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溺るるは慟哭のヴィクティム  作者: 神宅 真言
二章:黙する湖水と、秘する声
18/61

2-09


  *


 木枠の窓は換気と明かり取りを兼ねた簡素なもので、鍵などは付いていない。大人はまず通れない程の細長いものだが、小さな子供なら何とか通り抜ける事は可能だろうか。しかしそもそも窓の位置は高く、中からであればカナメが背伸びすれば辛うじて手が届く程度であるが、外からの場合は脚立などが無ければ指先すら届かない場所だ。


 息を飲み、カナメはがたがたと揺れる窓を見詰める。新たな怪異か、不審者か、誰かの悪戯か、それとも。湯船から出ようとした中途半端な姿勢のまま動けずにいると、窓は揺れながらも、ギシギシと音を立ててゆっくりと開いた。


 よいしょ、といった風に隙間から顔を覗かせたのは、──またしても狸であった。


「や、安田さん……ですか?」


 思わず零れた言葉に、安田さんはカナメの方へとぺこり頭を下げた。そして成り行きを見守るカナメの目の前で首を伸ばし、はむ、とイモリを咥える。


「え、」


 そして頭を一度窓の向こうへと引っ込めると、またこちらへ頭を突き出してぺこりと垂れた。その口にはもう何も咥えてはいない。恐らくイモリを捕獲して外へと捨ててくれたのであろう。カナメが眼を丸くして様子を凝視していると、不意に安田さんが体勢を崩した。おっとっと……と手足をばたつかせ、何とか窓枠にしがみ付こうとするものの、呆気なくその身体は宙を舞う。


「あっ、安田さん!?」


 ばしゃん! と派手な水音と共に大量の飛沫が散る。


 慌ててカナメが近寄ると、ふかり、と狸が情け無げな表情で湯面から顔を出す。抱き上げるとぐっしょりと濡れた毛からさばばばと湯が滴り落ちた。


「大丈夫なんです? 自分もこれから身体を洗おうと思っていた所なので、ついでに安田さんも一緒に洗いましょうか」


 苦笑しながらカナメが語り掛けると、ぺこり、とまた安田さんは頭を下げた。落ち着いているように見えてもやはり狸は狸なのだな、と何やら不思議な感慨を抱きながらカナメは背伸びをして窓を閉め、それから木の風呂椅子に腰を据える。手桶に湯を汲むと石鹸を泡立て、先に安田さんの身体をわしわしと揉み始めた。


 泡塗れになった安田さんの毛並みはふかふかとして指通りも良く、あまり汚れてはいないようだ。よく誰かに風呂に入れて貰っているのだろうか。一通り洗い終わって湯を掛けると、カナメの太腿に乗ったまま気持ち良さそうにふにゃあ、と身体を弛緩させて寛いでいる。


 今度は自分の身体を清めようと手桶に手拭いを浸けて石鹸を泡立てたところで、戸口から声が掛かった。


「カナエ様、お背中お流し致します」


「え、いや、それは」


 慌てて返答がしどろもどろになる。断ろうとしたが間に合わず、からりと開いた戸から長襦袢一枚のシズクが姿を現した。


「あらあら、安田さんもご一緒だったのですね?」


 へにゃんとカナメの膝の上に鎮座する安田さんを見てシズクが目を丸くする。カナメが苦笑しながら経緯を説明すると、そうですか、とにこにこしながらシズクは手拭いをカナメの手からさらり奪い取った。おもむろにすのこの上に膝立ちになると、石鹸を泡立て始める。


「いや、シズクさん、大丈夫です。自分で洗えますので……」


「いいですから、私がお背中洗いますので、どうぞほら、そのまま座っていて下さいまし」


 慌てて湯船に逃げようにも膝には安田さんが貼り付いていて動けない。どうにか断ろうとするも、こうなってはもうなし崩しである。カナメは腹を括り背筋を丸めてどうにか安田さんを股の上まで引き寄せた。そんなカナメの様子にくすくすと笑いを零すと、シズクはカナメの広い背を擦り始める。


「殿方の裸体など見慣れておりますので、そんな緊張なさらないで下さいまし」


 それはどういう──と疑問を抱いたが、恐らく兄が居る所為なのだろう、とカナメは無理矢理思うことにした。


 絶妙な力加減で背中を擦られ、カナメの口からはあと息が漏れる。確かに自分では行き届かぬ場所を丹念に洗われるのは心地が良いものだ。背中だけでなく首筋や肩も擦られ、終わりましたよ、とようやく声が掛かる。


「お湯、お流ししますね。カナエ様のお背中、広いからとっても洗い甲斐がありました」


「何だかすみません」


 手桶で湯が掛けられ泡が流されてゆく。現れた褐色の肌に、あ、とシズクが驚く。


「カナエ様、傷が……! 私、知らずにあんなごしごし強く擦ってしまって……すみません! 痛くはなかったですか!?」


 ああ、とカナメはシズクの言葉で傷の存在をようやく思い出す。カナメの背には大型の獣に引っ掻かれたような傷が、右肩から左の脇腹まで大きく走っていた。しかし褐色の肌の中でその傷痕は白く盛り上がり、とうに癒えた古傷である事を物語っている。


「随分前の傷です、もう古い物ですので痛みなどはありません。大丈夫ですよ」


「でも、……他にも、肩や腕などにも幾つも……」


「どれももう塞がっています、沁みたりはしません。気になさらないで下さい」


 カナメの全身には至る所に傷痕があった。シズクはカナメの傷にそっと指を這わせる。その指先は微かに震え、慈しむように柔らかになぞってゆく。


「──シズクさん」


 静かなカナメの呼び掛けに指が止まる。慌てたように手拭いを拾い、シズクは再び石鹸を握り泡立てようとする。


「あ、あの、前も、前も洗いますので、こちらをお向きになって頂ければ……」


「いや、それは結構です。というか勘弁して頂けませんか。流石にその、恥ずかしいので」


「そんな、ご遠慮なさらず!」


 尚も言い募るシズクに、上半身だけを捻りカナメは笑った。そしてすっかり夢心地に伸びきった安田さんをその手に押し付ける。反射的に受け取ったシズクの腕の中で、きゅう、と鳴いて安田さんが丸まる。


「では安田さんをお願いします。綺麗に洗ってありますので、拭いてあげて下さい」


「あ、え。は、はい」


 カナメに押し切られた形でシズクは納得してしまい、安田さんを抱えて風呂場から出て行った。安田さんをタオルで拭いているのだろう、脱衣所でしばらくシズクの声や物音が聞こえていたが、それも扉の閉まる音と同時に無くなった。


 カナメはようやく大きく息を吐くと、すっかり泡の落ちた手拭いを再び泡立てて身体を擦り始める。手早く頭も洗ってざっと流した後にざぶんと改めて湯船に浸かり、くたりと力を抜いて天井を見上げた。


 ──やはり、心臓に悪い。


 濡れて少し肌の透けた長襦袢姿のシズクを思い浮かべぬようにしながら、カナメはまた溜息をついたのだった。


  *


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