第2章 人の世界のオモテとウラ 《4》
強烈なオレンジ色の光が目に飛び込んできて彰二は「うっ」と小さく呻く。光に眩みながらも開いた目に映ったのは先ほどと変わらぬ屋上だった。
空は紫紺の色に溶け、一日の終わりを告げる西日の明かりが奈月町を照らしている。
彰二の前に広がっていたのはそんな哀愁に満ちた世界。見慣れているようで、何処か違和感を覚える自分の町。その感覚を彰二は忘れることは出来なかった。
「……嘘、だろ? 本当に、本当にあっちに行けちまったのか? あのテープ……で……あ!」
振り返ったその先、鳥居の形にテープを張り付けたはずの壁には何も残っていなかった。跡形もなく消え失せ、恐る恐る触れても泥のように歪むこともない普通のコンクリートの感触。辺りを見回せばベンチが二つあるだけの屋上。何故か、平時よりも物悲しい雰囲気が漂っている。
「エージ、行こ!」
「行こって……何処にだ?」
「さっきの、センセのとこ!」
夕陽に腕をぐいぐいと引っ張られ彰二は成すがままに校舎へと戻っていく。“タソガレ”の中に存在する校舎とはどんなものなのだろうか。その答えを、彰二は程なく知ることとなる。
「影だらけ……じゃねえか」
ある一点を除けば、そこには彰二の知っている普段の日常とよく似た光景が広がっていた。廊下には友達と話し合う生徒もいれば、教室で読書している生徒もいる。大量のプリントを抱える生徒もいるし、グラウンドに視線を向ければ運動部が活動している。小気味の良い金属音は野球部のものだろう。
ただ、それら全ては“影”によって繰り広げられていた。彰二は夢で聞いた鏡子の言葉を思い出す。“影”とは人の心の中に浮かび上がった負の感情のこと。外の世界で生きている人間の内面に隠れている感情が剥き出しになるのがこの“タソガレ”という世界。普段から仲良く話している生徒も、担任の教師も、今目の前に存在しているソレらは皆彰二の見知ったものばかり。なのに、その表情は見たこともないほどに暗かったり歪んだりとマイナス方向に様々だった。
「…………」
「エージ、どうした? 早くセンセ、探すぞ!」
「わ、わかってる。わかってるけどよ……」
互いに探り合うかのような狡猾な表情を浮かべあう二人。
大人しく読書こそしているものの、その視線が時折酷く憎々しげに他の誰かを睨む瞬間。
知っているはずの顔が、まるで見知らぬ別人のように豹変した様を見て彰二は思わず言葉を失う。それでも中には普段とあまり変わりないような表情の人もいるが、それにしたってこの世界はあまりにも恐ろし過ぎる。
「人の心なんて分からない方が幸せってのは本当……だな」
廊下の窓ガラスに映った自分の顔を見て、ふと彰二は足を止める。
あの虎千代も、歪んだ内面を擁しているのだろうか。
多感な年頃の生徒を相手に日々奮闘する“教師”という立場である以上、その手のストレスは避けては通れぬ道。それこそ、阿修羅の如き怒りを抱えているのだろうか。そう思うと二重の意味で恐怖が湧き起こってくる。
「な、なぁ夕陽そろそろ帰」
「見つけたぞ! エージ、あの部屋にいる!」
「え……進路相談室?」
夕陽が指差したのは職員室の隣にある進路相談室だった。教室の半分ほどの広さで、名の通り進路に関する資料がある部屋。彰二ももう少しすればお世話になるのだが、普段は一部の教師の休憩室も兼ねている。無論、禁煙。
「でも、他の人もいるぞ!」
「……そりゃあ、他に休憩してる先生だっているんだから、ってオイオイちょっと待っ」
「とーぅ!」
ガラガラ、ピッシャーン! と凄まじく快活な動きで引き戸を開け放ち仁王立ちする夕陽。あちゃあ、と顔を覆った後、そういえばここが“タソガレ”という世界を思い出してゆっくりと手を退けていく。進路相談室には、二人の人物の影がいた。
「虎千代センセ…………と、校長?」
安っぽい革張りのソファで向かい合って座る虎千代と校長の影。正面に見える校長は苦々しい表情を浮かべ虎千代に何かを強く言い付けている。それに対する虎千代の表情は見えない。ただ、先のような声を掛けづらい雰囲気が今もなお漂っている。修羅場、とでも言うべきだろうか。
「鬼塚先生、気持ちは分かりますがくれぐれも余計なことはしないでくださいね。……最近の生徒はナイーヴですから、個人の判断で勝手に行動されてしまっては」
「…………分かっています」
「……何の話をしてるんだ?」
教師が校長に説教を受けている、という構図なのだが彰二はイマイチ合点がいかない。少なくとも虎千代は非常に真面目で熱心で、生徒からの人望だって厚く他の誰かに咎められるようなことをする人物とは思えない。虎千代は校長の言葉にずっと耳を傾け、時折相槌を打つばかり。ただ、時折「ピク」と身体を震わせるときがある。
「……が、ぅ」
「ん? 夕陽、今何か言ったか?」
「んーん、言ってない。言ったの、あのセンセ、だよ」
「え……?」
ピク、ピクリ。
校長の言葉を受けるたび、相槌を打つたびに虎千代の身体が小さく痙攣し始める。最初はただの勘違いかと思ったその小さな声も、痙攣の回数が増していく度ハッキリと聞こえるようになっていた。
「違う……! 違う!」
虎千代の影が不意に立ち上がったかと思うと、激しく頭を掻き毟りながらその場で叫び声を上げた。
「違う! 違う違う違う違う違う違う違う違う! そんなんじゃ、誰も……私は、こんなの……ッ!」
「な、何だ? 虎千代センセ……様子がおかしいぞ!?」
「…………」
周囲の物や窓を叩いたり蹴飛ばしたり、手当たり次第に八つ当たりをし始める虎千代を見て彰二は完全に狼狽していた。普段なら絶対に見ない虎千代の中に潜んでいる闇が、今この“タソガレ”という世界に具現化して暴れている。彰二はただただ、何も出来ぬまま呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。そもそも、自分に何が出来るというのか。
「ゆ、夕陽!? もしかして、虎千代センセも……“鬼”に、なっちまうのか?」
「んー、なるかも……しれない?」
「な、何とかならないのか……!?」
「無理だと、思うよ?」
にべもない言葉を夕陽はあっけらかんと言ってのける。叫び、呻き、のた打ち回る虎千代を見つめながら夕陽は言葉を続ける。
「ああなっちゃったら、そのうち“鬼”になっちゃうよ。ああいう風になって、最後まで“鬼”にならなかった人って見たことないもん」
「じ、じゃあ……」
タソガレに来て最初に出会ったサラリーマンのように、虎千代もまた迫鬼になってしまう。
この世界を知って、夕陽や迫鬼の存在を知って、まさか自分の知っている人物が“鬼”になってしまうと誰が予想できただろうか。へたり、とその場にへたれこんでから彰二は思い出したように顔を上げた。
「……で、でも夕陽が“鬼”を退治するんだよな? なら、大丈夫だよな?」
「うん! 夕陽強いもん! 負けたことなんて、いっかいもないもん!」
そう自信たっぷりに胸を張る夕陽を見て彰二はホッと胸をなで下ろして――、
「……?」
微かな違和感を覚え、浮つきかけた気持ちがゆっくりと沈んでいくのを覚えた。
「ああ、もう!」
一際大きな声を上げたかと思うと、虎千代はソファを思い切り蹴飛ばしてとうとう部屋の外へ飛び出して行ってしまった。彰二や夕陽の姿なんぞ眼中にないと言わんばかりの勢いで昇降口の方へと向かっていった。
「って……ま、マズイ! 夕陽、虎千代センセを追い掛けるぞ!」
「……フフッ」
早く行かないと見失ってしまう。
焦燥に駆られる彰二を他所に、何故か夕陽は心底嬉しそうな笑みを浮かべて虎千代の走って行った方向を見つめていた。
「……夕陽?」
「うん! 追い掛ける! エージ、行こ!」
「お、おう!」
その一瞬、夕陽は確かに笑っていた。
何故かその笑みが胸の内にこびり付いてモヤモヤとした気分になったが、彰二は構わず昇降口へと走り出した。
ぽつぽつと新作のメモ書きを続けてます。
……が、どうにもしっくり来なくてちょっと;
来年には公開して、コンテストに出したいトコなんですけど……
次回更新は11月18日。
では、待て次回。