10.若人
10.若人
「ハイヤァッ!」
気合一閃、05の中段蹴りがイゴロクの胴へ放たれる。イゴロクは咄嗟に畳んだ肘でこれを受けるが、その気迫と威力で百キロを超える巨体がわずかに揺れ、その動きが一瞬鈍る。
離れた位置にいた04がその隙を突いて、イゴロクへ構えた二丁のセーフティーガンの引き金を同時に引いた。だだん、と音を響かせて、銃口から弾き飛ばされたものが銃弾の速度でイゴロクへ迫る。しかしイゴロクの反応は速かった。音を察知し、手にした短杖の一振りで瞬時に弾を叩き落としたのだ。二つのゴム弾が派手な音を立てて石畳で跳ね、全員の視界から消える。異常な反応の速さを見て、04はチッ、と舌打ちして銃口を上げた。
先ほどの射線上に05が滑り込み、両足で地を蹴り片足を振り上げる。跳びあがってのその上段蹴りを、イゴロクはかち上げた肘で迎え打ち05を弾き飛ばした。
「うおぉっ!」
空中でバランスを崩した05は背中から落下し、追撃を逃れようと後ろに転がり04に並んだ。
「何しちゅうがお前ぇ!?」
「るっせえ!てめえこそチマチマ撃つな!」
互いが罵倒を飛ばすその最中、イゴロクが足を上げる事なく地を滑り二人に迫る。重量に見合わぬ速さで、ごう、という巨体が近づくその音に二人ははっとし、同時に地を蹴り距離を広げた。二人の眼前を巨体がかすめ、その巨体は通り過ぎた後にギャリィ、と石畳に弧を描いて止まる。内蔵されたホバー機能の成せる動きだ。
「貴様等二人は相変わらずか」
呆れの混ざったその声に、二人はむっとした。
「こいつが足引っ張っちゅうが」
「こいつが足引っ張んだ」
ほぼ同時に言った二人は、その直後、全く逆の行動に出た。05が大きく前に出てイゴロクに迫り、04は後ろに下がり自分の背中に背負ったアタッシュケースを外して石畳の上に置く。イゴロクが短杖を構え05の蹴り、掌打と続く連撃を捌き、自らも得物で相手を迎え撃つ。04はというと、二人の格闘戦を一瞥した後アタッシュケースの中身をごそごそと探り始めた。
「えーと、確かアレがこの辺に……」
「早くしろ馬鹿!」
05が突き出された短杖を手掌で弾きながら叫ぶ。二撃、三撃と繰り出される短杖での刺突を、05は後退しながら平手で右に、左に受け流す。ウエイトに倍以上の差があるイゴロクを相手にして、05は援護を悠長に待つ余裕がなかった。
04は05からの無言の重圧をうっとうしいと感じながら手を動かし、目当てのものを探り当てた。
それは赤く細長い箱状のもので、側面には三つのボタンが設けられていた。それぞれE、B、Sとアルファベッドが刻まれている。04は片方のセーフティーガンの銃口を上げ、撃鉄に当たる位置にあるスイッチを親指で押し込んだ。
『Shift to Danger Mode』
セーフティーガンから電子音声が上がり、銃口付近の凹凸がかちゃん、と音を立てて変化する。04は銃口の先に先ほどの赤いパーツを近づけ、その凹凸をかみ合わせ接続させた。そうする事でセーフティーガンは別の用途を持つアドバンスド・クラフト、デンジャーガンへと変わる。04はデンジャーガンの側面に並んだ三つのボタンのうち、Eを押し込んだ。
『Electric Shot!』
04は追加パーツにあるシリンダー部を掴み、ガシャンと音を立てて前後させた。そして長くなった銃口の先をイゴロクへ構える。
「どけ、衙門!」
05が声に気付いてイゴロクから離れるのと、04がトリガーを引いたのはほぼ同時だった。放たれたものが高速でイゴロクに迫る。しかしその時、イゴロクは05の猛攻を捌きそこねバランスを崩しかけた状態だった。前傾し過ぎた体勢からイゴロクが短杖を振るうが、近づく弾丸は短杖の側面をかすめ、イゴロクの首元へと着弾した。
着弾と同時に、弾の先端に内蔵された、高電圧を蓄えた電池が接触によって回路を成した。そして弾の中ほどが衝撃によって破裂し、内部にあった電解質の液体をイゴロクの全身へとぶちまけた。一瞬の間に起きたその出来事により、イゴロクの全身を高圧電流が走り、巨体の動きが一瞬止まった。
05がこれを見、再びイゴロクへ迫る。地を蹴り宙を舞う。
「ハイイィィィィッ!」
空中で上体が捻られ、片足が大きく弧を描く。胴のひねりと遠心力とで勢いのついた足は、鋭い勢いでイゴロクの喉元へと突きたてられた。
「オアタァッ!」
裂帛の気合いと共に放たれた跳び蹴り。その威力は、イゴロクが人間ならば致命傷となり得る程のものだった。一撃でイゴロクの巨体がぐらりと傾ぎ、そして電撃によって姿勢が固まったまま、重い地響きを立てて仰向けに倒れた。
05が着地し、相手が動かないのを見て空への拳打、上段回し蹴りの後、残心。04はイゴロクが動く様子がないのを確認した後で銃口を上げ、撃鉄のボタンを押す。
『Shift to Safety Mode』
赤いアタッチメントの接続部が、かしゃんという音と共にセーフティーガンから離れる。04は外れたアタッチメントを脇に抱え、顎の下の通信スイッチを親指で押した。
「住良木、そっちはどないなっちゅう?」
04のメットの中で、通信に応じた住良木の声が上がる。
『無力化ご苦労。こちらでは、ドクターが三人確認された。現在、ファーストからサードまでで各個追跡している』
「はあ?よお分からんが、まさか部長も一人にしちゅうんか!?」
04の応答を聞いた05が、血色を変えて自身の顎の下を押す。
「一人で追わせた?走らせてんのか!?」
『問題ない。飛行用のあのアドバンスド・クラフトを提供した』
「はあ、正気か!?あれ確かろくに整備してねーんだろ!?」
05はかつて住良木から聞かされた事をそのまま口にした。
レスキューメイトが所有するアドバンスド・クラフトのうち、ビッグブローに搭載されたものは住良木が管理・手入れする事になっている。しかし住良木は、ビッグブロー本体以外の整備はろくにしていないと他のメンバーに公言しているのである。
『失敬な。人に渡す手前、あらかじめ確認はしている』
「燃料はどうしちゅうが?」
御深山の問いかけの後、住良木はすぐに返事を返す。
『……』
沈黙によって、だ。
『……部長を信じろ』
「手前、馬鹿!」
05が怒鳴り、通信を切って走り出した。それを見た04も、慌ててアタッシュケースを閉めて彼を追う。
「おい衙門、レーダー見いや!」
仰向けに倒れたイゴロクを置き去りに、二人は中央公園を立ち去った。
空を泳ぐ赤い大きな風船は、衆目を引く代物だった。歩道を歩く人々は空を見上げ、建物の中にいる人々は窓際に集まり、車道をまばらに走る車は一様に速度を落としてフロントガラスやサイドミラー越しに風船を視界に収めていた。
「あ、Dr.ファンだ!」
歩道を行く幼い子供が母親の手を引きながら風船を見上げて指差す。その子に限らず、子供達は皆キラキラした眼で風船を見ていた。親や大人たちはというと反応が分かれており、ファンが何かをしでかすのを期待する目と、何をされるにせよ迷惑だと言わんばかりの胡乱な目とをいずれも無遠慮に風船に向けている。
空中で衆目に晒されているファン本人は、数多くのそれらの視線に酔いしれていた。
「んーんん、これだよこれ、半年ぶりだなぁ……」
全身を撫でる風に心地よさを感じながら、彼は控えめに観衆へ手を振った。一部ではしゃぐ声が大きくなったのを聞き届けながら、彼は追手がいるであろう方向へふと目をやる。追い付く影は見当たらず、彼は安心するよりもむしろ落胆し、肩を落とした。
「しかし遅いな。やはりあの子でないと、他の面子も張り合いがないか」
ファンはそう零し、ふと昔を懐かしんだ。
長きにわたり、レスキューメイトを相手取ってきた数年。その彼にとって、半年前までのメンバーは実に心踊る相手だった。そのうちの01とは波長が合い、そのおかげで彼は気持ちよくDr.ファンを演じる事が出来たのだ。
しかし今その01は別人であり、彼を追う影も未だない。衆目を浴びるのは、ファンただ一人。
「……これでは道化だ」
彼がそう一人ごちた時、新たな歓声が彼の背後で上がった。何事かと彼は振り返り、自分に近づく影に気付いた。
道路の上空を、落ちるように弧を描いて動く人影。その様子を飛ぶ、と表現するのは少々正しくない。それは落ちる間際を迎える度に細いものを電線や家屋の屋根へ投げつけ、その先端をひっかけて自身を慣性で引き上げて前進するのを繰り返しているのだ。
「スパイダーマンか、ありゃあ!」
観衆の一人が、ことさら大きな声で言う。それを聞いた他の誰かが、更に大声を上げた。
「違う、レスキューメイトだ!」
まさにその声の通り、それはレスキューメイトの03だった。ファンはその人影のヘルメットの側面に描かれた03のロゴを見て、ふ、と口の端を吊り上げた。首から提げていた拡声器を片手で持ち上げ、野次を飛ばす。
「一番乗りだが、鈍足だなぁ!」
「寄り道させられてたけんねぇ!」
03が顎の下にあるボイスチェンジャー機能をONにしたまま声を張り上げた。
路地裏を滑空していたファンを追っていた彼女だったが、現場に到着した彼女が見たのはファンの乗っていたボード型のアドバンスド・クラフトだけで、しかもそれは路地裏に並んだゴミ入りのバケツを蹴散らしたまま、無様に転がっていた。そしてその傍のビルの壁には、ボードに乗っていた姿勢そのままで横たわるファンの、半透明な映像が映っていたのだった。
「ホログラフに引っかかるとは、まだまだ青い!」
「大口叩くのも、今だけぞね!」
サードが前の手で持ったワイヤーに揺られながら、後ろ手で持った方のワイヤーを器用にたわませ、その先端に付いたフックを電柱の先から外して腕を振り上げた。ワイヤーは投げつけられた勢いで、まっすぐにDr,ファンへと向けられる。03の今の高さとワイヤーの長さを考えれば十分に届く距離だ。
「おっと危ない」
ファンは足元に迫るフックを、片足を軽く上げて避けた。すんでの所で避けられた03は歯噛みしながら投げたそのワイヤーを手近な街灯の先へかけ、自分の体を強く引き寄せ、大きく空中で一周した。軽業師のようなその動きに、二人の眼下でますます観衆が湧く。その間にもファンは更に風船で前進していき、03は先ほどの街灯の上に着地し口惜しそうにその後ろ姿を見送った。
追うのを諦めたのではない。追えなくなったのだ。
ファンがいるのは住宅街の上空であり、ビル街と比べると低い建物が多い。そのため03の移動方法では速度を得る為の遠心力を十分には獲得できず、かといって地面すれすれを通るようでは人や物に衝突する危険が生じてしまう。その上、今の03の前方には、彼女の持つワイヤーの届く範囲に移動に利用できる高い樹木や建造物は存在しない。
「……これは住良木待ちかいねぇ」
03は移動に使った二本のワイヤーを巻き取りながらそう一人ごちた。顎の裏の通信スイッチを入れ、02に声を飛ばす。
「今どうなっとん?」
『絶賛追走中だ』
その通信から規則的に重い足音が聞こえ、03はその音でビッグブローが人型になって走っているのだと分かった。
『追っておいて何だが、どうもこちらは偽物らしい。ツバメが奴の体をすり抜けたのを見た』
やっぱりか、と03は黙って頷いた。
『そちらが本命だろう。首尾はどうだ?』
尋ねられた03はう、と言葉に詰まった。
「……ごめん、逃げられそう」
『そうか。だがまだ、部長がいる』
「あいちゃん?あの子がどうかしたん?」
『今そっちへ向かっている』
「は?」
03は耳を疑い、02のいるであろう方向、つまり背後を振り返った。すぐに彼女は、自分に迫るものがあるのに気付いた。それの軌道は不規則で危なっかしく、明らかに飛ぶ事自体に慣れていない。
鋭角的な翼を四枚広げた独特なシルエット。その起点にあるのが人影で、レスキューメイルを着込んだ誰かだと分かった瞬間、03は通信のチャンネルを01に合わせた。その瞬間、彼女の耳に悲鳴が入る。それで03は、全てを察した。
「あいちゃん、何しとん!」
返る言葉は悲鳴と叫びばかりで、かろうじて「き、キヨさん!?大丈夫です!」という返事が03には聞き取れた。しかし大丈夫という言葉とは裏腹に、空を飛ぶ様子に安定性は微塵もない。自分に不安定な軌道で近づいてくる01の動揺を察し、03はますます声を張り上げた。
「あいちゃん、無理せられん!落ち着いて、どこか手近な所に……、って!」
そこまで言いかけた所で、飛行する影が03との距離を一気に詰めた。急な接近に03はぞわり、とした肌の感覚に従って咄嗟にのけぞるように倒れ込み、その腹部すれすれを飛行する影が通る。通り過ぎた後にその影を見送り、03は人影の後頭部に01のロゴを確認した。03は体勢を直し、通信のチャンネルを02に合わせる。
「どういうつもりなん!?」
『座らせて待たせるだけでは、ただのマスコットだ。ドクターの言う通りになるのも癪でな』
少し前にファンに言われた事を思い出し、03は口をつぐむ。
『部長にも、格好つける機会を与えるべきだ。デビュー戦なら、なおさらな』
03はそう言われ、ふと観衆に目をやった。新たなレスキューメイト、それも十年前から代々リーダーに与えられる01という番号を冠した存在の登場で多くの者が歓喜の声を上げている。大人はもちろん、特に子供達の歓声が03の耳にも届いていた。かつて自分にも向けられていたその声に、03は我知らず頬を緩める。
「……それにしたって、危なかろうがね」
『部長も遊びで乗っている訳ではない。操作方法も念入りに教えた』
02の言葉を肯定するように、03の見ている前で飛行する01の軌道が変わってきた。不安定なブレが次第になくなり、明確な狙いをつけてファンのぶら下がった風船へと接近していくのを見て03はようやく不満を呑みこむことができた。
「……心配せんでええんやね?」
「そうだ。……と言いたいが、実は困った事がある」
「何なん?」
「実は燃料がもうない」
03は通信を切り、街灯から跳び下りた。
風を焼いて進むジェット機のような音に、ファンは、ほお、と弾んだ声を上げて後ろを見やった。自分に向かって空を飛んでくるものを視界に収め、それがレスキューメイトであると分かってファンは高らかに笑った。
「ハァーッハッハ、空を飛ぶ者は久しぶりだなぁ!」
ファンは空を飛ぶ為に稼働しているアドバンスド・クラフトを見て現状を理解していた。乗り手を選ぶそのアドバンスド・クラフトが動く様を見るのは彼にとっても何年かぶりで、だからこそ彼の心は弾んだ。空を飛ぶレスキューメイトはその軌道にようやく慣れを見せ、円を描くように離れた場所でファンを追い抜き、ファンの前へ回り込んだ。空中で姿勢を制御し、ファンの進行方向で静止する。
「そこまでです、Dr.ファン!」
レバーを持つ両手の指をせわしなく動かしながら、そのレスキューメイト、01が声を張り上げる。その姿を見るファンの目が細まり、口元は心情を表すように緩んだ。
「おーやおや、声も変えずに大声上げていいのかなー?」
「え?」
言われて01ははっとしたように片手を面体越しに口元を押さえた。その後自分がレバーから手を離したせいで体が傾いだのに気付き、慌ててレバーを握り姿勢を直そうとする。背負ったアドバンスド・クラフトを振り返りながら不慣れな操作で上下を繰り返す彼女に、ファンは風船にぶら下がったまま、笑いを堪えきれずくくく、と笑った。ようやく安定を得た01が再びファンへと顔を向け、物言いたげに沈黙を投げかける。
「いや失敬、意地悪だったかな?」
「……ご忠告と受け取らせていただきます」
謙虚とも皮肉とも取れる返事に、ファンはますます愉快そうに笑った。01が空を飛ぶために操作しているアドバンスド・クラフトのタービンの回転音と高所を吹く風の音を考えれば、大きな声で話すのは当然の事である。
「やはり前のファーストとは違うね、君よくいい子って言われるでしょ?」
「……からかってるんですか?」
「君ぃ、私が真面目にやってるとでも思ったのー?」
ビジュアル系のバンドマンのような男は、トマトに似せた風船にぶら下がったままそう言って肩を竦めた。01は返す言葉がなく、むう、と唸る。
「さてここでクエスチョンだ。君は今から私をどうするつもりだい?」
「え、それはもちろん、捕まえて……」
「君両手ふさがってんじゃーん。それとも、ぐわーって飛んで羽で風船をこう、ズバッと切っちゃうつもりかい?」
言われて01はあ、と声を漏らした。ファンの言う通り、彼女の両手は支えの無い空中で高度を維持するために握りしめられており、迂闊に離せない状態である。ファンと彼女とは今地上から10メートル以上も高い位置におり、落ちればただではすまない状況でもあった。
「……、このままここでじっとしてもらいます。他の皆が来れば何とかなりますし」
「ずいぶん呑気だねぇ。確かそれ、そんなに長くは飛べないんじゃなかったっけ?」
言われて01は言葉に詰まり、直後、はっとした。少し前に02に言われていた事を思い出す。
『……最大時速100キロ、最大持続飛行時間30分。場所を選ばぬ移動用の……』
「な、何でそれを……」
「そりゃ私、それ昔動いてるの見てたし?伊達で十年も悪役やってないっていうかー」
「そ、それでも足止めならできます!大人しく、騒ぎを収めてもらい……」
そこで、タービンの回る音が変わった。きゃるる、と軽い音になり、01の体が傾ぐ。
「え、あれ?」
戸惑う01が手元を見、操作に誤りがない事に気付き改めて背後を見る。音は次第に小さくなり、01の高度もそれに合わせて下がり始めた。ファンがそれを見て眉をひそめ、首を捻る。
「ん?どうかしたの?」
「え、え?何で?」
01が慌てて何度もレバーをがちゃがちゃ操作するが、タービンは出力を上げず高度も上がらない。01のファンを見る視線も次第に下がり、01もまた次第にファンを見上げる恰好になっていた。
「あれ、何で!?上がらない!」
『部長、粘るんだ』
01のメットの内側で、02の声が上がった。重く忙しないビッグブローの足音も、それと同時に聞こえてきた。
「先輩、これって」
『すまん、こちらの不備だ。燃料を見ていなかった』
その一言で、01は全てを察した。手を止め、掴まるものを探すように周りを見る。ビル街に見えるビルの陰から、人型となっているビッグブローの姿が現れ、道の真ん中で空中を見上げている観衆の上を大股でまたぎながらこちらに走り寄ってきているのが見えた。受け止めてくれるつもりか、と彼女は安堵しかかったが、距離が開き過ぎているのに気付き、再びすがるようにレバーを操作した。しかし彼女の願望とは裏腹に、タービンの音はどんどん弱くなる。腹の中身が浮きそうな不快な感覚に、彼女はどうにか高度を維持しようと無理やり唾を呑み、足をばたつかせた。しかし当然ながら彼女の落下は止まらない。
「ちょ、無理ですよ!もうホントに落ちそうです!」
『あいちゃん、待っとり!今行くけん!』
メットの内側で、今度は03の声が上がった。続いて他の声がすぐに上がる。
『部長、待っちょれ!エアバッグ持って行っちゅうき!』
『すでに膨らませている!薄い灰色のでかい奴だ!見えたらそれの上に落ちろ!』
04、05と続く声で01は視界の隅、ちょうど中央公園のある方角から、空気によって大きく膨らんだ、スタントマンが高所落下で使うような大きなエアバッグが二人のレスキューメイトの乗る自転車によって引っ張ってこられているのを見つけた。変身ヒーロー二人が全力で自転車を漕ぎながら膨らみ切ったエアバッグを引きずる絵面は実に間の抜けたものだったが、今の彼女には何より頼もしいものに見えた。落下の衝撃を防ぐのに充分な厚さを持つそのエアバッグに01は安堵しかけるが、しかしこれもまた彼女の落下地点から離れた距離にあり、間に合うかどうかは怪しいものだった。その後すぐに01は自分に一番近い位置にいる03を見つけられたが、その彼女は住宅地の細道を必死で走っており、ワイヤーによって何かを仕掛けようとしている余裕は見られなかった。
誰にすがるべきか01が考えたのも束の間、ついにタービンがぷすん、と音を立てて回転を止めた。背負ったアドバンスド・クラフトの重さで体が傾ぎ、01の体は仰向けになって自由落下を始めた。
「は、わわ、わあぁー!?」
01は手足をばたつかせるが落下は止まらない。上下が逆になった視界の中でみるみるうちに地上が頭上に迫っていくのに、01は慌てふためく。今の彼女の頭上には、誰も追い付いていない。
「ど、どど、どうしようどうしよう!ええと、ええと……」
ふと、彼女の脳裏に母の顔がよぎった。いつだったかは思い出せないが、海外から帰ってきて早々、神妙な表情になって話してきた時の顔だ。
『纏ー、お母さんつくづく思うのよ』
『お母さんどうしたの?』
01は今そこにある危機を脱却する可能性に期待して、その時の言葉の続きを思い出す。
『人にはね、掴むものも、足をかけるものもなく宙に身を投げ出す羽目になる時があるの』
まさに今自分が直面している事態と重なっている。01はおぼろげな記憶を引きだそうとさらに集中した。
『またひどい目にあったの?』
『まあね。ベタな話でさ、遺跡の中で老朽化で開いた穴にね、落っこちちゃったの』
『よく助かったね』
「ホントにねー。お母さんもね、落ちてる時は「あ、ヤバい。これ何もできない」って思ったの。落ちながら、ああ、あとは地面にぶつかるだけだなー、って。でもね、いざ地面にぶつかる、って瞬間に、出来る事が一つだけあったのよ』
『何?』
肝心な言葉を思い出そうと、01は刻々と近づいてくる地面に目をやる。そうした瞬間、脳裏にまざまざと母の言葉が思い出された。
『我慢よ』
そう答えた母の後頭部に、大きなガーゼが貼られていた事も思い出した。01の脳裏に浮かんだ母は自慢げに笑い、最後にこう言った。
『手がかりも足がかりもないんなら、出来る事は我慢だけってね』
「うわーん、役に立たなーい!」
01はあらん限りの感情を全力で吐き出した。彼女が慌て考え抜いている間にも、無上にも引力は彼女と固い道路の路面とを引き合わせていた。背にした重い荷物によって、加速度は更に増している。彼女の落下地点にたどり着いている者は、いない。赤い鉄の巨体も、薄い灰色のクッションも、オレンジ色の人影も。誰もが彼女を見ていながら、誰もがそこへあと一歩、届かない。
01と地面との距離が、ついに1メートルを切った。すぐに来るであろう衝撃に備え、彼女は目を閉じ身を丸めようとした。
不意に、彼女の襟首が後ろから掴まれた。無理やり引き上げられる感覚に、彼女は驚き背後を見る。
Dr.ファンと目が合った。
「え?」
間近で見る白塗りの顔に01は喉から心臓が飛び出しそうな思いに駆られる。先ほどまでファンがぶら下がっていた風船が、彼のはるか後方に見えた。
「じっとしろ」
真面目な声に01は耳を疑う。彼女の戸惑いをよそに、ファンは彼女を小脇に抱えた。そして両足を地面に伸ばし、地面に向ける。分厚いブーツの底が、アスファルトの上数ミリまで迫る。
そこで、二人の落下は止まった。見えない、弾力のあるものの上に乗ったかのように二人の体の勢いが次第に減り、地面にぶつかる寸前で止まったのだ。
二人が止まったその直後、その間近までたどり着いた他のレスキューメイト達がほぼ同時に二人を取り囲み足を止める。全員が二人が無事である事への安心よりも先に、目にした現状に戸惑いを見せていた。あまりにも不自然な現象に、ファン以外の誰もが理解が追い付かないでいる。
三人のレスキューメイトと一台のロボットがファンの足元を覗き込もうとわずかに首を傾ける。すると、ファンのブーツと路面との間で、ちりちりと静かな音が上がり始めた。
「あ、離れてねー。吹っ飛ぶから」
01を小脇に抱えたまま、ファンが呑気にそう言った。足の下から上がる音は次第に強くなり、火に似た明かりが漏れ出始める。レスキューメイト達が何かを察して数歩後ずさり、抱えられたままの01は何が何だか分からず、何度も周りを見回した。
ファンの足元からの音はどんどん大きくなり、漏れ出る明かりも輝きを増す。続く出来事を示すように、ファンの視線は上を向いた。その上体は前へ傾ぎ、両膝が曲がり腰が沈む。
「はい、歯ぁ食いしばってー」
歯医者が患者に言うような口ぶりでファンが01に言う。01が言われた通りにした途端、どん、とファンの足元から大きな音が上がり、二人の体は宙へと一気に躍り出た。一瞬にして6メートルを超える人型のビッグブローのさらに頭上を越え、遠く離れたビル街へと放物線を描いて飛んでいく。01は喉の奥から出かかる悲鳴を食いしばった歯で堪え、みるみるうちに遠ざかる地面と小さくなるいくつもの建物の屋根、そしてはらわたの浮く感覚に面食らう。自分のために駆けつけてくれた先輩達の姿が小さくなって消えていくのにも大きな不安を感じ、また自分を抱える人物の意図も読めず、01は浮き上がる腸の感触を堪えながら面盾の下の目を白黒させるばかりだった。
彼女の戸惑いをよそに、レスキューメイル越しに肌寒さすら感じるほどの速さで二人の体は飛距離を伸ばしながら高度を増していく。01は自分たちが向かっている先に大きなビルを見たその時、自分達を上へと持ち上げていく力の勢いが次第に弱まっていくのに気付いた。
「あの、これ……」
「だーいじょぶだいじょぶ、ギリギリ届くはずだから」
ファンは大した動揺も見せぬままであり、01は近づくビルの窓がどんどん下へと流れていく様子を見ながら次第に大きな不安を感じずにはいられない。上昇の勢いはますます弱まり、彼女の不安が膨れ上がったその時、彼女等の眼前で窓の流れは屋上を囲む柵によって唐突に途切れた。
「よっ、と」
ファンは01を抱えたまま両足を曲げ、柵を飛び越える。そこで二人を持ち上げる力は消えた。ファンはビルの屋上の石畳に着地し、ふふん、と得意げに胸を反らす。
「只今の私、10点満点!記録更新ならず!」
誇らしげにそう言い切りしばし余韻にひたった後、彼は思い出したように小脇に抱えていた01を軽くゆすった。
「ほら、降りた降りた。流石にちょっと重いのよ」
言われて01ははっとし、自分が高所を行ったり来たりしていた状態から解放されたのにようやく気付いた。思いもよらぬ結末に、未だ理解が追い付かない頭のまま慌てて足を石畳に降ろす。立とうとした彼女だったが、背中に背負った重い荷物のせいで、やや乱暴に腰を降ろす羽目になった。彼女の腰と共に、ガゴ、と重い音を立ててキャリーフライヤーが石畳の上に落ちる。そのまま後ろに倒れそうになった彼女の手を、ファンが掴んで支えた。
「あ、ありがとうございます……」
礼を言った後、01は腰のジョイントを掴み、キャリーフライヤーとの接続を解除した。ようやく身軽になった体で立ち上がり、メットを脱いでファンを見上げる。素顔を見せた纏に、ファンが満足げに口元をほころばせた。纏はファンのその表情から彼の意図を読みかねる。
「えと、何で助けて……?」
「何を言っとるのかね君は。痛いのは楽しくないだろ」
当たり前のようにファンは言い放ち、眉根に皺を寄せた。続く言葉のない沈黙に、纏は話がすぐに終わったのだと分かった。
「……え、それだけ、で?」
「君ぃ、ファンを冷血漢だと思ってないかい?ファンは皆の人気者、笑顔もたらすエンターテイナー。ほらほら見てみそ、こんなに笑顔!」
ファンは自分の白塗りの顔を両手で指差し、口角の上がった満面の笑みを浮かべて見せた。 纏は彼の言葉の意図がつかめず、笑う余裕もなく目を白黒させるばかりだった。しかしすぐに聞くべき事に気付く。
「あ、そうだ!何であの時、落ちる勢いが減ったんですか?あんなジャンプができるのもおかしいし」
「ネタばらしなら、足元注意」
カカン、とファンがステップを刻んで纏の注意を足元へと引きつけた。彼女はファンの足元へ目をやり、彼の靴に気付く。一見すると悪趣味なアクセサリーにまみれた編み上げ靴のようだが、メッキで覆われたそれらの装飾物はいずれも電気用の配線でつながっており、一際大きな宝石のような石は光源でも仕込んでいるかのように煌々と光っていた。
「アドバンスド・クラフト『六ブンノ一』。引き合う力や押し出す力を自由自在に変換しちゃう、すごい靴。月面ジャンプも地球で出来る、ドクター自慢の逸品ものさ。あ、非売品ね」
得意げに語るファンの言葉に、纏はファンがアドバンスド・クラフトを自作できる事を思い出した。不意に頭に浮かんだ可能性を、思わず口にする。
「まさか、昔レスキューメイトだったんですか!?」
彼女本人にとっても予想外の大きな声に、ファンが目を丸くして黙り込む。咄嗟に口を押える彼女をファンは見下ろし、やがてついと目を逸らして呟く。
「……だったら良かったんだけどね」
その声は、先ほどまでとは打って変わって小さく、か細いものだった。
「え?」
「それはさておき!」
やおら元の勢いを取り戻したファンが大げさな身振りで纏に指を突き付けた。不意を打たれた纏が息を呑み、その反応を見たファンが一気に言いたい事を言う。
「君ぃ、駄目っしょー?ヒーローが悪役に助けられていいのは、より強大な悪に追いつめられた時オンリーって学校で習わなかったー?」
「そ、そんなの初耳です……」
「マジでぇ?ああ、君ガールだし?男だったら皆分かると思うんだけどなー」
「そんな、保健体育じゃあるまいし……」
「でもさー、ホントに危なかったよ?次から気を付けてね」
こう言われると、纏には返す言葉もなかった。再び命の恩人に「ありがとうございます」と頭を下げ、その後に背後にあるキャリーフライヤーに目を向ける。ファンも彼女の視線を目で追い、ああ、と合点がいったように声を上げた。
「まあ、何だ。悪い性能じゃないんだよそれ。おせっかいかもしんないけどさー、メンテは自分でやっとこーよ」
「おっしゃる通りです」
本心から頷き、うな垂れる纏。ファンはそんな彼女を見かねたのか、すぐに明るい声を上げた。
「そんな事より、何よりリアリィ?君はホントに慕われてるねぇ」
え、と纏が顔を上げると、ファンが満足げに笑いながらレスキューメイル越しに彼女の肩を軽く叩いた。
「あの子以外にあのメンバーのリーダーなんかできっこないと思ってたんだ。そしたらどうだい、皆が必死で君を助けに来たじゃないか」
言われて纏は、自分の元に駆けつけていた四人の事を思い出した。
「あのメンバーはこれまでのレスキューメイトの中でも、黄金期と言ってもいいくらいだ。どういう経緯かは知らないが、そのリーダーを君はそっくり引き継いだ訳だ。これがどういう事か……、分かるかね?」
思わせぶりな沈黙を置くファンに、纏は確かめるように言う。
「……責任重大、という事ですか」
「んー、近い。実に近い。が、もうちょい調子に乗って」
纏はえ、と声を漏らした。正答を黙って待つファンに纏は戸惑い、何と答えるべきか必死に考える。前部長の柿原と比べて自分に足りないものが何かを問われているのか、と考えかけて、ファンの言う「調子に乗った」回答と結びつかないのに気付く。かといって自分の行動を振り返ると、まるで褒められた部分がないと纏には思えたが、ファンの反応は好ましげで、更に彼女は混乱する。考えをまとめられないでいる彼女を、ファンは楽しそうに見ているだけだ。
「え、えーと、皆すごくて、柿原さんもすごいリーダーなんですよね?」
「何をもってすごいと言うかによるねぇ」
ヒントにならない返答に、纏はえぇ、と困ったように呟く。堂々巡りを始めた思考のまま困る彼女の背後で、屋上へつながる金属製の非常階段を駆け上がるけたたましい音が近づいてきた。
「おっと、噂をすれば、か」
「え?」
そこで考えを中断された纏は、近づく音がある事と、それが数人の足音である事とに気付いた。足音の主達を見ようと背後を振り返り、未だ姿が見えないのを見てファンに目を戻す。その時すでに、ファンは大きく後ろに跳んで屋上の手すりに背を預けていた。纏は距離を開けられた事に気付き、彼が元いた位置と今いる位置とを見比べる。
「え、まさか、もう」
「そ、グッバイ準備」
そう言って、ファンは取り出した小箱のスイッチを入れた。彼の隣の空間が大きく揺らぎ、鎧武者に似た巨体が姿を現す。纏はすぐに、それが御深山と衙門に任せていたはずのイゴロクだと分かった。全身の装甲のあちこちに焼け焦げた跡のあるイゴロクが、自身の主人を見下ろして尋ねる。
「マスター、終いか」
「今日は、な。何せ悪役やるのも久しぶりだ、向こうも俺等も、勘を取り戻さないとな」
ファンは纏をちらりと見た後でイゴロクにそう言うと、再び纏に向き直った。胸を張って腕を組み、いかにも悪役といった風に顎をしゃくって半身を引く。そこへ、階段を駆け上がって02から05までのレスキューメイトが現れ、纏の元へ駆けつけた。
「部長、無事か!?」
いち早く彼女の元に近づいた02が彼女の隣に立って問いかける。彼女は自分と並び立った四人を見回し、02に頷いた。ファンが揃い至ったレスキューメイトに目をやり、尊大な姿勢のまま不敵に笑う。
「今回はレスキューメイトの復帰記念だ。せっかく控えめに騒がせたんだ、この程度で『苦労した』などと言われては困るなぁ」
尊大な口調で語るファンに、空気の変化についていけていない纏以外が反応する。最初に声を発したのは02だった。
「相変わらずで、返って安心したくらいだ」
「桜はどこにやったん?」
「法に触れるき、さっさと言えや」
「功夫以前に、常識が足りねぇ」
レスキューメイト達の口から次々と飛び出す悪態を、ファンは涼しげな顔で受け流す。それから彼は、投げかけられた質問についてだけ答えた。
「桜は君等のよく行く場所に置いてきた。今頃そこはてんやわんやさ。いくらファンでも、ちょーっと悪い事したかなー、ってトコだからねぇ」
「そこは一体、どこなんですか?」
纏が聞くと、ファンは右へ手を突き出し、指先を伸ばした。その指の差す方向へ五人は目を向ける。
屋上の手すりの向こう側に見える街並みの中に、病院の看板が見えた。空坂でもっとも大きな規模を持つ、市立空坂病院のものだ。病院の屋上に立つそれは、普段ならどこからでも見えるように名前がでかでかと書かれているのだが、今はそれが屋上のスペースを埋めんばかりに並べられた緑色の何かで覆い隠されていた。高所を吹く風によって枝葉をさざめかせるそれは紛れもなく―――
「あんなところに……」
病院の屋上で若い葉をつけたたくさんの桜の木々に、纏は目を丸くした。ファンが言ったように、呼ばれて来たらしいクレーン車が数台、病院の傍でその長い首を病院の屋上へと伸ばし始めている様子まで見る事が出来た。
「ホントは花が咲いてる時期にああしたかったんだがね」
「お前いったい何考えてんだ」
05が一歩踏み出し、ファンを指差して声を荒げた。それに02も続く。
「全くだ。病院に根付きの木など送るとは、縁起でもない」
「そこじゃねーだろ」
05がツッコミを入れた所で、今度は03がファンへと声をかけた。
「やっぱり、先輩のためなん?」
その言葉に、その場の全員が彼女を注視した。纏には清原が先輩と呼ぶ相手が誰なのかすぐに分かり、確かめるようにファンを見る。ファンは03を見たまま、わずかに口元を歪めた。
「センチメンタルなのは楽しいとは言わんだろ?」
「それがあんたの仕業やないゆう理由にはならんろ?」
ファンは視線を逸らし黙り込んだ。すぐにイゴロクがファンの前に出、03をねめつける。
「問答はいい。貴様等がしたい事は何だ」
挑発とも取れる発言に真っ先に反応したのは、セーフティー・ガンを構えた04だった。すでにアタッチメントを銃口に取り付け、デンジャーガンへと変えている。
「お前等をとっ捕まえて、俺等に箔を付ける事かにゃあ」
「うむ、ヒーローの務めを問うのは、いささか野暮だな」
02が04と並んでセーフティー・ガンを構えた。イゴロクが二人を見て二本の短杖を取り出し、構える。03や05もまた、じわじわと腰を落とし始める。一触即発の空気が生まれた矢先、ファンが掲げた手を大きく翻した。風を切るその音に全員が目を向ける。
「よそう。桜の在処がバレた以上、今日はもう喧嘩する理由がない」
ファンはそう言うと、右足のつま先を上げ、踵を軸にして小刻みに靴で床を叩き始めた。02達は怪訝そうにしていたが、纏だけはファンの狙いに気付く。
「ま、待ってください!」
ファンが動きを止めずに纏を見た。
「何かな、ニューリーダー?」
「あなたがアドバンスド・クラフトを作るようなすごい人なのは分かりました。色んな迷惑をかけるけど、悪い人じゃないのも分かります。ですけど、だったら何でこんな事をするんですか?」
その質問に、ファンが動きを止めた。纏の目をまっすぐに見つめ、やがてその顔に笑みを浮かべる。
「黄金期を越える、プラチナの時代を見たいんだ。頼むよニューリーダー」
「え?」
「苦労しな若人!さらば!」
言うや否や、ファンが地を蹴り後ろへ跳んだ。赤い白衣をなびかせて手すりの向こう側へ身を躍らせ、下に落ちて姿を消す。五人は慌てて手すりへと駆け寄りその下を覗き込んだ。
ファンはみるみるうちに屋上から遠くなっていたが、落ちてはいなかった。地面に垂直に立つビルの壁面に両足を付け、そこがスケートリンクであるかのようにすいすいと蛇行しながら滑っていたのである。纏にはそれが、先ほどファンが説明したアドバンスド・クラフト『六ブンノ一』の性能によるものなのだとすぐに分かった。他の四人はそれを知らないながらも、ファンと関わった経験からかさほど大きな驚きを見せなかった。
「ハッハハーのハー!また会おう、空坂のニューヒーローズ!フォッフフーゥ!」
ファンの心底楽しそうな歓声が、その姿と共に遠ざかって行き、ついに見えなくなった。
「相変わらず無茶苦茶な野郎だ」
05が口惜しげに呟き、がんと手すりを手荒く叩いた。纏はすっかり小さくなったファンを見下ろしながら、ふと屋上にまだイゴロクがいる事を思い出し背後を振り返る。しかし、イゴロクの姿もすでにそこにはなかった。周りを見回す彼女に03が気付き、その肩を叩く。
「安心し。あのロボットは不意打ちとかの卑怯な真似はせんけん。主人がいなくなったけん、自分も帰ったんよ」
説明された纏は、それでようやく屋上から自分達以外に誰もいなくなったのを知った。
目的となる失せ物は見つかり、騒ぎを起こした張本人達は姿を消した。纏は持て余した静寂で、自分達のとるべき行動が終わってしまったのだと分かった。
「私、全然駄目でした」
利他部中央にある机に突っ伏し、纏は力なく呟いた。先日のレスキューメイトの行動を振り返り、その中に自分の功績と呼べるものがまるでない事を思い知ったせいである。丸まったその小さな背に、隣に座った清原が労わりの言葉をかける。
「気にせんでええんよ。最初から何でもかんでも上手くいく訳がないんやけん」
「そうっちゃ。あんなモンを運用するんがそもそも俺等にも想定外やったんやき」
御深山が清原に乗っかるように、部室の片隅にある自分の席に座ってファッション雑誌を読みふけったまま投げやりな励ましを送った。纏はわずかに身を起こし、御深山の方に目を向ける。
「……ホントにそう思います?」
「ホンマっちゃ。俺等に使えんかったモンを部長は使えたんやき、それはすごい事ながぞ」
御深山が紙面からついと視線を纏に向けて言う。今度は清原がそれに続いた。
「ほうよ。あいちゃんはそんなに落ち込む事ないんよ。むしろ反省するんは……」
そこまで言って清原は、その表情を胡乱げなものに変えて視線を住良木に向けた。纏も顔を上げ、その視線を追う。
自分の机の横に正座している住良木の傍には、清原と同様に胡乱な目をした衙門が見張りのように立って住良木を見下ろしていた。正座している住良木の両手は後ろに回されており、膝に乗せられたハードカバーの図鑑の上に衙門の使うトレーニング用のダンベルが二本置かれていた。脛の下には洗濯板が敷かれており、その様子は一言で言えば江戸時代の拷問のようだった。
「そう、私の責だ。部長、私をなじれ」
ひどい状態に置かれておきながら、住良木の表情や口調は普段とほとんど変わらなかった。それが全く堪えていないようで、他の四人には本当に反省しているかどうか疑わしく、全員の感想を衙門が代弁する。
「ホントに悪いと思ってんのか?」
「無論だ。だからこそ今のこの状態も私から提案した」
そう言われ、纏は改めて住良木の今の状態に目を落とした。かつて行われた拷問と比べれば悪ふざけにしか見えないが、それでも膝に痛みが与えられている事や、屈辱的な肢位を取らされている事には変わりはない。自力で立てない姿勢である事も加えれば屈辱感が相当なのは想像に難くなく、纏は声を荒げる気も起きなかった。ビッグブローで必死に自分を助けに来ていたのも見ていた手前、責める気も湧かない。
「……いえ、私が自分で使うものなんですから、私も自分でちゃんと確認するべきでした。住良木先輩だけのせいじゃないです」
「そうは言うが部長、君は一年で、私は三年だ」
言われて纏は言葉に詰まった。
「……初めて先輩に常識的な事を言われた気がします」
「私はいつでも本気で正気だ」
住良木の口調はいつもと変わらなかった。
「部長、今回の件は本当にすまなかった。安全性の配慮を怠り、君の命を危険にさらした。どれだけ詫びに言葉を尽くそうとも、この件の責任を取るには足らん。だから君は私に何をしても良いし、何を要求しても良い。私はどんな処罰でも受けよう」
淡々とした口調で事実を並べる彼の声に、許しを請うような響きはまるでない。だからこそ彼が偽らざる本心を語っていると分かり、纏は彼を拷問のような姿勢で座ったままにさせておくのを忍びなく思えてきた。彼女は椅子に座り直しながら住良木の方を向き、彼を見下ろす。
「……お気持ちはよくわかりました。ですが、副部長の責任は部長の責任です。これ以上ご自身を責めないでください」
纏は気付かなかったが、彼女がこう言った時、住良木以外の三人が驚いたように目を丸くした。その後揃って住良木に視線を投げかけ、彼の反応を待つ。住良木の表情は変わらなかったが、沈黙をもって自身の感情を表していたようでもあった。
「……部長は優しいな」
今度は纏がそう言われた事に驚いた。
「しかし、君は私を許さないで欲しい。それがお互いの為でもある」
「そんな事できませんよ」
「いいや、君は許さない。なぜなら……」
そこまで言って住良木は言葉を切り、膝の重荷に目を落とし、そして再び纏を見た。
「私は今、この状況に楽しみを覚えつつある」
「衙門さん、追加で」
衙門が無言で別のダンベルを住良木の膝に置いた。
「ぬう、痛い。膝が裂けそうだ」
やはり全く痛くなさそうに住良木は言い、纏はそんな彼に更に胡乱げな目を向ける事になった。
そこで、部室中央のモニタに光が灯り、入れ替わるように校長の顔が映し出された。
『皆、揃って……、って、何この状況?新手のいじめ?』
モニタに映る校長に五人が気付き、全員がそこへ目をやった。
「あ、校長先生。こんにちは」
『ああ、相原君こんにちは。……ところで、その、住良木君はそれ、何だい?』
「ご心配なく。新たな自分を見出そうとしているだけです」
『そんな君は教育者としてどうかと思うな……。いいから早くやめなさい』
むう、と唸る住良木だったが、衙門と御深山がてきぱきと住良木の膝からダンベルと図鑑とをどけ、清原が腋を持って無理やり立たせた。纏も洗濯板をすばやく抜き取り、椅子の足に立てかけた。一連の行動が終わったのを見計らって、校長が口を開く。
『ところで次の土日なんだが、君達に是非とも参加してほしい事がある』
「なんですか?」
『中央公園の桜の植え替えだよ』
そう言われて、纏は「あぁ」と納得しかけた後、その意味する所に気付き表情をこわばらせた。かつて見渡す限りトマトの受けられた植え込みに、本来あった全ての桜の木を植えかえる。その行為への労力もさる事ながら、それをやり遂げなければならない事も。
『もちろん業者にも協力してもらうよ。うちの学校からも一応ボランティアを募ったんだが、案の上誰も来なくてね。しかも植えられたのがトマトだから、土も総入れ替えしないといけないらしいんだよ。相当な重労働になるだろうが、これも利他部の仕事だ。皆には頑張ってもらいたい』
校長の話が進むにつれ、利他部の顔はどんどん険しいものになっていった。住良木ですら、その表情に落ちる影が濃くなっている。
「……それを今度の土日で?」
『全て終わらせたいそうだ』
纏達は眩暈を覚えた。やり場のない感情が全員に芽生え、やがてこの事態を引き起こした張本人の顔が全員の脳裏に浮かぶ。その人物はにんまりと笑い、やはり彼等の脳裏で得意げに高笑いを上げた。そして一言。
『苦労しな若人!』
「Dr.ファーン!」
纏が耐えきれず、その名を大きな声で叫んだ。
休止すると言っておいて書くのもどうかと思いましたが、地道に書いてきたのでこっそり投稿しました。




