<8・謝罪>
「本当に申し訳ない……!」
食事会の後、ちょいちょいちょいちょい、と部屋に手招きされたイリーナは。今まさに、目の前で父に土下座されている状況だった。
そりゃこうなるわ、とイリーナは思う。尊敬する父であるが今日ばかりは、この場で上から頭を踏みつけてやりたい気持ちでいっぱいなのだから。なんせ。
「……申し訳ない、で済む話じゃないですわ、お父様!」
母上は先ほど馬車で出かけていったので、多少大きな声を出しても問題ないだろう。ここぞとばかりに声を張り上げるイリーナである。
「確かに、なんでこの期に及んできちんと書面で契約交わされていないんだろうとは思っていたけれども!まさかその理由が、お父様の浮気にあっただなんてどうして思います!?しかも、よりにもよってコースト伯爵家のご婦人と不倫するだなんて!!それバレたら大変なことになりますわよ!?両家の関係はぐっちゃぐちゃのメッタメタ、共倒れになったらどうしますの!?」
「すまない、本当にすまない……」
「すまないで済むなら憲兵も警察もいらなくってよ!」
つまりだ。父はイリーナが産まれる前に、コースト伯爵家の奥方と不倫関係にあったのである。そして、うっかりすっかり子供ができてしまった。夫人はどうにか誤魔化して伯爵の子と言い張って乗り切ったようだが、時期的に見るとほぼ確実にシュレインは自分の子と見て間違いないのだという。
まあつまり。イリーナとシュレインは、異母兄妹であったというわけだ。そりゃ結婚などできるはずがない。勿論法律上では他人であるので婚約そのものは可能だが、医学の進歩により近親婚が齎すリスクは解明されている。奇形児のリスクも遺伝病のリスクも上がるともなれば、到底許容できることではない。なんせイリーナは結婚した後、跡継ぎをたくさん作ってこの家の未来を安泰にしなければならない身である。リスクの高い相手と子供を作ることなど、絶対避けなければならないことであるのだ。
何が腹立たしいってこの男、その事実を今の今までイリーナに隠してきたということである。当然、母も不倫の事実を知らない。自分と母だけが能天気に、婚約者として内定しているも同然だと思っていたわけだ。
――つまり、あたくしとシュレインは最初から婚約者でもなんでもなかったということ!?あたくしとんだお間抜けさんじゃないの……!
「た、確かに浮気したことは妻にもお前にも申し訳ないと思っている、しかしな……!」
ムカつくことに、しょうもない男はがばりと顔を上げて、しれっと弁明を始めるのである。
「あの頃、子供ができないせいで妻もイライラしていてな!子供ができないのはお前のせいだと私のことを毎日詰る詰る……私も限界だったんだ!そんな時私を慰めてくださったのが、コースト伯爵夫人で、それで!」
「こっそり二人で会った時点で完全にアウトって気づかないからダメなんですわよお父様!相手人妻!あんたも既婚者!分別なってなさすぎです!」
「でもコースト伯爵夫人ってすっごく美人だし、うちの家内より若いし!何よりおっぱいでかくてつい!」
「つい、じゃねぇわこのクソオヤジ!!」
「ばっふ!」
あ、いけない。ついついまたしても汚い言葉を。そして父上の額を思い切り靴のさきっちょで蹴っ飛ばしてしまった。見事ひっくり返るダメ男。ていうか、今思いっきりパンツ見えた気がする。やっちゃったてへぺろ☆――じゃなくて!
――マジでドン引きだわ……ほんっと引くわー。こんな男があたくしの父親であったとは。
シュレインを振り向かせたいと思っていたのは、あくまで婚約者として内定しているとばかり思っていたからだ。以前の自分はその上でシュレインに惚れ込んでいた(というか両思いだと信じていた)わけだから、その状況でこの話を聞いていたら間違いなく怒りはこんな程度で済まなかったことだろう。
しかし、それが全部勘違いであり、シュレインに裏切られたと思って愛想がつきていた身としては(愛想がつきても手紙を送っていたのは、あくまで彼を自分に惚れ込ませてぎゃふんと言わせるためである)。もはや、呆れる以外に何もないのである。彼に好かれようと頑張ってきた今までの自分の苦労はなんだったの、という話だ。
――もう手紙は送らなくていいかしらね、この様子だと。
急に手紙が来なくなったとしれたら、シュレインが不思議に思うかもしれない。もういっそ、真実を知ったことをシュレインに打ち明けて愚痴ってやろうかと思う。腹立たしいが、この苛立ちを理解できる相手はそう多くないに違いない。
「……それで、どうするつもりですのお父様。あたくしはずっと、シュレインとの婚約はあと書面を交わせば完了するものだと思ってたし、下手をしたらあちらの伯爵もその気ですわよ。でもって、お母様もとっても乗り気なわけで。……いつまでも誤魔化しておけるとは思えないわ」
「だ、だよねえ……」
ひっくり返った体勢から、のっそり起き上がる父親。額からはだらだら血が流れているが、きっと死にはしないだろう。というかこういうタイプは死なない。一回死ねばその腐った性根も地獄で叩き直されるのではと思わないでもなかったが。
「しかし、私からそれを言い出すのは非常に難しいというか、気まずいわけで。万が一、シュレインが私の子だと感づかれるようなことがあってはならんのだ、なんせコースト伯爵は長年の私の友人であるし勘が鋭い!そこで!……お前もシュレインも結婚する気がなくなりました、ってことで話を流してもらえないかなあって……」
おい、そこで人任せかよ、とイリーナはこめかみに青筋を立てる。確かにイリーナもシュレインも婚約に乗り気でないということになれば、話が流れる可能性もそこそこにあるだろうが。何故自分達がそんな腹芸をしなければいけないのか。悪いのは、伴侶がいながら平気であはんうふんをやらかしたクソ親父とコースト伯爵夫人だというのに!
「……頼むよお、イリーナ。この通りだ……!」
再び見事なフライング土下座を披露した父親。そもそもなんでそんな海外の作法をあんたが知ってるねん、というツッコミはこの場ではしてはいけない。いつも厳しく自分に勉学や馬術を教えてきた父親の威厳は形無しである。
「ああもう……」
頭痛を覚えながら、どうにかイリーナは返した。
「シュレインと相談して、何か方法を考えますわ。でも、長年シュレインを伴侶と思って生きてきたあたくしの心を弄んだのは事実。お父様、この埋め合わせは必ずしていただきますわよ」
「も、勿論だとも!恩に着るイリーナ!」
「で。それとは別に、いくつか質問させていただきますわ」
これでシュレインと婚約できないという件の謎は解けた。あとは何故、シュレインがアガサを送り込んできたのか、という件だ。
シュレインとイリーナは最初から婚約者ではなかった。ということはつまり自分は婚約破棄されたと思い込んでいただけで、実際全くそんな事実はなかったということになる。恋愛的な意味で、自分は裏切られたわけではなかった――いや、真実を知りながら語らなかったのだから、ある意味最初から裏切られていたのかもしれないが。
――そういえば、シュレインはいつからあたくしと兄妹だと知っていたのかしら。伯爵夫人から聞かされたのか、それともクソ親父から聞かされたのか。子供の頃は、シュレインも“将来はイリーナをお嫁さんにするね”なんて言ってくれてた気がするし……っていうことはやっぱり、子供の頃は何も知らなかった可能性が高そうだけど。
まあ、ある意味彼も被害者なわけだから、あちらを責めすぎるのはお門違いだが。
それでもまだ疑問は残る。
恋愛的な意味での裏切りがなかったとしても――イリーナのことを彼らが最終的に、マルティウス伯爵家から追い出しにかかるという裏切りは紛れもなく事実なのだ。何故あのようなことが起きるのか、その謎はまだ、謎のままである。
「うちのメイドのアガサのことだけど。……シュレインが、お父様に頼んで送り込んできた存在だっていうのは、本当なのかしら?それはどうして?あのアガサはどういう存在なの?」
「あー……」
その質問かあ、と頭を上げたゴドウィンは視線を逸らす。完全に目が泳いでいる。これはまだ、やましいことがあるというサインだ。
「なんとなく予想はできてますわ。シュレインは、妹であるあたくしの身を案じてくれていた。それで、あたくしへの護衛として自分が信頼するアガサを送り込んできたということ、ですわね?仮にそうだとしたら、何故あたくしに内緒にしてましたの?あたくしがアガサを嫌っていたのはご存じでしたでしょう?」
「そ、それはそうなんだが。だってお前プライド高いし。身分の低いメイド、それも嫌いな奴が実は護衛だなんて……そんなの言ったら絶対怒ると思って……」
「ご安心くださいお父様、秘密にしてたらしていたでもっと怒ってますわあたくし」
「で、ですよねええええ!」
さっきからやり取りが完全にコントである。ぺしり、と父親の額をはたきつつ、それで?と続けさせる。
「……お前が考えている通り、アガサを送り込んでくれるよう私からシュレインに頼んだ。年の近いメイドならば、常にお前の傍にいても違和感はないからな。特にアガサは、見た目だけならば細身の少女でしかない。あれで、シュレインがスカウトした傭兵の一人なんだがな。表向きは商店で働きつつ、裏ではシュレインの懐刀として仕事をしていた。元々非常に腕力に恵まれた特異体質であったようで、シュレインが町で見かけて声をかけたということらしい。当然、アガサの給料はコースト伯爵家から出ている」
ああ道理で、とイリーナはため息をついた。確かに、彼女の身体能力は普通の少女のレベルを優に超えていた。自分のイタズラをことごとく躱す手腕もそう。傭兵で、罠を見抜く術を持ち合わせていたというのなら納得である。彼女の出自は嘘ではないが、それが全てではなかったということだろう。
ならば問題となるのは。
「それならそれで、疑問が出てきますわね。あたくし、基本的に一人で町を出歩くようなことなどいたしません。ほとんど護衛と一緒ですわ。それなのに、わざわざ手練の者を新たに護衛として送り込んでくる理由が何処にありますの?こんなことを言ってはなんですけど、あたくしはただの伯爵家の娘にすぎませんわよ」
その言葉に、父は押し黙る。イリーナはさらに続けた。
「それは。この国が戦争をしようとしているということと。それからお父様が貿易商を営んでらっしゃることと、何か関係がありますの?」
「…………」
ゴドウィンは動揺を隠せない様子で視線を泳がせた後――深く、ため息をつくのである。
「イリーナ。……知ったらもう、戻れんぞ」