすり抜けてしまった。
「なっ、ひえぇ……ッ!?」
彰二は驚きのあまり飛び退いてしまったが、それにも構わずに彼はヘ○ィブーツでも履いてるかのような鈍重な動きで進んでいく。一歩、一歩と。やがて彼の身体は彰二が寄り道しようとしていたコンビニの前でふっと止まる。そして突然頭を抱えその場で蹲ってしまった。
「お、おいおいおい!? 大丈夫なのかアンタ!? おいってば!」
「…………い」
「え、あんだって?」
「うるさぁあああああああああああああああああああああいいいいいいぃぃぃいぃいいいぃいいいい!!!!」
次の瞬間、サラリーマンが町内中にビリビリと響き渡るような雄たけびを上げたかと思うとその身体から黒い霧のようなものが、ぶわっ、と噴き上がった。黒い霧は彼の禿頭から擦れた革靴までをも飲みこんでいくと徐々にその大きさを増していく。コンビニの屋根にまで至るか至らないかの所で勢いが止まると、やがて黒い霧の中から角の生えた巨人がゆっくりと姿を現した。
……え、ちょっと待って、何が起こってるのかワカラナイ。
「は、はあぁ……ッ!?」
産声かのように張り上げた、世界を震わすほどの重くけたたましい咆哮。
額から斜めに生えた鋭い角に、どんなにドーピングしたって絶対こうはならないだろうと思うほど筋骨隆々の歪んだ巨体。それは巨人ではなく――“鬼”。
突如として彰二の目の前に現れた“鬼”は何を言ってるのかさっぱり分からない怒声を張り上げながら、手近な場所にあった『自転車及び歩行者専用の標識』を選ばれし伝説の勇者が聖剣を引っこ抜くような感じでコンクリートからぶち抜くと、そのまま破壊衝動に身を任せコンビニの壁に向かって標識を思い切り叩き付けた。
ガシャン! バリバリ! バキィッ、バキンッ!
圧倒的暴力を以て店内に侵入した“鬼”はなおもその力を振りかざし叫び続けている。
彰二は、目の前で起こっている出来事がさっぱり理解出来ずにいた。
「な、何だ……これ……?」
舞い上がる砂埃、飛び散るガラス片。明後日の方向にぶっ飛んでいくレジスターに金庫に、あれやこれや……などなど。
見知った建物が目の前でいとも容易く壊されていく。そんな光景を目の当たりにした彰二はただただ呆然と立ち尽くすばかり。
何やってるんだ? アレは何なんだ?
至極当たり前の疑問が胸を渦まくのだが、これら全てを夢の一言で片づけてしまうのには少々と無理があった。
試しに頬をつねる。……ちょっとビビって弱めにつねったのでそんなには痛くない。しかし鬼は消えず依然として暴れ続けていて、豪快な破壊音が鳴り止むことはなかった。
「ど、どどっ、どうする……俺!?」
決まってる、三十六計逃げるに如かず。
いくら夢だからと言って鬼と戦う勇気なんてモノはないし、妙に現実味のある夢(で、本当にいいのだろうか?)の所為もあって戦おうなどとはこれっぽっちも思えなかった。
そうと決まれば善は急げ。
彰二はゆっくりと右足を引いて、次いで音を立てないようにと左足をそろーりと動かしたところで、
――パリン♪
お約束かのように、彰二は地面に落ちていたガラス片をクリアな音色を立たせながら見事に踏み抜いた。
“鬼”の動きがピタリと止まる。
彰二の動きもピタリと止まる。
“鬼”の首がぐるりとこちらに向き直る。
彰二の額からナイアガラ顔負けの汗が流れる。
きっちり四コマ分の寸劇。オチは、火を見るよりも明らかで。
「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!」
「うおわあああああああああああああああああああああああ!?」
彰二を見つけた“鬼”は折れ曲がった標識を片手に咆哮を上げ、コンクリートの地面を足でぶち抜きながら突進してくる。彰二は出来得る限りの最速入力でクイックターンを決め込み、文字通り脱兎のごとく全速力で駈け出した。
「なな、ななっなななな、何なんだよぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!??」
追いかけられる夢は仕事や何かで精神的に追い詰められている時、もしくは自分に何か後ろめたい要因がある時によく見ると聞いたことがあるが、別に学校で追い詰められるほど学業に勤しんでいなければ後ろめたい思いなんぞもこれっぽっちも無い。
……あれ、むしろソレが原因?
だからとて、よりによってあんな凶暴な“鬼”に追いかけられるとはどういう了見か。
「くっそぅおおおおおおおおおおおおおおおお!! ……ッんのあ!?」
逃走経路も何も考えず我武者羅に走り過ぎて周囲を全く見ていなかったのが運の尽き。
元よりそんな運も無いのだが、彰二はあろうことか路地の行き止まりに辿りついてしまった。見えるのは電柱と変な張り紙と、後ろで轟々と唸るような“鬼”の呼吸音。
「……ゆ、夢なんだよな? 夢なら別に」
ガゴォォオオン!
彰二の足元に突き刺さった一方通行の標識が凄まじいまでの衝撃波を生み出し、彰二の頬につーっと赤い何かが滴った。しかもピリッと痛いオマケ付き。触れればほんのりと温かい始末。
「ゆ、夢だ(と思ってた)けど、夢じゃなかった!? って嘘だろおいぃ!?」
正真正銘の現実世界。
そうと判ってしまったが故に、彰二は自分の心臓はがバクバクと忙しなく暴れ回り、今の今になって事の重大さに気付いてしまった。
袋小路に追い詰められ、正面にはアニメやマンガでしかお目に掛かれないような“鬼”が構えている。こういう場合、“鬼”はまず間違いなく彰二を殺しにかかってくるだろう。“鬼”というのは須く破壊と恐怖の化身。そんなヤツがここまで来てまさか愛の告白だなんて言わないだろう。
「好きです、付き合ってください!」
この土壇場に、しかもそんなバイオレンスにダイナミックな告白はノーサンキューだ。あんなゴツい顔で言われても大迷惑この上ないし、いやそもそも女子じゃねぇ。
「あ、あばばば……」
どうする、どうする。
彰二のライフカードはここに至る道中で全部落としてしまったらしく何処にも見当たらない。あったところで『D』『E』『A』『T』『H』のファイブカードか。
目の前の“鬼”が一歩踏み込むたび、舗装された道路がクッキーを砕くかのようにあっさりヒビ割れていく。そのたび、彰二もジリジリと壁際に追いやられていく。背中に、ピタ、と冷たい感触が触れた瞬間、“鬼”は勝鬨を上げるかの如く叫んだ。
「ゴァアアアアアアアアアア!!」
「嘘だろ……こ、こんなトコで、まだ……女子と付き合っても無いのに、誰にも告ってもないしお泊まりだってその……《 自 主 規 制 》……も、してないってのに死んじまうのかよ!?」
逃げる場所も無く、彰二はただ殺されるのを待つのみなのか。
――ぱん、ぱん、ぱん。
諦めかけた彰二の頭上に、不意に拍手のような軽い音が三度響いた。
音はそのまま一定のリズムを刻んだままゆっくりと近づいてくる。
-ぱん、ぱん、ぱん。
音はやがて彰二のほぼ真後ろにまで達し、不意に彰二の元に小さな影が差し込んだ。
「おーにさん、こっちら! 手の鳴るほうに! にっひひひ!」
その瞬間、“鬼”と彰二は弾かれるようにして空を見上げた。
彰二の視界の中に、純白に水玉模様という王道を往くパンツが颯爽と飛び込む。不思議と、色気は一切ない。
そしてハッと気が付けば、彰二の前に小さな女の子が立っていた。
「え……や、え? え?」
サラリーマンが“鬼”になって以来初めて見つけた女の子だが奇妙な違和感があった。
背丈は彰二よりもずっと小さい、外見だけで判断するなら小学校低学年程度と見ていいだろう。夕焼けに照らされたセミロングヘアは艶やかに輝き、花柄の刺繍が入った真っ黒いワンピースから白く綺麗でありながらしなやかな肉付きの手足が伸びている。そして、ふらりふらりと女の子の臀部で揺れる黒い尻尾に、頭上でぴこぴこ揺れる三角の耳。彰二が呆然と立ち尽くすその前で、女の子はズビシィ! と集中線必至な勢いで“鬼”を指差した。
「みーっけた! “鬼”さん、みーつっけた!」
「……いや、いやいやいや!? 待て待てお嬢ちゃん!? 危ないから逃げっ」
「どぉうりぃやぁああああああああああああああああああああいぃッッ!!」
彰二の制止なんぞ一切聞かず、女の子は路地の壁を蹴って華麗に飛び上がり、あろうことか件の“鬼”に向かって少女らしからぬ豪快で強烈なローリングソバットを叩き込んだ。
「んな……!? は、えぇええええ!?」
彰二が驚いたのはその先。
女の子の蹴りを受けた鬼は、あらかじめワイヤーでも仕込まれていたかのようにド派手に真横に吹き飛んでいき、名も知らぬ民家の塀に『アタマ隠してシリ隠さず』状態でめり込んだ。バラバラと崩れる瓦礫が“鬼”の尻に積もり、恐ろしいまでにシュールなシーンが出来上がる。顎の骨が外れてしまったかのようにあんぐりと口を開ける彰二。そして、自慢げに胸を張る女の子。
……やっぱりこれ、夢なんじゃないかな。
「えー? もう終わり? こんなんじゃつまんないよぉ! もっとアタシと一緒に遊ぼうよー? ねぇーねぇー! ねぇーってばさー?」
「な、なーに言ってんだ……アイツ……」
一方的なまでの完全勝利を収めただろうに女の子は不満げに頬を膨らまし、耳はぴこぴこ揺れて尻尾はぶんぶんと音を立てて揺れている。アレだ、飼い猫が他所の人間に名前を呼ばれて『うっせーなーもー』と苛立たしげに尻尾を振るのとよく似ている。
サンダルでパシパシと可愛らしい地団太を踏む女の子の声に応えるかのようにして“鬼”が瓦礫の中から姿を見せまた咆哮を上げ――たのだが、何故か、女の子を見るなり途中でそれを止めてしまった。
“鬼”の瞳が、揺れている。
圧倒的なまでの体格差を有しているのにも拘らず、何故か“鬼”は女の子に恐怖していた。
ソバットの一撃が効いたのか?
突然の不意打ちに面喰っているだけか?
まさか“鬼”が少女恐怖症とは言うまいな。
しかし“鬼”の足は竦み、滑り、一歩、また一歩とその足を後ろに後ろにと引いている。逃げようとしている、というのは彰二から見ても一目瞭然。
それを見た女の子は、ニィッ、と口の端を持ち上げワイルドな笑顔を浮かべた。
「ふふふ、逃げるの? 逃げるの? いいよ~逃げても。どーせ、アタシから逃げれるわけないもんね」
「グゥ、ググゥ……」
完全に怯えきった声を漏らし、“鬼”は恥も何もかも一切合財放り捨てるようにして路地を駈け出した。ドスドスと重い足音を響かせる背中は何とも言えないシュールな気配がたっぷり漂っていて、助かったと安堵するべきか滑稽だと苦笑するべきか彰二は数秒悩んだ。
“鬼”は逃げ出した。
これで当面の危機は去った。
それなのに、女の子は中身がほとんど見えるようなかなり際どい角度のクラウチングスタートの構えを取った。
「よーい…………どーんッ!」
「え、あ、オイ! お前何やっ――!?」
サンダルが地面を擦る音を鳴らすと同時、女の子は撃ち出された弾丸のような猛烈な勢いで駈け出し、あろうことか逃げる“鬼”の背中目がけて突っ走りだした。短距離走選手のような瞬発力で叩き出された初速はなおも加速を続け、あっという間に“鬼”の真横に並んでしまう。“鬼”の表情が見る見るうちに青ざめていく。自動車で峠を彼女と走っていたらマッハで走るババアが真横に肉薄していた時のような、そんな絶望的な表情だ。
「おっそーい! そんなんじゃ勝負になんないよ!」
“鬼”からしてみれば、もはや逃げるも何もあったものではなかった。
力でも勝てず。
足でも敵わず。
中身のない頭ではそもそも勝負にならないし、もはや他に勝負になる物も何も無し。
そうしてあらゆる戦意を失い立ち尽くす“鬼”に対し、黒いワンピースの女の子は圧倒的な速度をそのままに電柱を垂直に駆け上がりひらりと宙空に舞い踊る。まるで、超有名なバッタのヒーローの決め技のように。
「ぶぎ:ほーりゅーついッ!!」
パンツが見えようがお構い無しのアクロバティックな動きで落下しながら、女の子は裂帛の気合と共に体重も速度も何もかもを乗せた渾身の右足を“鬼”の顔面に叩き付ける。
バシィンッ! と強烈なヒット音が彰二の耳朶を打つ。
止め処ない勢いを乗せた一撃はそのまま“鬼”の頭ごと地面に突き刺さり横断歩道の白線を粉々にしながら小規模なクレーターを生み出した。異能力バトルストーリーのワンシーンを、自分よりも小さな女の子が“鬼”を相手に繰り広げている。彰二は完全に置いてけぼりを喰らっていた。なるほど、これが俗に聞くヤ○チャ視点というものか。
「わーいわーい! 勝った勝ったまた勝った! 今日の鬼ごっこも、アタシの勝ーち!」
「お、鬼ごっこ……だぁ? どう見てもそんな平凡なお遊びには見えなかったぞ……?」
そんな彰二の呟きに、女の子の耳がピクリと小さく揺れたかと思うと二人の視線が交差する。
彰二も女の子も、二人揃って「あ」とオートで口を開けてそのまま声を漏らす。
「……そーいえばさ、おにーさん誰? 誰だれ? 何でここにいるの?」
「え? あいや、俺は、えーっと……」
トトトンッ、と珍しい玩具を見つけた子供そのものの動きで女の子が彰二の元へと駆け寄ってくる。ふわ、と風に乗って微かに香る甘い匂い。つぶらな瞳にほんのりと上気する頬は女の子の純粋さを物語り、もう五年か十年したらまず間違いなく美人になること間違い無しのあどけない絶世の姿容。思わず、彰二の胸がドキッと小さく脈打つもすぐさま首を振る。俺はロリコンじゃない俺はロリコンじゃない俺はロリコンじゃない。
「……くんくん」
何も口に出さなくてもいいような一言を添えながら女の子は彰二の周りをぐるぐる回りながら匂いを嗅ぎ始める。どうしよう、デオドラントスプレーの類は何も持ち合わせてないし使ってない。匂うんじゃないかと懸念する彰二の予想に反し、女の子は何故か夜空に打ち上がった花火のようにパァッと大輪の笑顔を咲かせた。
「アタシの好きな良い匂い! おにーさんおにーさん、お名前は? 聞いてもいい? いい?」
「名前? え、彰二だよ。仄宮彰二。十七歳で、独身の」
何故こんな小さな女の子に独身アピールしたし仄宮彰二。
「えーじ……えーじ……うん、うん! アタシ覚えた! ほのめや、えーじだな! エージ、エージって呼んでもいい? いいよね? はい、けってーい! わーい!」
「お、おうよ。よ、良きに計らえ? ってか、『ほのみや』、だからな?」
「んっふふふー! エージ、エージ! ほにょみや……エージ! くっふふふふ!」
心底嬉しそうに頬を染めながら何度も何度も彰二の名前を、時にフルネームで呼ばれこそばゆいような照れ臭いような何ともいいがたいくすぐったさが胸を走る。
鯉、じゃなくて恋……でもないこの奇妙な感覚は、例えるなら初めて友達が出来たような甘酸っぱい心地。名前を何度も何度も呼びながら彰二の周りをぐるぐる回り出す女の子に、どうしたもんかと彰二は困り果てる。
「えーっと、じゃあ……なぁ、お前の名前は」
「遅いぞ夕陽。“迫鬼”を始末したらすぐに報告しろって教えただろう?」
突如として響いた気だるげな女性の声に彰二と夕陽と呼ばれた女の子が同時に振り返る。そこには薄く黄ばんだ白衣をだらしなく羽織ったメガネの女性が電柱にもたれながら腕を組んでいた。
「あ、キョーコさんだ。やっほー」
「まったく……それじゃ遊んだオモチャをキチンと仕舞わない餓鬼じゃないの。私は面倒な事はしたくないのに……って、ちょっと。そこにまだ“鬼”が残ってるじゃないの」
そう言って白衣の女性は粗雑に髪を掻きながら彰二の方を指差す。
“鬼”? え、俺が?
訳が分からず呆ける彰二の代わりに、件の女の子が「ちがうよー」と首を横に振った。
「このおにーさんは“鬼”じゃないよ。ほのみゃ、エージっていうの」
「はぁ? 馬鹿なこと言ってないでさっさと始末をしなさい。私も暇じゃないんだから」
「いやいやいや、この女の子の言ってること間違ってないから!? 俺普通の人間だよ! アイアムジャパニーズ!」
「……はぁん? ただの人間がここに居られるわけないじゃない。ここは“タソガレ”なのよ? ただの人間が姿を維持できるわけが……」
「ど、どどどう見たって俺は人間だろ! 角も無い! あんなバケモノみたいに変身もしねぇし……せ、生徒手帳もある! …………嘘、ない!?」
自信満々に叫んだものの内ポケットには肝心の手帳が見つからず何故か一円玉が出てきた。あちらこちらのポケットを探してみたものの結局手帳は見つからず、白衣の女性からは訝しげな視線を浴びるばかり。挙句、天を仰がれた。
「……おいおい、勘弁してくれ。面倒な君に加えて人間までだなんて…………ったく、仕方ないな」
そう吐き捨てるように言うと女性はくるりと踵を返し歩き出す。ぼんやりとそれを見送っていると、振り返りもせず手招きされる。
「夕陽も、そこの……自称人間君もこっちに来なさい。立ち話するのもめんどくさいからな」
「あーい」
「……お、俺は人間だからな! 誰が何と言おうとにんげ」
「わかったわかった。ちゃんと説明してやるから黙ってついてこい。ただの“人間”」
長い長い影を引きながら歩く女性の曲がった背中を、彰二と女の子は揃って追いかけ駈け出す。
遠く空を染め上げる夕日は、なおも燃え上がる炎のように赤く紅く照り続けていた。
とりあえず、章のタイトルにある『鬼』と『パンツ』と『猫耳少女』が全部出ました。
作者も若干戸惑い気味なくらいテンション高めなお話ですけど大丈夫でしょうか?
読みにくいトコとかあればいつでもお気軽にどうぞ。
次回更新は9月30日。
では、待て次回。