第2話 裏帳簿と松茸土瓶蒸し
第2話 裏帳簿と松茸土瓶蒸し
料亭『つる乃』の個室には、松茸の香りが濃く漂っていた。
炭火で軽く炙られた松茸の匂いは秋そのものだったが、部屋の空気は冬のように冷えている。
黒崎源一郎は額の汗を絹のハンカチで拭った。
目の前の女――妙は、まるで何事もないかのように食事を続けている。
薄い灰青色のワンピースの袖口から、白い手首がのぞく。その手が箸を持つたび、源一郎は妙な緊張を覚えた。
妙は怒鳴らない。
責め立てない。
泣きもしない。
それなのに、なぜこんなに息苦しいのか。
「……妙君」
源一郎は低い声を出した。
「さっきの資料、どういう意味だ」
妙は鯛のお造りにすだちを搾った。
淡い柑橘の香りが広がる。
「どういう意味、とは?」
「とぼけるな!」
思わず声が大きくなり、襖の向こうで仲居がびくりとした気配がした。
妙はようやく顔を上げた。
「お義父様。料亭ではお静かに」
「君は……何を知っている」
妙は数秒、源一郎を見つめた。
獲物の体温を測る蛇みたいな目だった。
そして静かにバッグを開けた。
革の柔らかい黒いバッグだった。金具ひとつない、上質なものだと分かる。
その中から、厚い茶封筒を取り出す。
源一郎の喉が鳴った。
妙は封筒から数枚のコピー用紙を抜き、卓の上へ置いた。
ぱさり、と乾いた音。
その瞬間、源一郎の顔色が変わった。
「……っ」
コピーされた帳簿。
接待費。
外注費。
架空請求。
そして、別名義口座への送金履歴。
見覚えがありすぎた。
「な……なんだこれは」
「裏帳簿のコピーです」
妙はさらりと言った。
まるで天気予報でも読み上げるような声だった。
「ど、どこで……!」
「結婚前に少し気になりまして」
「気になった!?」
「はい。拓也さん、お金の感覚が妙でしたから」
妙は冷酒を口に含んだ。
辛口の日本酒が舌に転がる。
「収入ゼロなのに、毎月数十万単位で浪費する人間って、だいたい実家の金が変な流れ方をしてるんです」
源一郎のこめかみに汗が浮いた。
「貴様……!」
「ちなみにこちら、八年前の資料もあります」
妙は追加の紙を置く。
「銀座のクラブ『ルミエール』」
「愛人契約マンション」
「北海道温泉旅行」
「ハワイ視察」
淡々と並ぶ単語に、源一郎の呼吸が荒くなっていく。
「ま、待て……!」
「ええ、もちろん待ちますよ」
妙は微笑んだ。
「国税も待ってくれるといいですね」
源一郎の手が震えた。
卓の上の土瓶蒸しから湯気が立つ。
松茸と鱧の香り。
いつもなら大好物のはずなのに、今日は胃が縮み上がる。
「君はいくら欲しい」
絞り出すような声だった。
妙は一瞬きょとんとした顔をした。
「またそれですか」
「金だろう! 黙っていてほしいんだろう!」
「お義父様」
妙は静かに首を傾げた。
「どうして皆さん、“金を積めば人は黙る”って思うんでしょう」
「……」
「不思議です」
その言い方が、源一郎には何より堪えた。
怒鳴られる方がまだマシだった。
軽蔑されている。
それが分かる。
しかも徹底的に。
源一郎は苛立ちをごまかすように土瓶蒸しを持ち上げた。
「……脅迫だぞ、これは」
「脅迫?」
「そうだ! こんなものを持ち出して!」
「事実確認ですよ」
妙はさらりと言った。
「真実の愛を応援する前に、会社のお金の流れを確認していただけです」
「っ……!」
源一郎は勢いよく土瓶を傾けた。
次の瞬間。
「あづっ!!」
熱い出汁がスーツの股間に直撃した。
源一郎が立ち上がる。
松茸と三つ葉が畳に散った。
襖が勢いよく開く。
「だ、大丈夫ですか!?」
仲居が駆け込んでくる。
しかし部屋の空気が異様すぎて、途中で固まった。
源一郎は顔を真っ赤にしながら股間を押さえている。
妙は静かにおしぼりを差し出していた。
「お義父様。火傷なさいますよ」
「……っ」
「真実の愛の前では、十億程度の脱税は誤差ですものね」
にこり。
妙は本当に綺麗に笑った。
仲居が青ざめる。
源一郎は口をぱくぱくさせた。
金魚みたいだった。
「お、お前……!」
「はい?」
「何が目的だ!」
妙は少し考えるように視線を伏せた。
障子越しに、雨の匂いが漂ってくる。
遠くで雷が鳴っていた。
「目的、ですか」
妙はゆっくり言った。
「そうですね」
「帳尻合わせ、でしょうか」
「……は?」
「私は数字が狂っていると気持ち悪いんです」
源一郎は言葉を失った。
妙は立ち上がる。
細いヒールが畳を踏む音が静かに響いた。
「拓也さんは、“愛だから仕方ない”とおっしゃいました」
バッグを肩に掛ける。
「お義父様は、“男にはそういうこともある”と」
妙は源一郎を見た。
その目は冷えていた。
氷みたいに。
「では私も、“会計士だから仕方ない”で通させていただきます」
「待て!」
源一郎が叫ぶ。
「拓也はどうなる! 会社はどうなる!」
妙は襖の前で止まった。
少しだけ振り返る。
「知りません」
静かな声だった。
「私は経営改善は得意ですが、不良債権の再生は専門外ですので」
襖が閉まる。
源一郎は呆然と座り込んだ。
股間は熱い。
胃も痛い。
だがそれ以上に。
妙という女の静かな狂気が、恐ろしかった。
卓の上には裏帳簿のコピー。
そこに赤ペンで丸が付いていた。
『交際費』
その横に、妙の綺麗な字で一言だけ書かれていた。
『愛は経費計上できません』




