第3章 四ツ足ノ足音 《10》
奇しくも決戦の舞台となったのは――夜龍山。
お気に入りの場所へと至るその途中にある六つに連なった鳥居の傍に鏡花は着地すると、首を動かし周囲を見回す。先行していたはずの夕陽の姿も無く、ただただ物悲しげな色の風だけが吹くばかり。
「アイツ、来てないな。夕陽もいないし」
「夕陽ちゃんならすぐに来るわよ。……たぶん、ちょっとご機嫌斜めになってね」
その言葉の意味を彰二はほんの数分後に理解する。
手水舎の縁に腰を掛けて待っていると、石段の方向から夕陽が文字通り飛んできて参道の上にサンダルの音を響かせる。そして鏡花の言った通り、大好きな鬼ごっこをしていたであろう夕陽の頬は膨らみ珍しいことにぶつくさと何やら悪態をぼやいていた。
「んもー、何なんだよー! 全然おもしろくなーい!」
「ほらね」
「……ぅあ! エージぃ!」
彰二の姿を見るなり、膨らんでた頬がしゅっと萎んでふわっふわの笑顔が出来上がったかと思えば小さな身体がミサイルのような速度で彰二の胸に飛び込む。小さい女の子を受け止めるのもずいぶんと慣れたなぁとか思いつつ彰二は頬ずりしてくる夕陽に訊ねる。
「お、おい……アイツは? アイツはどうしちゃったんだ?」
「蹴っても、吹っ飛んでも、あんましおもしろくなーい! なんか、んー……ぬけがら? やるき、なくなっちゃってるみたい」
「やる気がない? ……んん? どういうことだ?」
「こっちこっちー」
「おわ、急に引っ張るなって」
服の裾を引っ張られ石段の方へと連れられ、夕陽は下の方を指差す。高い場所から下を覗きこむと若干足が震えるのだが、ふと、彰二の瞳に――微かなゆらぎが映り込んだ。
「……え?」
それは“四ツ足”が放つ蜃気楼のようなオーラ。しかし不思議なことに、最初に間近で見た時の威圧感、圧迫感のような気配は一切無く、その足取りもまるで重たい荷物を背負わされているかのように非常にゆったりとスローモーションのようにさえ見えた。そんな足取りのまま、“四ツ足”はこの石段をゆっくり、一段ずつ登っていた。明らかに様子がおかしい。困惑する彰二に、夕陽はまたも頬を膨らませ不満をぶちまけ始める。
「逃げない鬼なんてつまんなーい! 蹴っても叩いても何にも言わない鬼もつまんなーい!」
「……古島」
何を思ったのか、自分でもわからないまま彰二は石段を一歩――降りる。もう何人、何百人、何千人と踏みしめて行った石段を一つ、一つ、“四ツ足”へと確実に近づいていく。その後ろで飛び出しかけた夕陽を鏡花が抑える。
「……ちょっとだけ、彰二に任せてあげて」
「う、うん」
近づいていく度、頬に“四ツ足”の熱気が伝わりヒリヒリと焼けるような感触が伝わっていく。熱さに顔をしかめながら一歩、また一歩と近づいていく。“四ツ足”は動かない。いや、後ろ足が微かに退こうとしているのだが、誰かの意思がそれを阻んでいるように見える。
阻む……いや、板挟みか?
彰二から逃げようとする意思と、外の世界へ逃げようとする二つの意思が、まるで水と油のように真っ二つに分離していてどっちつかずになっている。
手を伸ばす――轟々と吹き荒れるゆらぎを越え、彰二の手の平が“四ツ足”に触れる。
「……つかまえた」
鬼ごっこに倣って彰二は小さく、囁くようにして終わりの言葉を“四ツ足”に告げる。力強く脈打つ感触が手の平に伝わってくる。そして同時に、“四ツ足”の中から誰かの意思が彰二の頭の中に直接流れ込んできて、思わず「うっ」と声を漏らす。自分の頭の中に、自分以外の誰かの記憶や意識が流れ込むなど普通ならまず間違いなく体験しないことで、すぐにでも手を引っ込めたい衝動に駆られる。
「うわ!?」
瞬間、濁流のような意識が流れ込み彰二の目の前が一気に暗く、闇の中に放り込まれたかのように暗転する。
何も見えない、何も聞こえない、自分が今何処に立っているのか、転がっているのか、倒れているのか、何もかもが分からない暗闇の中で彰二は感覚を研ぎ澄ます。
そして、小さな光を見つけた。
深海の底から空を見上げ、外気を求めるかのように彰二は手を伸ばす。指先が何か温かい物に触れる。そして気がついた瞬間、強烈な明かりが差し込んできて彰二は目を瞑った。
「……? あ、れ? ここは」
光の気配が薄れ、彰二が目を開いたその先には見慣れた教室が映り込んでいた。だが、心無し視界が高いというか自分の背丈が急に十センチほど伸びたような感覚を覚え戸惑う。視界も自分の意思とは勝手に動き、そして目に映る景色が自分の教室ではないということに気付いた。ここは、古島が所属している教室だ。
「よぉ須川」
何処からともなく響くそんな声。
そして教室の真ん中辺りの席で本を読んでいた当人が振り返って柔和な顔を浮かべる。やや高めの視界になっている彰二の身体は勝手に動き須川の正面の席に座る。そこまでして、彰二は今自分が見ているモノが古島の記憶だと気が付いた。
「……普通に、仲いいじゃん」
会話の中身も他愛のないものだった。昨日見たテレビのこと、動画サイトで見た面白い動画のこと、イマドキの高校生らしい話題を適当に広げて二人で笑って、途中から話題が変わって友達がまた集まって。実に平和で、これの何処からイジメだなんて泥臭いモノに発展したのかさっぱり分からない。聞き覚えのあるお笑い芸人の名前が出た瞬間――目の前の世界がガラリと移り変わり、今度は学校からほど近い河川敷に場面が変わる。古臭いドラマのワンシーンのように、古島と須川が並んで歩いているのが見えた。
「やっぱ高校になると勉強きっついよなぁ。今日のテストどうだったよ?」
「うん……まぁまぁだったかな。英語は相変わらず苦手だし」
「俺も今回は色々とミスった気が……えーい、んな辛気くさい話は止めだ。ところでさ、お前好きな人ととかいたりする?」
「な、何だよ藪から棒にさ……」
唐突過ぎる古島の言葉に明らかに困惑の色を浮かべる須川。そりゃいきなりテストの話題から色恋沙汰ともなればその温度差に戸惑うのは必至。彰二としてはテストの話題の時点で耳が凄く痛い。しかしながら、男二人っきりの中でコイバナとはどうなのだろうか。いや、二人だからこそ? 親友だからとてそんな簡単に話せる話題だろうか。
しどろもどろになる須川の脇を小突きながらニヤつく古島。しかしその顔は、須川の反応を楽しんでいるといる風ではない。彰二の脳裏に、微かな意識が流れる。違う、古島は須川の好きな相手を知っている。そして、事前情報と知っていた人物の名前が出てしたり顔を浮かべ、そしてバシバシと背中を叩きまるで応援するかのような明るい表情に切り替える。
「そーかそーか! お前はアイツが好きなのか! いや、しかしそれこそ高嶺の花ってヤツなんじゃないのか?」
「……そりゃ自覚はあるけど。聞いてきたのは君じゃないか。酷いなぁ」
「悪い悪い。ちと言い過ぎた。しかしそうか、お前がねぇ……」
その時の古島の顔は、心の底から須川の恋を応援しようというものではなく、むしろ見込みがないと確信し、ほくそ笑んでいるようなものだった。
お前じゃ無理だろ。
古島の胸の内から噴き出した黒い感情の中からは、彼自身の憧れも微かに混じっていた。
両者の好きな人物は同じ。
見た目もパッとしないし、成績だって中の下が精々のお前じゃ無理だろ。
そんな完全に友人を見下した意思が彰二の脳内に流れ込んでいく。
二人が再び歩き出したところで――再び、場面が切り替わる。後日の、テスト返却日。
「……はぁ」
放課後、誰もいない教室。
古島の机の上には数枚の答案用紙。彰二から見れば十分過ぎる点数なのだが、当人からしたら頭を抱えるレベルなのだろう。重い溜息を吐いてから答案用紙を片付け立ち上がる。数学はもう少し上だと思ってたのになぁとぼやきながら施錠して鍵を担任に手渡し、昇降口に辿り付いた時だった。ふと目の前に人影を見つけ、何となしに視線を向けるとそこには須川の姿が。
「お、すが……っと」
しかし、視界の中に須川に向かって駆けよる女子を見つけ古島は姿を隠す。そういう話題とは無縁の人間がこんな時間で二人っきりで――と、からかう材料としては最良のネタが手に入ると思い顔を覗かして――思わず絶句した。
「……え」
そこにいたのは須川にとっての高嶺の花、そして古島が目を付けていた女子の姿があった。少し背は低めだがハキハキとした喋り方が印象的な彼女は、何処となくぎこちない風な雰囲気を漂わせながら談笑している。そんな二人の様子を見た古島の胸の奥が不意にざわついていく。それまでの自信と目の前の現実とが食い違うその瞬間、古島の顔が小さく歪んでいく。
時間は数分とも、数秒とも言えるほど短いものだった。二人は手を振って別れて、彼女は職員室の方へ向かっていく。そして昇降口に向かっていく須川と目が合った。
「あ……古島。今帰るとこ?」
「あ、あぁ。今日日直でさ。さっきまで黒板拭いてたりとかしてて」
「そうなんだ」
そんな別に何も無い会話のはずなのに、須川の表情は普段に比べたらずっと晴れやかで、それが古島の琴線を刺激している。
このわだかまりは何だ、いや、どうしてこんなモノが胸を騒がせる?
まだ予測の範疇を越えない、そんなのは妄想だ。
それが虚勢だと古島は信じず、やがて事実だけが追い打ちを掛けてくる。
テストの点数、成績、学年順位、自分とアイツとで生じた目を背けたくなるほどの差。
風の噂で耳にした“付き合っている人がいる”との発言、気のせいだと思い込みたいほど、近づいていく二人の距離、関係。
堕ちるのに、さして時間は掛からなかった。
花粉症がつらい……バイトでミス……ちょっとここ最近ツイてない;
次回更新は3月10日。
ちょっとずつ、終わりに近づいています。
では、待て次回。




