第2章 人の世界のオモテとウラ 《10》
公園の遊具と聞いて、まっさきに浮かぶものと言えば何だろうか。
鬼ごっこの砦として鉄板のジャングルジムや滑り台、後方支持回転が出来るかどうかと友人を挑発した鉄棒、色々な遊具が合体した大型のアスレチック……などなど。こうして例に上げてみると、公園と一口に言っても様々な遊具が存在していることが分かる。遥か昔に比べれば現代っ子は実に贅沢だ。家の中でも外でも、ほとんど遊ぶ物に困らない時代に生きているといっても過言ではない。
「……シーソーで死にかけたのは何年ぶりかね」
はしゃぎ過ぎた夕陽のテンションは凄まじく、近くの児童公園の遊具を一通り蹂躙した挙句、シーソーでギッタンバッタン上下運動を繰り返し、その途中男子のみに与えられた激痛に襲われ彰二はベンチで前のめりに蹲っていた。冷や汗が引くまではこうして休憩していないと辛い。そして肝心の夕陽はと言えば公園の真ん中で武術の稽古のようなものをやっている。休日の朝に中国人がやってそうなアレだ。
「太極拳……とかそういうのだよな? 夕陽、その技は自分で考えたのか?」
「ちがうよー? 夕陽ね、カゲガミさまになった時にこれ教わったの。ちゃんと、先生から教わったんだー」
「……先生?」
ふと“タソガレ”で出会った二人の事が頭を過ぎる。一人はほぼ論外だが、霖は意外と武術を使えたりするのだろうか。物知りメガネキャラを装って実は武術の達人、世の中にはそう言う半分黒幕みたいな人間もいるという話だし在り得ない話ではなさそうだが。のんびりしている状況ではないのだが、彰二は何となく気になってそのことを訊ねてみた。
「その、先生ってのは?」
「すっごくきれーな人だよ。今は……どこにいるんだろ? わかんない。あ、でもでも、エージのお母さんにそっくりな人だよ!」
「……」
思い返せば、鏡花も鏡花で色々と体術を会得している。建て付けの悪い扉に鉄山靠、彰二を起こすためにフライングボディプレス、ドロップキック……プロレス技は体術に当てはまるのか。というか一体何者なんだあの母親はと別方向の疑惑が浮上する。鏡花に似ている、ということは相当に美人なんだろう。それはそれで少し興味がある。それこそ本物の格闘美神じゃないか。そんなこと考えてたら少し痛みが引いてきた。
「あのオニを相手に“鬼ごっこ”するにはそういうスキルも必要ってことか……物騒な遊びだことで」
「エージ、エージ!」
「おわっと? どうした?」
真横から飛んできた夕陽の声に驚き視線を動かせば、いつの間にか隣に夕陽が座っていた。あれだけ運動したのにも拘らず息切れや疲れといったものは見当たらない。上気してほんのりと赤くなった頬は間近で見るとお餅のようにぷにぷにしているのが分かる。ちょっと指で突っつきたい、そんなセクハラ心を抑えながら見つめているとにぱっと笑みを浮かべた。
「えへへー」
「な、何だよ? あんましのんびりしてる暇わわわッ」
何を思ったのか夕陽は唐突に彰二の膝に向かってごろりと身体を横たわしひっくり返った状態で顔を見上げてきた。所謂、逆膝枕状態。男が女の顔を見上げるのならば幸せだなぁとか惚気きった感慨を抱くのだろうが、女の子の場合はどうなのだろうか。夕陽は何故か物凄く嬉しそうな顔でこちらを見上げている。新婚ホヤホヤの顔、幸せの絶頂にいるかのような顔とでもいうか、とにかく一目見て嬉しそうだと分かる顔を浮かべている。
「エージ、おっきくなったな!」
「ばッ!? なッ、わっきゃないだろ!? 俺は断じてロリコンでは」
「夕陽もおっきくなったんだぞ! わかるか? わかる?」
「……はッ!?」
どうやら夕陽の言っているのは身長のことらしい。だが、いまいち腑に落ちない言葉だ。
「……って、夕陽と会ったのはつい最近じゃないか。たった数日じゃ大きくなったりせんぞ。というかもう俺の場合ストップしてるような」
「ちーがーうー!」
膝の上でヘドバン(ちなみに、ヘッドバンギングの略称)しないでください夕陽さん。
「夕陽、エージともっと前に会ってるもん! その時のエージ、もっと小さかったもん!」
「はい~? 俺が小さい頃に夕陽と会ってただって?」
こくこくと膝の上を削るように夕陽は頷くも、彰二はどうもピンと来ない。言動やら行動やら色々と幼いし気まぐれだが絶世の美少女で、こんな女の子を見ればどんな人間でも、ましてや幼少期に見たともなれば強烈な印象が残るだろう。というか、そもそも夕陽はカゲガミさまなのだから幼少期の彰二と面識があるわけがない。“タソガレ”のことを知ったのもほんの数日前だ。それなのに、夕陽の方は一方的に面識があるかのように言っている。そんなフラグ、男なら見逃さないだろうて。
「……うぅん、わっかんねぇな。それって何処でだ? 俺が、何歳ぐらいの時?」
「神社! 神社の、おさーせんばこ? のトコ! エージ、最初は泣いてたんだぞ!」
「神社って何処の?」
「あそこ! とりい、の奥の!」
といって夕陽が指を指したのは鏡子や霖のいる奈月町公民館の方向を指差した。そこに神社と言えば一つしかない。夜龍山の中にある、六つの鳥居を越えたあの小さな社。忘れるわけがない彰二の思い出の場所。
彰二が小さい時、あの場所で泣いたのは二回だけ。
一度目は父親が交通事故で亡くなった時。
それと、同時に小さな友達と出会い、そして不意に会えなくなってしまったあの日が二度目。
「…………」
真ん丸い瞳で彰二を見上げてくる夕陽に、あの小さな面影が不意に重なる。
まるで悲しみの匂いにつられてやってきたあの黒猫。ほんのわずかな間だけ一緒に遊んで、彰二の心が癒えた瞬間、それっきりパッタリと姿を見せなくなってしまったあの黒猫。
カゲガミは、現世で死んだ動物の生まれ変わり。
その言葉を聞いた瞬間、まさか夕陽があの猫だったなんて都合よく思うわけがなかった。
「じゃあ、お前……もしかして」
そんなの偶然、偶然に決まってる。
でも、そんな都合の良過ぎる偶然があったって誰も文句は言わない。
無意識のうちに彰二は自分の右手を夕陽に伸ばして――瞬間、それまで穏やかだった夕陽の瞳が急にカッと見開かれ、弾かれるようにして彰二の膝から身体を起こした。
「おわっとと……ど、どうした夕陽?」
「……変な匂いする。ジメッしてる、嫌な……匂い」
「え? いや、そんな匂いは別に……?」
言いかけた彰二も、その微かな異臭に気付き言葉を呑みこむ。僅かに、腐った生ごみのような吹回収がする。夕陽の言葉が無ければ気付けなかったが、当の夕陽は今まで見せたこともないような剣呑な表情を浮かべ周囲に視線を走らせ、そして近くのアパートの屋根に瞬時に飛び移った。あまりの豹変っぷりに彰二も動揺を隠せなかった。
「夕陽? おい、何か見えたか? ってか、何だよこの……感じ?」
匂い以外に、何故か彰二の胸の内には言いようのない恐怖に苛まれ声が震える。所謂、人間の本能的なものなのか、自分の意思とは無関係に全身が何かに怯えてしまっている。無言で何処かを見つめる夕陽に、今までの無邪気な雰囲気は欠片も残っていなかった。
「ゆ、夕陽! なぁ、そろそろ降りてきてくれよ! なんだ……んなッ!?」
彰二の声も聞かずに、夕陽はその身が霞むほどの速さで飛んでいってしまった。辛うじて学校方向に向かっていったのが見えたのだが、彰二の両足は地面に突き刺さってしまったかのように微動だにしてくれない。
完全に、竦んでいる。
これまでに感じたことのない恐怖に身体が完全に怯えてしまっていた。
「……く、んの、動けよ……動けって……!!」
圧倒的な恐怖に襲われながら、しかし彰二の胸の内に湧く奇妙な予感。
夕陽を追い掛けなくてはいけない。
追い掛けて、この恐怖の根源を確かめなくてはいけないという根拠も何も無い衝動が鬩ぎ合ってぶつかり合う。恐怖という繭を、無理やりに押し開くイメージを。ここぞという火事馬力を、この際力と名のつくものであれば何でもいい。我武者羅に意思を込めながら右足を、左足を、右手を、左腕を、首を、全身に意思を送り込んでいく。
「動い、ぐぐぅ……けぇッ!」
地面を蹴り飛ばし、黄昏色の風を切り、奥底から湧き起こる衝動に身を任せ、彰二はどうにか正門前に辿りつく。夕陽の姿は無い、校内か? 適当な場所を求め歩き続け、辿りついたのは職員用の駐車場。二つ、名のあるメーカーの乗用車の傍で会話をしているのは教師の影。その更に奥側にゴミの回収場所がある。そこに見覚えのある人物の影と、見知らぬ人の影が並んでいるのを見つけた。
「あれって、須川じゃ……」
眼鏡を掛けていて小柄で猫背な彼の傍には、見覚えがあるようなないような女子生徒が立っていた。何か会話しながら一緒にゴミを用務員さんに渡している。仲良さげに見える、ような気もするしそうでもないように見える。表情も、三人揃って穏やかだ。負の感情がほとんど見えない。なのに、依然として胸騒ぎが消えない。誰か別の――彰二が視線を上げたその瞬間、思わず目を見開いた。
「なッ、あれ……は!?」
廊下の窓からその三人を見下ろす古島には、いつか見た黒い靄のようなものが彼の身体から発せられていた。初めて“鬼”を見たあの時と同じ、サラリーマンを包んだあの黒い霧にそっくりなものを纏いながら、酷く憎々しげに睥睨している。自分の見知っている友人の顔ではない。
完全に、知らない人間。
「どう……なってんだ? これ、何なん……だ……?」
何も出来ず立ち尽くす彰二の頬を、“タソガレ”の温い風が煽るように撫ぜる。
やがて彰二の意識は、ぷつん、と線が切れるように――知らぬ間に闇の中へと落ちていった。
ようやっと2章終わり。
次のお話から3章に入ります。
次回更新は12月30日、今年最後の更新になります。
では、待て次回。