<9・歴史>
アナウン王国は、かつてナラウント皇国の一部であったことが知られている。
ナラウント皇国は皇帝を頂点とした絶対的な階級制度を持っており、それによる強固な統治を確率させていた。階級制度という意味ではアナウン王国も大差ないように思われるが、かつてのナラウント皇国の身分制度の厳しさはアナウン王国の非ではなかったという。階級制度はそのまま、人の命の重さ、価値と直結したものであったのだから。
例えば、王族貴族は神に選ばれた者とされており、かなり横暴な振る舞いをしても法律で裁かれることが殆どなかったそうだ。ナラウント皇国は男女の人権にも大きく差があったし、男性であっても幼い子供や老人は大事にされない傾向にあった。道端で、身分の高い男達が気になった娘を路上でそのまま強姦し始めるなんてことも珍しくなく、娘がいくら泣き叫んでも誰も助けようとしないというのもザラにあったという。憲兵は存在していたが、高い身分の人間が低い身分の人間を虐げている場合には何も言わなかった。それこそ彼女がその乱暴の結果体に後遺症が残るほど甚大な被害を被り、子供が産めない体になっても。あるいは、望まぬ妊娠をするようなことがあってもおかまいなしてであったという。
逆に、もし貧民の娘が抵抗した結果、加害者の貴族の顔をひっかくなどした場合はどうなったか。その場で娘の方が取り押さえられ、罰を下されていたことだろう。具体的には己が傷つけた場所にそれ以上の傷を与えられる、というものである。顔を傷つけたのであれば同じように顔を引き裂かれ、間違って性器を食いちぎるようなことなどあれば刺だらけの棒を股間にねじ込んでズタズタにされるなんて悲劇もあったそうだ。
理不尽に理不尽を重ね、それゆえに人々が恐怖によって支配されていた世界。
アナウン王国の祖先は、そんな世界に憤りを感じた――貧しい身分の青年革命家であったという。彼は愛する妻を貴族達に連れ去られ、惨殺されたことで復讐を誓っていたのだそうだ。なんせ祖先の妻は、貴族達のサディスティックな遊びの対象になり、地獄の苦しみを味わったのだから。
彼の妻は蓋を締めた巨大な鉄鍋に閉じ込められ、生きたまま下から火であぶられて殺されたという。美しかったはずの女性は全身真っ黒に焼け焦げた、それはそれは無残な有様であったのだそうだ。
「その話なら、あたくしも歴史の教科書で習いましたわ」
父の話に、イリーナはため息をついた。
「こんな胸糞悪いことが世の中にあったのかと思うと、実に腹立たしくてなりませんでしたもの。確かに身分制度は必要ですし、王族と貴族の特権は保護されてしかるべきもの。けれど、だからといって道端で女性が無理やり攫われたり、強姦されても裁かなくていいなんて間違っていますわ。階級もそうだけれど、子供を産むことのできる女性という存在を馬鹿にしているとしか思えませんでしたもの」
「そうだろうな。アナウン王国の祖先である青年は、よほど勇気ある者であったのだろうと思う。この国で男女の権利の平等化が進んでいくようになったのも、祖先のそのような考えが少しずつ浸透しつつあるからなのだろうな」
「ええ。……でもこの話が、あたくしの身が危険になることとどう関係があるのかしら?」
何故自分がアガサに護衛されなければいけないのか。そういう話をしていたはずである。それが突然、この国の歴史の勉強になったともなれば、当然の疑問だ。
「まあ待て、イリーナ。……当然この話は繋がっているんだ」
まあまあ、とイリーナを落ち着かせるように手を振りながら、彼はようやく床から立ち上がって椅子に腰掛けた。そしてイリーナにも“座りなさい”と促す。確かに、部屋の中で立ったままするような話でもないだろう。
「前提として。ナラウント皇国はそういった残虐な行為を平然と黙認するような国であり、王族貴族達はそれを疑問に思っていなかったということなんだ。今は少しマシになったとされているが、それでも人の本質というものはそう変えられるものではない。同時に……このアナウン王国はそのナラウント皇国で革命を起こした者達が戦争で自分達の土地を勝ち取り、初代国王であるモリヤ・アナウンを頂点として独立したものであるんだ。つまり、アナウン王国の人間は元はといえば全てナラウント皇国の存在であり。……ナラウント皇国にとっては今でもなお、自分達を“裏切った”アナウン王国の存在は全く面白くないということなのだよ」
それはそうだろうな、とイリーナは思う。そもそも、身分制度を命の重さとイコールにするほど、絶対的なものとして定めていた皇国である。それが、貧しい身分の人間達にひっくり返されたともなれば、皇帝陛下と貴族達のメンツは丸つぶれだろう。
多勢に無勢のはずの戦争で何故革命軍が独立を勝ち取れたのかといえば、極端な話運が良かったとしか言い様がないのだ。革命を起こす少し前にナラウント皇国は別の大国と戦争をして、散々泥沼化を演じた後で休戦協定に応じている。つまり、国として相当疲弊しきった状況であったのだ。
それに加えてその年には、歴史上でも希に見るほどの凶作が国を襲い、国全体が疲弊しきっていたのである。食べるものを求めて、低い身分の者達が命がけて貴族や王宮に襲撃をしかけに行く事件が多発していた。そして、発生するのが憲兵による大量虐殺事件。これが、もう我慢ならぬとモリヤ・アナウンが人々を率いて革命を起こした最大の理由であったとされている。
「アナウン王国はそうして独立した後、国力を高めるために暫くは諸外国の一部と友好関係を結び、別の国とは戦争をして領土を広げ、国力を拡大していった。そして、その最も大きな戦争が約二百年前の“バルチカ戦争”だ。アナウン王国と、バルチカ共和国をはじめとした複数の小国との戦争。最終的にはアナウン王国が勝利を収め、バルチカ共和国などを植民地として支配することになった。バルチカ共和国らを狙ったのは、それらの国の豊富な資源や人材を求めたからだな」
「そうね。でも、その後アナウン王国は、戦争で焼き尽くした国々を総力を上げて復興させたはずよ。焼け野原になった街を再建し、戦災孤児達を救済して回った。それらの政策が諸外国にも高く評価されている、と聞いていたけれど」
「そうだな、間違っていない。……否、間違っていなかったというべきか。最初はアナウン王国も、植民地を丁寧に穏便に統治しようとしていたはずだ。だが……」
「だが?」
「イリーナも知っているだろう。自分達の故郷がどのような形であれ、植民地のままであるなどと。そのようなこと耐えられない、独立したいと願うのは人々にとって当然の願いではある。バルチカ共和国を中心として、植民地となった国々でもまたたびたび独立運動や小競り合いが起きるようになっていったのだ」
それもまあ、そこまでは自分も学校で勉強している。いくら穏便に統治されているからといって、感謝ばかりされるわけではない。そもそも戦争で負けて植民地になったのだから、自分の家族や祖先がアナウン王国に殺されたという者はいくらでもいるのである。
そういう者達にとっては、いつまでも自分達の一族の仇に支配されることなど、耐え難い屈辱に違いない。独立運動が起きるのも自然な流れだろう。しかし、アナウン王国はそれらの運動も全て、武力ではなく話し合いで鎮圧・解決してきたとニュースなどでは報じられていたはずである。
「……その小競り合いを。実は今までずっと、武力で解決していて、それを隠していたということ?」
ふと、ピンと来てイリーナは告げた。大体そのとおりだな、とゴドウィンは頷く。
「植民地となった国々はどれもこれも島国だ。海と空を塞がれてしまっては、その国々の内情を窺い知ることができない……支配者であるアナウン王国以外には。植民地の金や人などのライフラインは全てアナウン王国が握っている。閉ざされた島国で何が起きたとしても、人々は助けを求めることも真実を叫ぶこともできない、という状況であったわけだ。その状況下で都合の悪い運動など起こされてみろ、どうせバレないならと武力制圧してもなんらおかしくはないだろう?」
「言いたいことはわかるけど、でも……!」
「アナウン国王は思い出したのだろうさ、自分達にもあの残酷な……ナラウント皇国の血が確かに流れていたということを。百年ほど前、ついにアナウン王国は一線を超えた。これだけ自分達が大切に保護してやっているのに、植民地のやつらはその恩をアダで返すようなマネばかりしてくる……ならば恐怖で思い知らせるしかない、と。そして、虐殺が起きた。正確に死んだ人数ははっきりしていないが、現地人の死者の数は千人以上に上るとされている」
「なっ……」
イリーナは絶句した。バルチカ共和国の人口は、推定五万人程度だったのではないか。死者はバルチカ共和国のみならず、他の小国も合わせた数であろうが。それでも、千人。とんでもない数であるのは、言うまでもないことである。
「絶対的な統治をするためには、大きな信仰と恐怖が必要。……アナウン王国は、バルチカ共和国などの人々に自分達の種族を“神の一族”として崇めさせ、本来持っていた信仰を捨てさせた。独自の身分制度を押し付け、人々の心身ともに支配を磐石なものにしようとしたのだ。……私は仕事で、何度かバルチカ共和国に渡っているし、現地の情報も嫌でも耳にすることになる。王国には徹底的に口止めされたが、それでも耐え切れんと思う瞬間があった。……それほどの地獄が、今もあそこには存在しているのだ」
大柄な父は、青ざめた顔を両手で覆って息を吐いている。その肩が僅かに震えているのを見てしまえば、嘘をついているなどとどうして思えることだろう。
無関係な人間が、地獄と称するほどの現実。一体どれほどのものであることか。
「お父様の会社でメインで取り扱っているのは、香料の類だったわよね」
大体わかってしまった。そういえば、父の会社で扱う香料の生産地は――バルチカ共和国の南の地区であったはずだ、と。
確かに父は、より良い素材を自ら見極めて仕入れるため、現地に船で渡ることも少なくなかったはずである。
「でも、植民地へ向かうには、国が選定した通訳……という名目の監視者が必ず同行するはずよ。現地に渡ったところで、一番恐ろしい現場はお父様の目に入ることがないように配慮しそうなものだけれど」
「勿論、デモや暴動が起きている地区、治安の悪い地区は避ける。先んじてそういう情報は仕入れているしな。だが、突発的に起きる犯罪や……運悪く目撃してしまったものはどうしようもないだろう」
「運悪く?」
「そうだ。運悪く。……まあ、私のあらぬ好奇心を、今は呪いたくて仕方ないのだがな……」
ははは、と乾いた声で笑いながら男は告げた。あそこで何が起きているか本当に知りたいか?と。
「表向きは、平和的な統治をしているとして国際社会に認められ、賞賛されていたアナウン王国。だが、その実情は、国内外で宣伝されているものとはかけ離れていた。……そんなものが国内外に大きく知られるようなことになれば、この国と国王の信頼は失墜するだろう。しかも。その“地獄”が、この国の裏切り者処分も兼ねているともなれば、尚更だ」
どういうことなの、と。イリーナは問い返す前に、ゴドウィンは言う。疲れ果て、歪んだ笑みで。
「ゆえに、万が一の時はどんな手を使ってでも逃げ延びなければならんのだ。特にお前のような、うら若い娘は」