第2章 人の世界のオモテとウラ 《7》
夕陽の居ない朝を迎え、恒例となっている母親の過剰とも言える愛情表現から逃れ疲弊し切った状態で彰二は机に倒れ込んでいた。
「おはよ仄宮君……って、どうしたの? 何だか凄い顔してるけど……」
「……母の愛が(物理的に)重い。こんな思いをするなら、愛など要らぬ……」
「た、大変なんだ……ね?」
寝起きにフライングボディタックルとはあの母親はいったい何を考えているのだろうか。成人女性という予想以上に重い物体を全身で受け止めた所為で朝から全身が痛い。昨晩の精神的な疲れも含め彰二は腕一本動かすのがめんどくさくてしょうがなかった。せっかく隣に絶世の美少女である紫苑が立っているというのにも拘わらず顔すら上げられぬ始末。
だが、そんな机に沈みかけの彰二が思わず顔を跳ね上げさせる言葉が教室の後ろの方から聞こえてきた。
「おーい仄宮、須川が呼んでるぞ。なんでもお前の猫の事ではな」
「夕陽がッ!?」
ガタンッ、と勢いよく尻で椅子を吹き飛ばし、後ろの席で読書していた文学系女子生徒に嫌ぁな視線を送られながらも彰二は声の方へと一目散に飛んでいく。
「……あの猫ちゃん、そんなに大事なのかなぁ」
紫苑の寂しげな横顔に見惚れすれ違った男子が黒板にぶつかる。視線を送られている彰二はと言えば、廊下に飛び出てからその全く覚えのない生徒の名字に首を傾げていた。
「瀬川? 須川? え、そんな名前……うぅん?」
少なくとも同じ学年の人間ならある程度は覚えているはずなのだが特に思い当たらない。単純に面識が無いだけだろうか。何故か一階、しかも理科室や視聴覚室などがある北校舎の渡り廊下に来るように言われていたので彰二は慌てて階段を駆け降りた。
「ほ、仄宮君。こっちこっち」
「おぉ、エージ! エージだエージ! にゃはは!」
指定された場所に立っていた男子生徒の頭の上にいた夕陽は、彼の額を後ろ足で蹴っ飛ばして彰二に向かってダイビング。真っ黒いワンピースがひらりと翻り、彰二の腕の中で夕陽は大輪の笑顔を花咲かせる。心配と、ほんのひとつまみの困惑の所為で彰二の顔が僅かにぎこちなくなった。
「夕陽ッ! お前今まで何処に、って……あ」
胸元でじゃれる夕陽を往なしながら視線を上げた先、そこには決して初対面というわけではなく、かと言えば普段から親しくしているわけでもない生徒――もっとぶっちゃけて言えば、昨日の昼休みにイジめられていた人物の顔があった。痩せっぽちで小顔でひ弱で、いかにもといった風体。とりあえず真面目そうな感を醸し出している眼鏡も、こうマイナスイメージばかり抱えてしまっていてはかえって逆の印象を重複させてしまう。彰二は半眼になりながら、それでも夕陽との経緯を聞かないわけにもいかず手近な水道の縁に腰掛けた。夕陽も彰二の膝もとにぼふり、とお尻を落とす。尻尾が変なトコ刺激してくる。
「どうしてお前さんが夕陽と一緒に? ……まさか、誘拐?」
「ご、誤解だよ! その、実は昨日帰る直前に色々あって……気が付いたら、近くにこの猫がいたんだ。べ、別に何にもしてないよ? この猫が勝手にくっついてきて、だから、仕方なく……」
「ご飯、あんまし美味しくなかった!」
「君の猫だって人づてに聞いたから、だから返しに……その…………ごめん」
「……何で謝るかねぇ」
とりあえず詫びておく、というのは日本人の悪い癖と思う。無論心配したがこうして無事ならそれで良しと彰二は思ってるし、むしろ一日夕陽を保護してもらってるようなものなのだからこっちが感謝するべきだろう。
「ありがとな。ほれ、夕陽も頭下げとけ。一宿一飯の恩ってヤツがあるだろ?」
「ごろごろ~」
「……いいなぁ猫。僕もそういうの居たらなぁ」
「居たら何が違うんだ?」
「えっ……?」
彼がぼそりと呟いた言葉を狙いすましたように彰二のぼやきが突き刺さる。言ってから少しばかり後悔したものの、言ってしまったものは仕方ないし紛れもなく本音なので彰二は特に悪びれることもなく背中を向けた。
「や、何でもない。どうもありがとな」
「ぁ……う、うん」
「……ふふ」
「?」
教室に戻る途中、何故か夕陽が嬉しそうに頬を緩めていたことに気付き思わず彰二は足を止める。周囲の視線が集まる中、自販機の傍に移動してそれとなくオレンジジュースのボタンを押した。
「どうしたんだ夕陽? 何か、楽しそうだけど」
「エージ、人間って面白いなぁ。あっちこっちで、匂いがしてくる。タソガレの匂い!」
「……それは、須川からか?」
「うん!」
大きく頷く夕陽に彰二は少々苦い顔を浮かべる。その顔は完全に玩具を手にした子供同然。緊張感や危機感なぞ微塵も感じられない。
「須川と、何処で会ったんだ? 虎千代センセが消えた……あの後か?」
「ここだよ? えっと、いちばん上の、おくじょ? で!」
「……何してたんだ、アイツ」
「さぁ? でもね、あの匂いがしたから行ってみたらいたんだよ。ブルブルしてた」
「…………」
イジメの終着点に至り、それを夕陽に引き止められた、とか?
流石に考えがオーバーな気がしたので首を振って思考をリセットする。
「虎千代センセに、あの須川ってヤツから匂いがしたんだよな? それって、要するに……」
現状だとイジメに関連している人物二人からタソガレの匂いが漂っているということになる。彰二はあのサラリーマンの事を思い出しながら大して中身のない脳みそを使って考えてみた。
「虎千代センセと須川には、“オニ”になる可能性がある……ってことなのか? 昨日のアレを見る限りだと虎千代センセは大丈夫っぽいけど、他のヤツはどうなんだ? 夕陽、須川ってヤツはさっきも匂ってたんだよな?」
「うん、匂いしてたよー」
「……ふぅん」
場合によっては須川も“オニ”になる可能性があるということだろうか。タソガレで“オニ”として具現化してしまった場合、もしもこっちの世界に“オニ”が出てしまえば凶行に走ってしまうという話。それを未然に防ぐのが夕陽たちの役目。だが、夕陽はそれを使命というより完全に遊びとしか考えていない。この状況の危険さを教えても意味は恐らく無い、というか理解するのかも怪しい。
夕陽を任されてみないか?
鏡子の言葉はその軽さに見合わないほどに責任重大だった。
「……ってなると、コイツを任された以上俺が色々頑張るしかないってことか。何か、影のヒーローみたいでいいかもな」
実際に戦うのは夕陽だし、派手な蹴り技を決めるのも夕陽だけど。
空になったジュースのパックを捨ててから彰二は再び教室へと戻っていく。きっちりと着席している生徒の中を堂々と進み、夕陽を抱えながらどっこらしょと小声で溢しながら着席して。
「堂々と遅刻してんじゃねえ仄宮ぁッ!?」
「おあだあああああッ!?」
ホームルームの時刻をとっくに過ぎていたことを虎千代に物理的に気付かされた。
12月に入った途端一気に寒くて敵わんです……;
体調などなどお気を付けて。
次回更新は12月9日。
では、待て次回。