第3章 四ツ足ノ足音 《1》
「……気がついたかい?」
「え、あ……え、霖さん? あれ、公民館? なんで?」
目を覚ますと、霖の穏やかな顔と何処かで見たような質素な天井が目に映り彰二は目を瞬かせる。ついさっきまで学校にいたはずなのに、何故か今は公民館の中の畳の上に転がっていた。身体を起こす。手足にも違和感や変化はなくこの空間にもあまり変化はない。奥で寝転がらず、苦々しい顔を浮かべた鏡子を除けば、だ。
「よく寝てたな。そのまま起きなくてもよかったんだぞ?」
「こっちで骨を埋めるわけには……じゃなくて、何で俺ここに? さっきまで俺学校で」
「知ってる。アレにあてられて気を失ったんだからな」
「アレって…………あ」
脳裏に残っていた記憶が不意に蘇り、そしてあの古島の姿が思い浮かぶ。“鬼”になりかかっていた、いや、それ以上の何か言いようのない禍々しい感じに包まれていたあの姿。鏡子は白衣のポケットから煙草を取り出し徐に火を点ける。煙を吐きながら、うんざりした面持ちで窓の向こうに視線を送る。
「夕陽が来てから、まさかこんな短期間で出てくるとは思わなかったよ。本当に、めんどくさいったらないね」
「な、何の話だよ。つかここ禁煙じゃ」
「“四ツ足”って鬼が出る」
「……四ツ足? その鬼って……?」
口に出しかけて、鏡子や霖の硬い表情を見押し黙る。今まで見た“鬼”とは一線を画する存在らしい。二人の雰囲気からそれは嫌でも感じられた。
「少し面倒な……いや、途轍もなくめんどくさいね。その“四ツ足”の鬼は普通の“迫鬼”よりも凶暴で、そして凶悪なモノだ。前に“鬼”が外に出た時の話をしたの、覚えてるか?」
「生まれた人の心を強く欲する……だったっけ?」
「四ツ足も基本はそれなんだが……決定的に違うところがある。生み出した人間そのものを喰らって、あっちの世界で化物としてそのままの姿で具現化する。人間が犯罪するよりも性質が悪い。それは言うまでもないな?」
「……」
異形の怪物が街に出て大暴れ、フィクションの中ならともかくリアルならば大惨事は必至。
もう一つ、と追加で指を立てながら鏡子は続ける。
「加えて、四ツ足のみがもつ特徴として現世と此処との境界を無理やりに引き裂くという能力がある。通常の迫鬼の場合、この“タソガレ”と現世とを繋ぐ役割を果たしている場所――神社にあるような鳥居からではないと行き来が出来ない。ただ、四ツ足の場合、そいつの意思次第では何処にでも穴を開けてしまう。穴が開くとどうなるかも……いちいち言わなくてもわかるだろ」
つまり、何処からでも現世へ向かえる。
いちいち回り道をしなくても、それを阻害する夕陽のようなカゲガミに怯えることもなく目的である人間に難なく近づける。結界を失った“タソガレ”は文字通り無法地帯となってしまう。
「……夕陽じゃ、倒せないのか? 他の鬼みたいに」
「遊び半分で戦える相手なら私らもここまで困らんよ。……ったく、どうせ生きてるんなら加勢してくれりゃいいんだけど」
「え、何か言った?」
「独り言。……とにかく、私たちは今これをどうやって討伐したもんかと頭を抱えてるんだ。何かと首を突っ込んでるみたいだが、お前はとっとと帰った方が良いぞ」
「ちょ、ちょっと待った。それは絶対に出るって決まってるもんなのか?」
「あぁ」
にべもない言葉に、しかし彰二は以前に見た虎千代のことを例に上げ喰い下がらなかった。
「前の……そうだ、虎千代センセみたいに止まったりしないのか? 第一アイツは」
「止まる……か。そりゃ珍しいもんを見たんだねお前」
「珍しい? 何が?」
首を傾ぐ彰二に傍から霖のフォローが入った。
「“タソガレ”の影が暴走したりその兆しを見せた場合は、基本的にはそのまま弱さに堕ちて鬼になる。けれど、君が見た先生のような特別な場合も稀にあるんだ。そういう人は精神的に相当強い人で、堕ちかけた自分の精神を自分だけで昇華させることが出来るんだ。滅多にいるもんじゃないよ」
「……流石グレートティーチャーってことか」
「落ち込んだり嘆いたり、弱音を吐くのも誰だって簡単だけど、そこから気分を、根本的な心境を持ち上げようとするのはそれよりもっと大変だからね。その辺は僕たちも同じさ」
「でも、アイツだって」
「じゃあさ、お前が介入してそれを解決出来るのか?」
鏡子の鋭い言葉が飛び込み彰二の胸を刺す。その眼差しに普段の倦怠感のようなものは一切無く、人ならざる圧迫感が滲んでいる。
「もし、お前が四ツ足の人間の事情に割り込んで解決出来るってなら私たちとしては大助かりだ。“タソガレ”の平和も維持出来て、お前の友達の問題とやらも解決できる。お互いに助かるが、果たしてそれがお前に出来るかい?」
「それは、もちろん……ッ」
出来る、と断言していいのだろうか。
気心の知れている友人、とはいえここ最近は話したりする機会も減って疎遠になりつつある。でも、可能性はあるんじゃないかと口を開きかけた彰二の先手を打つようにして鏡子が言葉を重ねる。
「人間ってのは“もしかしたら”みたいな言葉が好き過ぎて困るね。可能性がほんの僅かにあればそれにすがろうとする。別にそれが百パーセント悪いとは言わない。だけど前を向いてるだけじゃ根本的な解決には向かわないさ」
「……」
返す言葉が、思い付かない。
何も言い返せぬまま拳を握り、やがてその力さえも失っていくような気がして、彰二は半ば呆然としてしまう。
見かねた鏡子は溜息を吐き、野良猫でも追い払うようにしっしと手を振った。
「とにかく今日はもう帰れ。お前に出来ることは無いんだ、ほとぼりが収まるまではこっちに来ないでいい。ほい、じゃー解散」
まるで、飲み会の終わりを告げるような軽い言い方だったが鏡子の表情は硬いまま、彰二ではなく何処か遠くを見つめていた。
※
「……ただぃぶふ」
「あらあらえーちゃんお帰りなさーい……あら?」
帰宅早々母親からの熱いハグ(背筋がミシミシ音を立てているような気が)を受け止め、しかしいつものように反抗のない彰二の様子に鏡花は首を傾げた。
「えーちゃん、夕陽ちゃんは何処? 女の子が一人で夜を歩くのは危険なのよ?」
「……それよりちょっと、離してほしいんですけど」
「ダーメ。夕陽ちゃんのことと、それから今まで何があったのか話さなきゃ離しませーん」
「…………」
何処から、何を、どう話せというのだろうか。
夕明かり色に染まる“タソガレ”という世界の存在。
人の影から生まれた“迫鬼”、そしてそれを討つ“カゲガミ”という神。
友人から、正確に言えば友人の影から生まれると決めつけられている“四ツ足”と呼ばれている凶悪な鬼。
気さくで気まぐれで、底抜けに明るく自由奔放な――友達のこと。
この数日間で起こった奇異な出来事が多過ぎて、もはや不幸という言葉では足りないようなこの状況。流石の彰二も、キャパシティオーバーで疲れが溜まってきた。疲労したまま、そのまま、信じてもらえるとかそういうのを全て抜きにして吐露してしまった。そんな与太話にしか聞こえない彰二の言葉を、鏡花は「へぇ」とか「あらまぁ」とか「よかったぁ、向こうでも元気にしてるのねぇ」とか「まぁ、じゃあちょっとお母さん行かなきゃかしらねぇ」とか相槌を打ちながら聞いてくれた。
「……………………ん?」
決壊したダムのようにあれやこれやと吐きだしたかと思えば、気が付けば彰二は居間のちゃぶ台に突っ伏していた。どうやら話をしているうちに眠ってしまったらしく、毛布代わりなのか鏡花のエプロンが身体に掛けてあった。何か、チョコの匂いがする。
「寝ちゃってたのか……てか、母さん何処行った? ゴミ捨てか?」
寝て起きたら頭の中身も多少はスッキリしていて、彰二は欠伸をしながら部屋を適当に見回す。無人の店内に、ぽちゃん、と響く水の音。普段なら仕込やら何やらで慌ただしい鏡花の姿もなく、珍しく寂しげな空気が淀んでいる。
着替えと簡単な朝食を済ませてから、ふと下駄箱の上に見覚えのない紙切れがテープで張り付けてあるのを見つけた。そこには鏡花の字でこんな風に書いてあった。
『ちょっと“タソガレ”にお出かけしてきます。
えーちゃんは何も心配しないで、いつも通り学校に行ってらっしゃい。
――母より』
今年最後の更新。
皆様はどんな1年だったでしょうか?
俺は……うぅん…………えっと……特別何か変わったってことは無いような?;
次回更新は少し遅れるかもしれませんが、1月6日を予定してます。
では、よいお年を。