第2章 人の世界のオモテとウラ 《5》
校舎を飛び出し、人影だけが跋扈する街並みを走り続ける彰二たち。
薄く透けた人影とすれ違うたび、否が応でもその表情が目に付いてしまう。嘲笑い、妬み、悲嘆や絶望。普段の街並みでなら絶対に見ない、他人の歪んだ表情一つ一つに彰二は胸の内がずっしりと重くなっていくのを感じていた。
「下手なホラー映画よりよっぽど恐いっての……」
顔を引き攣らせながら、彰二はそんな世界の中を確固たる足取りで走り続ける夕陽の後を追っていた。虎千代の姿を途中で見失ってしまったのだが、夕陽は「あっち!」と自信たっぷりに指差した。繁華街を彰二の家とは反対方向に向かっていくと河川敷が見えてくる。河川敷の敷地内には多目的に使える大きなスポーツ広場がある。小学校のグラウンドほどの広さの公園もあれば、一般の人も利用できるサッカーやラグビーのコートなんてものもある。夕陽は一度立ち止まると辺りをきょろきょろと見回し、やがてランニング用のコースに向かって文字通りひとっ飛び。空中で一度回転してから着地するその様を見て彰二は純粋に「すげぇ」と思っていた。
「本当に、人間の動きじゃないよなぁ……」
「エージ! 早く早く! こっちだ!」
流石に真似て飛ぶわけにもいかず、彰二は大人しく階段を下りてその小さな背中を懸命に追い掛けていく。彰二もほとんど全力で走っているのだが夕陽の姿はどんどん小さくなっていくばかりで一向に追いつける気がしない。こんな脚力の持ち主相手に“鬼ごっこ”はしたくないなと思いつつ、やがて夕陽の姿が河原の方へ曲がって行くのを見て慌てて彰二も道を曲がる。
雑草を蹴散らしながら進んでいくと、彰二の瞳にキラキラとした夕日色に染まった川面が飛び込む。さして大きな川というわけでもないのだが対岸がやけに遠く見える。水平な石を川面に向かって投げたい。思い切り叫びたい。何故か、胸の奥からざーっと今出なくてもいい感情の流れがこみ上げてくる。夕日を見ただけで泣きたくなるほど熱血でもセンチメンタルでもないのに。
「……あ、夕陽! 虎千代センセ……は……?」
河原の小石に躓きそうになりながら歩いていくと棒立ちしている夕陽の姿を見つける。そのほんの数メートル先に体育座りして蹲る虎千代の姿も見つけた。
「よかった、まだ鬼にはなってないんだ……? どうしたんだよ、夕陽」
「……」
虎千代の傍に寄り添うでもなく、ほんの僅かな距離を開けたまま夕陽は彼女の姿をじぃっと見つめている。
何か声を掛けようとして、言葉に迷っている?
最初はそんな風に考えていたのだが、いくら待てども夕陽は一言たりとも喋らない。
先に聞こえたのは、虎千代の声だった。
「……私も分かってる。分かってるんだ。理屈とか、建前があるのも知ってる。だけどさ……」
それは誰かに向かっての言葉ではなく、自分を無理やり納得させるような言葉だった。今まで見たこともない虎千代の姿に完全に圧倒されつつ、それでも感情が爆発して“鬼”にならなかったことに安堵もしていた。
「これ……大丈夫、なんだよな? “鬼”になったり……しないよな?」
「……ない」
「え? 悪い、もう一回頼む」
すると、夕陽は何故かくるっと虎千代から視線を外すと河川敷側へと向かって大股で歩き出す。先の言葉を聞き取れなかった彰二はもう一度夕陽に声を掛けると、彼女は彰二の方をちらと首だけ動かして振り返った。
「つまんない、つまんなーい」
「は? つまんないってどういう……あ、おい! ちょ……!?」
その素っ気ない態度は、まるで約束していた遊び相手がいなくなってしまって拗ねた子供だった。つーんとそっぽを向きながら虎千代には目もくれず、挙句何処かへ行ってしまった。
「なんなんだ……?」
「……はぁ、情けない。こんなことで何度もしょげて……生徒に見つかったら恥ずかしいったらないな」
そして気が付けば虎千代は立ち上がり、沈み掛けている夕日に向かって腕を組み仁王立ちしていた。眩い光に照らされた横顔は、校長と話していた時よりもずっと明るく、いつもの覇気に満ちた虎千代の姿を取り戻していた。
「明日からまた頑張ろう。アレを見つけたら、今度はもう少し踏み込んでやる。それで問題になったら、そん時はそん時で……さて、今日はどっかで飲んでから帰るとするかな」
「……よかった。よく分かんないけど元気でたっぽ……え?」
肩をぐるぐると回してほぐしながら歩き出す虎千代の姿が彰二の目の前でゆっくりと透けていき、やがて完全に影が消えて彰二だけが河川敷に取り残された。一人になった河川敷に、ざぁっと強い風が吹き込む。がさがさと揺れ動いた雑草の音だけが彰二の耳朶に響いて消えていく。
「これで……いいのか? てか、俺……」
ぽつん、と寂しく残され彰二は頬で指をかきながら呟く。
「……これから、どうしよ」
※
行く宛てもなく、さりとてすぐにでも家に帰りたいというわけでもなく。
人の影が営む“タソガレ”の街をぼんやりと歩き、行きついた先は奈月町公民館。彰二は開けっぱなしの扉を遠慮なく過ぎ一階のホールに入ると奥で雑魚寝している鏡子の姿を見つけた。
「今さっきまで忙しかったから寝てるんだよ。そっとしておいてあげて」
「わ、霖……さん。いきなり後ろから出て来ないでくださいよ」
「ごめんごめん。あのテープは役に立ったかな?」
「そりゃもうバッチリで」
世間話もそこそこに、霖に場所を変えようかと促され彰二は外の公園のベンチに移動した。いつまでも沈む気配を見せない夕日に照らされた公園は、何だかいつまでも遊んでいられそうな雰囲気が漂っている。不思議と、ここには人の影が見当たらない。
「そういえば夕陽ちゃんは? 君だけでこっちに?」
「や、一緒だったんですよ。だけど途中で」
学校の屋上から始まった虎千代の件を説明すると、霖は「夕陽ちゃんらしいね」と軽く笑って見せた。でも、それはちょっとどうなのと彰二は唇を尖らせる。
「いや、でも失礼っていうか何て言うか……その、フキンシン? ってヤツじゃないですか? 人が“鬼”になりかけてるのに、それを見てつまんないってのは」
「うぅん、僕達からしてみれば失礼でもないし不謹慎でもないよ。そういう風に考えるのは、普通の人間だけかな」
「えー? そうっすかね? 夕陽とか霖さんはこの“タソガレ”を“鬼”から守ろうとしてるんすよね?」
「少なくとも僕はね。でも、夕陽ちゃんは本気でこの世界を守ろうだなんてこれっぽっちも考えてないと思うよ」
「どういうコトっすか? 前にこの街を守るのが仕事だって言ってたじゃないっすか?」
「そりゃあ、仕事の意味をちゃんと理解してればね」
「……え?」
前に言ったよね、と一つ前置いてから霖は指を立てる。さながらイケメン大学教授。彰二が女子だったら目がハートになっていたのではないだろうか。
「カゲガミの使命っていうのは……というか、そもそも使命って言葉自体有耶無耶なんだ。個々にズレがあるって言ったのを覚えてる? カゲガミの中には全うに世界を守ろうとしている者もいるけど、それはほんの一握りで、それ以外のほとんどはみんな個人的な理由で戦っている者ばかりなんだ。快楽だったり復讐だったり、僕の知り合いには寂しいから戦うってコもいるよ。
さて、問題。夕陽ちゃんは何のために戦っているのでしょうか?」
「夕陽の戦う理由……? え、っと……ヒントは?」
「そうだな……鬼ごっこ、って言葉かな」
ニコリと柔らかい笑みを浮かべてヒントを提示する霖のイケメンの波動が凄い。
そんな波動存在を横に彰二は真剣に考える。
鬼ごっこという言葉、そしてあの夕陽の拗ねた反応。
「……もしかして、夕陽は遊んでる?」
「そう。正しくは、“迫鬼”と戦う事をただの遊び程度にしか認識してないのさ。だから“迫鬼”を見つければ本能のままに喜ぶし、それが無ければ気分を害して何処かに行ってしまう。……完全に、野良猫の思考パターンだね」
「それで……か」
その説明で全てに合点がいった反面、彰二の中にほんの僅かにだが夕陽への不信感のようなものが生じる。最初に助けてくれた時も、彰二の命を助けるのではなく“鬼”と遊ぶためだった。鬼ごっこと銘打って戦う夕陽の姿は今も焼き付いて離れない。あれは、完全に楽しんでいた。
「助けられる命なら助けるべきだと僕は思うけど、カミサマの全部が全部そうだと思わない方がいいよ。殊更、僕たちはカゲガミ。八百万の末端に居るか居ないかみたいな存在なんだ。困ってる人を助けたい、なんて高尚な意思を持つ人は滅多にいないと思った方がいい」
「…………」
そんな霖の言葉に彰二は絶句していた。
神様だから人を助けてくれるんじゃないか? という彰二の何の考えなしの妄想は易々と砕け散り、そしてカゲガミの野放図な実態に唖然としてしまった。“タソガレ”はともかく、もののついでに救われているような自分の世界。驚きを隠せない訳が無い。
「今日はとりあえず家に帰ってもいいんじゃないかな。夕陽ちゃんも気分が直れば、またひょっこり顔を出すと思うからさ」
「……う、うっす」
苦笑を浮かべる霖に対し、彰二はどう頑張っても結局浮かない顔しか出来ず、そのまま明後日の方向を見上げ何とも言われぬ溜息を吐いた。
ここ最近、風邪引くと真っ先に喉に来て辛いっす……;
皆様もお体にはお気をつけて。
次回更新は11月25日。
では、待て次回。