<6・勝手>
イリーナの問いに、少しアガサは驚いたようだった。立ち聞きしていた事実をバラすのは少し恥ずかしい気もするが、そもそも立ち聞きされていてまずいような内容を大声で話していた方が問題である。自分の悪口を言っていた面々について、父に告げ口してやろうという気持ちは失せていたが(腹立たしいが、彼女らをすぐクビにできる状況でもないと気づいたからだ)、それならそれで言いたいことや尋ねたいことが山ほどあるのだ。
アガサはシュレインとどういう関係であるのか。
シュレインが本当にアガサを目的のために送り込んできたというのなら。アガサがただの労働階級の娘、という事実も疑わしいものとなってくるのだ。
確かめなければいけない。多くの疑問も踏まえて。
「確かに、あたくしも少し妙だとは思っていたわ。馬術の稽古を、物心つく頃から始めていたし……貴族の嗜みのためにしては、随分と猟銃の稽古をしっかりつけてくれるものだなと考えていたものの。貴族は貴族でも、女性ならば銃が使えない者は少なくない。狩りに参加する女性貴族もいるにはいるけれど、参加しないことが恥ずかしいというほどではないということくらいあたくしも知っているもの」
護身のために鍛える必要があった、ということならわかる。
しかし今度は別の疑問が出てくるではないか。一体自分は、何から身を守るというのか。
今だって、アガサと二人で出かけているとはいえ、正確には今馬車を引いている御者と三人でのお出かけである。御者は護衛もできる人間だから、この人数でいいのだ。令嬢であるイリーナは、一人で出歩くことが殆どない。ちょっとしたお出かけにも護衛をつけていて、一人でうろつくのは屋敷の中や大学の中くらいなものである。そうそう、何者かに襲われるとは思わないし――忌々しいが自分はただの“伯爵の娘”というだけだ。身代金目的の誘拐の標的になるかもしれないが、精々それくらいの価値しかないはずである。
「それでも護身術を学ぶ、という理由がわからないから困惑しているのよ。あたくしのような人間が、一体どこの誰から身を守る必要があるの?長生きするためには、体を鍛えておいた方がいいというのはわかる。いざという時逃げるために馬術は必要だけれど、猟銃の技術と簡単な格闘術まで学ぶのはさすがに謎があるわね。それともアガサ、貴女何か知っているのかしら?」
御者は聞いているかもしれないが、今ここでしか尋ねられそうなタイミングはなかった。アガサはしばらく視線を泳がせると――それは、と口を開く。
「……その。あくまで、私の推測もありますし、何もかもお話できるわけではないのですが」
「何?」
「……あるお方から、少し不穏な話を聞いていまして。アナウン王国が近々、諸外国との戦争の準備をしているというのです」
「え?」
突然飛んできた斜め上の話に、イリーナは目を見開いた。護身術だと思った理由は何?と尋ねたのに、何故それが戦争なんてことになるのか。
話せないことって何、あるお方ってシュレインのこと?――直前まで尋ねようとしていた疑問が一気に吹き飛ぶことになる。
「……冗談でしょ?」
そうイリーナが言いたくなるのも無理はないことだろう。アナウン王国は、ここ二百年ほどずっと平和を保ち続けている王国である。ここ何代かの王様が極めて温厚かつ平和的であり、諸外国とも友好な関係を保っているというのが最大の理由だ。二百年と少し前に起きた隣国との大きな戦争で勝利した後、アナウン王国はそうやって手に入れて植民地化したいくつもの国を実に丁寧に統治した。戦争でボロボロになった町の復興に手を貸し、戦災孤児達の引き取り手を積極的に探し、敗戦国とはいえけして粗末な扱いをしなかったのである。
結果、植民地となった敗戦国達から大きな不満が上がることもなく、アナウン王国はそれぞれの国の土地を手に入れて莫大な利益を得ることに成功したのだった。豊かな資源と土地、技術と人材を手に入れたこの王国は、今や世界でも五本の指に入る大国として君臨している。戦争は悪であり、争わずして多くの国と共存していくことが望ましい――国王の信念は、国民達に大きく支持され、長年の平和の礎となってきたはずだ。
そんなアナウン王国が、何をどう間違ったら戦争をするなんてことになるのか。
「イリーナ様の疑問はご尤もです。でも、それでも私は……この国が裏で酷いことをしている話や、それを隠蔽するために諸外国をけしかけて“正当防衛”を名目に戦争を始めようとしているという話を耳にしてしまいました。どこの国の話なのか、どこの方からの情報であるのかは明かせませんが。私の知っているその方は、この国が戦火に晒されることを望んでおりません。同時に……イリーナ様に、危険な目に遭って欲しくないとお考えなのです」
「そこがわからないわ。何故私が危ない目に遭うの?その話が仮に本当だとしても、あたくしはなんの関係もないじゃないの」
「関係大アリなんです。お父上が……ゴドウィン・マルティウス伯爵が、貿易商を営んでおいでだから。嫌でも諸外国の情報や黒い噂が入ってくる立場であると、そう思いませんか?」
ここまで言われて、ようやく話が繋がった。父は確かに、外国の動きに詳しい。仕事のために、あっちこっちのコネクションから有益な情報を集めている。下手な外交官より詳しく諸外国の動きを察知できているなんてこともありえるだろう。
それはつまり、父がアナウン王国、あるいは外国にとって不利益を齎す情報を事前に知ってしまう可能性があるということでもあるのである。そうなった場合、父を消すためにイリーナが悪い者達に狙われることもあるかもしれない、というのがアガサの結論であるようだ。到底信じがたい話ではあるけれども。
「眉唾ね。つまり、そういう危険な状況に陥る可能性もあるから、あたくしには護身術が必要だと……貴女はそう考えているってこと?」
「……はい」
「ふうん、そう……」
穴だらけだが、なんとなく話している内容に嘘はないように思われた。そうすると、別の疑問も浮かんではくるわけだけれども。
つまり、アガサがただ世話係としてシュレインに送り込まれたメイドというだけであるのなら。このような話を、シュレインからアガサにしておく必要はないのではないか?という話である。
これでは、まるで。
「もしかしてあんた、シュレインが送り込んだ……あたくしのガードマン、だったりするわけ?」
ストレートに尋ねてみた。アガサは俯いたまま、イエスともノーとも言わない。全く的はずれな意見であるのならば否定しないわけがないので――この反応は、ほとんど肯定しているものと思っても問題ないだろう。
だが、そうなると。この程度の女に自分の護衛が務まるはずがないという気持ち、そこまで弱いと思われているなんて屈辱的であるという気持ちがどうしても芽生えてきてしまうわけだが。
――確かに、こいつものすごい力持ちだったのよね。ただの貧しい家の娘じゃなくて、どこかで戦闘訓練を積んだ傭兵であると言われた方が納得できる気もしないではないけれど。
「……だんまりなわけ。まあいいわ」
沈黙が辛くなり、イリーナは吐き捨てるように言った。シュレインに雇われてこの家に入った護衛であり、かつ父も公認というのなら。そもそも自分がこいつを追い出そうといくら画策してきたこともほぼほぼ無駄であったということになってしまう。なんとも馬鹿らしい道化ではないか。
「そのあんたのご主人様に認められるために、あたくしのような性格悪いご令嬢にも優しく付き合ってあげてます、ってわけでしょ。ポイント稼ぎご苦労様。性格悪いのはどっちなんだか」
「お嬢様は性格悪くなんかないですよ。ただ、一生懸命なだけじゃないですか」
「は?」
否定するのはそこなのか、と少しだけ驚く。アガサは顔を上げ、ちょっとだけ寂しそうに笑った。
「いつも、何につけても一生懸命でらっしゃいます。厳しい訓練にも勉学にも耐え、立派にマルティウス家の跡継ぎとしてのお役目を果たそうとなさっている。……シュレイン様とのご結婚を望んでらっしゃるのも、シュレイン様のことが好きというだけではなくて……一刻も早く結婚して、たくさん子供を作り育てなければならないという使命感があるからですよね。私、そうやって頑張れるお嬢様のこと、好きですよ」
何言ってんのあんた、と言い返したかった。自分は、彼女に評価を受けるようなことなど何もしていない。――何もしていないと自分で思えることに驚いた。アガサを追い出すのは自分の未来を守るため、自分は彼女に嫌がらせなんてせこいことをやっているわけではなくただの正当防衛だとずっとそう思っていた。思っていたつもりだった。でも。
どこかで、悪いことをしている自覚があった己に驚かされている。
そんな自分を、アガサが好意的に見るはずがない、それが当たり前であると思っていたということも。同時に。
――なんで、あんたがそんなこと言うわけ。
あの、話を立ち聞きした日から、ずっと自分の調子は狂いっぱなしだ。アガサに対して憎たらしいと思うのに、それだけでなくなってしまっている自分がいる。
本当は、ずっとどこかでそうやって、誰かに認めて欲しかった自分がいたことに気づかされたからだ。
そうだ自分は、マルティウスの家を立派に継ぐことだけに心血を注いできた。自分がいなくなれば、この家の跡継ぎはいなくなる。この家の血は絶えてしまう。本来の時間で自分が追い出された時、悔しくてたまらかった本当の理由は。今まで家を継ぐために頑張ってきた全てを、横からしゃしゃり出てきたメイドの小娘と裏切り者に全部無駄にされたと思ったからだったのである。
本当は、“頑張ったね”と誰かに褒めて欲しかった。
小さな子供でもなんでもないのに、そんな小さな言葉の報酬でさえ欲しいと思っていた自分がいたのだ。できて当たり前、失敗したら叱られるのに成功したら褒められうことなどない。頑張っても頑張ってもモチベーションに繋がらない――本当はそれが、とても悲しくて。だからそれを、別の誰かが悪いことにして発散しようとしていたのは事実なのではないか。
――ち、違うわ。実際アガサはどんな理由であれあたくしを家から追い出すのよ。その未来が実際に存在していることは自分でも見ているじゃない。情に絆されるべきじゃない、こいつはあたくしの敵じゃないの……!
「あの方も、お嬢様の頑張りを認めてらっしゃいます」
嘘ばっかりつくな。そんなに擦り寄りたいのか。そう言おうと思っていたのに、先んじてアガサに言葉を続けられてしまう。
「ただ、少しだけその、手紙の量は抑えて欲しいみたいですけどね。読みきれなくて困っているみたいですよ」
「……何よ、もう!いいじゃないの、そんなのあたくしの勝手でしょーが!」
「愛情が深いって素晴らしいことだと思います。でも重すぎるのはちょっとどーかと」
「う、うっさいわね!」
完全に、シュレインと自分が繋がっていることを認めた発言だった。アガサは、シュレインと繋がっていることを隠す気がないのかと思ってより混乱するイリーナである。
訳がわからない。こいつを憎んでいるべきで、それが一番楽であるはずで、騙されていることは自分でもわかっているのに。こんなふうに大らかに友達のように話しかけられてしまうと――どうしていいかわからなくなる自分がいるのだ。
「お嬢様、もうすぐお店ですよ。私、黄色いドレスがいいと思うんです。太陽のようにキラキラした色が、お嬢様には一番よく似合うと思うので!どうですか?」
アガサはキラキラした笑顔を向けてくる。イリーナは真っ直ぐに見つめることができず、思わず視線を逸らした。そして。
「か、か、勝手にすれば!?」
窓ガラスには。真っ赤に染まったみっともないイリーナの顔が、はっきりと映し出されていたのだった。




