<7・予感>
アガサがどんな人間であるか、よくよく考えれば自分はあまりに知らなすぎた気がしている。
漸くシュレインが堂々と屋敷を尋ねてきて、共に会食を行った時。しれっとその場にアガサは同席していたものの、彼女は特にシュレインと言葉を交わした様子もなかった。表向きは、これが彼女とシュレインの初顔合わせであるし、彼らが自分の目の前で遭遇したのはこれを含めて数えるほどしかないはずである。
彼らに接点などない、と以前の自分は思っていた。こんな風にただのメイドと伯爵家次男、話すことさえもない状況であったのだから当然である。まさか裏で繋がっていて、シュレインがアガサをボディガード(?)名目でこの家に送り込んできた張本人だったなんてどうして予想できるだろう。
そして、イリーナにとって皮肉なことに。それが事実なら、この後に起こる出来事のいくつかも説明できてしまうのである。
自分とシュレインは婚約者であるはずなのに、シュレインとアガサがこっそり外で会っているのを目撃してしまった。しかも、あまりにも親しげに。それを見て自分は、自分というものがありながらシュレインが彼女と関係を持ったとばかり思ってしまったのである。
だが、それが元々雇い主と傭兵(あれで?)という関係であったのなら納得できない話でもない。勿論そういう前提があったからといって、アガサがシュレインの愛人でない保証はどこにもないわけだが。
――まだ、完全に信頼するわけにはいかないわ。
アガサが入れてくれたお茶を飲みながら、イリーナは目の前のシュレインを睨む。忌々しいことに、此処に来てからアガサはどんどんお茶の入れ方が上手くなっている。このハーブティは特に絶品だ。いくらこの家で育てているものだからといって、入れる人間が下手くそではこうも香りが引き立つことはないだろう。
「お嬢様、紅茶どうでした?お気にめしましたか?」
「……まあ、悪くないんじゃないの」
素直に褒めてやるのは流石に悔しい。思わずそう返してやると、良かったです!とアガサは声を弾ませた。
「もっともっと修行しますね!実は新しいハーブの調合も試してるところなんです。完成したら是非、一番にお嬢様にご馳走しますから!」
――もう、なんなのよこの子は!
調子を狂わされっぱなしだ。最近はすっかり、アガサへの新しいいたずらもご無沙汰である。そもそも彼女がシュレインから父経由で雇われて、しかもそれが実はイリーナのボディガード目的だというのならどうしようもないのは事実だ。多少イリーナが嫌がらせをしたところでアガサがやめていくはずもないし、勿論父もクビにしたいとは思わないだろう。やっても意味がないのなら、嫌がらせに精を出してもどうにもならない。多少ストレス発散になる気はしないでもないが、最近はそれさえも微妙である。
この自分が、アガサに対して若干罪悪感を抱くようになってきてしまっているのだ。
いくら自分を相手に親しげに接してきたところで、きっとそのうち化けの皮が剥がれるに決まっている。その時、それ見たことか騙しやがって!と鼻で笑ってやろうと考えていたのだけれど。いくらイリーナが観察を続けても、アガサはその笑顔を崩すことがないのである。精々わかったのは小柄な少女の見た目に反して体力があり、重たい荷物もゴミもダッシュで運んでも生き切れ一つしない化け物である、ということくらい。少なくとも今日までは、シュレインと特に密会している様子もなかった。
アガサがいない時に、アガサの部屋に忍び込んでみたこともある。
自分の悪口の一つを書いた日記でも見つかれば証拠になるはずが、そんなものが簡単に見つかるということもなく。それどころか、あっちにこっちに貼られた仕事のメモの量に圧倒されただけに終わったのである。
その中には、“イリーナお嬢様の好きな食べ物リスト”や“お気に入りのドレスリスト”なんてものまであるのだからどうにもならない。――いつの間にか彼女のことを、“下民の分際で”“裏切り者のくせに”と、心の中だけでも罵ることができなくなっている己がいるのだった。
――冗談じゃない。あいつらは、裏切り者よ。あたくしに内緒で二人で密会して愛人になって、それで……あたくしをこの家から追い出す元凶じゃない。信じちゃいけないわ、あたくしはその地獄のような現実から自力で帰ってきたんじゃないの!
罪悪感など、抱くべきではない。
アガサに対して情など持つべきではない。
彼らが裏切る未来は確実にやってくる。もし本当にシュレインが自分のためにアガサを送り込み、そして彼らの関係性がただの雇い主と雇われ人であるというのなら。どうして自分は未来で、彼らにマルティウス家から追い出されなければいけなかったのか。マルティウス家を乗っ取るために自分が邪魔だった、それしか考えられない。強引にアガサをマルティウス家の養子にするために事前に送り込んでおき、そのアガサと結婚してシュレインがマルティウス家を乗っ取るために――。
――そのはずよ。それ以外の答えなんかない、そうでしょう?
ギリ、と唇の端を噛み締める。
自分は彼らが裏切り者であるという答え以外を求めていない。何故ならば約束してしまっているからだ――悪魔に、彼らの命を捧げることを。
彼らは確実に、近い未来で死ななければいけない存在。
それが実は善だった、なんてあるわけがない。あっていいわけがないのだ、自分にとっては。
もう後戻りなどできない場所にいる。それを望んだのは他ならぬイリーナであるのだから。
「イリーナ、どうした?」
「!」
はっとして、イリーナは顔を上げた。見れば父が、不安そうな顔でこちらを見つめているではないか。どうやら自分は紅茶を置いて、半分からっぽになったハンバーグの皿を睨んだまま固まってしまっていたということらしい。そりゃあ、父でなくても不思議に思うだろう。
「い、いえ、すみませんお父様。少し考え事を」
そうだ、解決されていない謎はまだある。半年以上もシュレインに会えなかったため、本人に尋ねることができなかった疑問。
流石にあの話を立ち聞きしていたことを、明かすわけにはいかない。それでも、いい加減ツッコミをいれていい頃であるはず。自分も今年で十八になる娘であるのだから。
何故、自分とシュレインは婚約することができないのか。
むしろ正式な書類で一切契約が交わされていなかったことに、イリーナ自身が最近知って驚いたほどなのである。幼い頃から伯爵家同士で交流があり、顔を合わせていた自分達。見目麗しい同い年の少年に、幼いながら一目惚れしたイリーナ。とにかく彼の気を引きたくて、お庭で彼の手を引っ張って走り回ったり、家の中でトランプをやってたくさん遊んだりとしたことをよく覚えているのだ。昔は両親に連れられ、共に街のハズレの丘までピクニックに行ったこともあったはずである。
両親公認の仲であるとばかり思っていた。
自分達は将来を約束された仲。コースト伯爵家も、次男の婿入りなら特に支障はない。将来は彼がマルティウス伯爵家に婿入りする形で一緒になるはず。それはずっと前に決められているとばかり思っていたのである。
そう、彼を婚約者と信じて疑わなかった。
だから誰にも聞かなかったのだ――自分達は将来結婚するのよね?なんてことは。
「お父様。……あたくしももう、十八ですわ」
シュレインにどんな思惑があって、アガサを送り込んできたのかはわからない。
だが、それとこれとは別だ。これ以上アガサに邪魔されるかもしれない、なんて不安を抱くのはごめんだった。たとえ、裏切り者である彼らを、最終的にイリーナ自身の手で裁かざるを得ないのだとしてもである。
「そろそろ、シュレインと……正式に婚約者としての契約を交わしても良いと思うのです。確かにコースト伯爵家は次男とはいえ婿入りさせることになるわけですから、多少時間が欲しいのは事実でしょうけれど」
「!」
イリーナがそれを切り出した途端、父親がさっと顔色を変えた。同時に、シュレインはやや苦い顔でイリーナと父上を交互に見比べている。
――え、何よその反応。あたくし、そんなまずいことなんか言った?普通の疑問ぶつけただけでしょ?
ややこしい手順が必要になるのは事実。そして、コースと伯爵家としては――長男の保険として次男の婿入りを遅らせたい気持ちがあってもなんらおかしくはないのだろう。
だが、イリーナは知っている。シュレインは三兄弟の次男なのだ。シュレインの下にはもう一人見目麗しく聡明な三男がいるのである。次男が早々に婿入りしても、なんら問題がないように思われるのだけれど。
「そうね、確かにそろそろ良い時期かもしれないわね!」
不思議なことに、イリーナの母上の方は明るい声を上げるのだ。笑顔で父とシュレインを見て、もう娘も十八だものね、などと言っている。
「確かにあちらの家には婿入りを要求することになるわけですから、時間が必要だったのは確かだけれど。イリーナも十八だし、そろそろきちんと結婚してもいいと思うのよ。書類で正式に交わしたわけではないけれど、シュレインも、ねえ?イリーナの婚約者は自分だって、ずっと昔からそう思ってくれていると思うのよね。良い機会だから、話を進めるのがいいと思うわ。お互いも家も認めているのなら、それ以上に幸せなことなんかないでしょう?このご時世に、きちんと愛し合う者同士で結婚できるなんて、こんな幸せなことはないわよ!」
ぺらぺらとテンション高く喋る母。イリーナのために、一刻も早くそうすべきだという意見なのだろ。だが、自分から言い出しておいて、イリーナは違和感を拭いされずにいた。
明らかに、父の様子がおかしい。
「そ、そうだな。……そろそろ、考えてもいい頃よな」
冷や汗をかいて、視線を逸らしている。イリーナは嫌な予感がした、そういえば父は。
――い、いやいやいやいや!ま、まさかね……?
思い浮かんでしまった、とある可能性を。イリーナは、ぶんぶんと首を振って振り払ったのであった。