<5・努力>
一体どういうつもりなんだ、とイリーナは思った。アガサが自分を庇う理由など全くなかったからである。なんせ、イリーナがいじめ――ではなく“正当な”自己防衛のために彼女をこの家から追い出そうとしている相手がアガサだ。好かれるようなことをしていないのは自覚しているし、彼女とてとっくにイリーナに嫌気がさしていてもおかしくないはずである。いつこの家に愛想を尽かして“出ていきます!”と言ってくれるか、自分はずっと楽しみにしていたくらいなのだ。
――ああ、わかったわ。他のメイド達を相手にいい顔しようってわけね?自分をいじめてくる嫌なお嬢様を庇うあたし最高に優しい!ってやりたいんでしょ。うっわ、性格悪いのはどっちよ。
ドアごしにイリーナが睨みつけていることなど、アガサは気づいていないはずである。さあ、どんな上辺だけの言葉を言ってくれるのか。それによっては、今後の対応が大きく変わってくるぞ、と思っていると。
「イリーナ様は……誰より努力家でらっしゃいます」
かちゃん、と。ティーカップを置きながら、アガサは告げた。
「マルティウス伯爵家は、アナウン王国でも有数の名家。伯爵という地位ではありますが歴史は本当に古いですし、一部公爵の方からも一目置かれていると知っております。ゴドウィン様の素晴らしい手腕を頼って、独自の貿易ルートを任せる上の方々も少なくないのだとか。……そのような家でなら、本来何人もの後継を作り、今後の存続を安定させたかったことでしょう。しかし残念ながら伯爵と奥様との間にはイリーナ様お一人しか生まれませんでした。たった一人の跡取り娘、イリーナ様が受けた教育の厳しさとプレッシャーは、私達ではとても想像ができないものだと思います」
「そう、ね。それは気の毒なことだと思うけれど」
「伯爵と奥様は、イリーナ様が少しでも強く長生きしてくださるようにと、心を鬼にして教育に励まれました。私、此処に来た時驚いたのです。確かに今は貴族の嗜みとして狩猟が流行していますけれど、それでも女性の貴族であるならば狩猟に出かけない方々も珍しくありません。しかし、お二人は自ら、イリーナ様に馬術と狩りの技術を教え込んでおいでなのです。それも、相当きつい練習を課しておられる。あれは一体、何故なのでしょう?」
それは、イリーナも少し不思議に思っていたことだ。馬に自力で乗る訓練をすることは大切なことである。今現在この国では、馬よりも足の速い乗り物がほぼ存在していない。王国中枢にのみ、特別な自動車が開発・運用されているらしいが――貴族とはいえ王族の身内でもなんでもない自分達は、馬車に乗って移動するか馬にまたがって移動するかのほぼ二択であるのは事実である。
それでも、馬を乗りこなすのは厳しい訓練が必要だ。上手にバランスを取りつつ馬を乗りこなすことができなければ、落馬して大怪我をすることもある。基本、体が出来上がっていない子供に無理な訓練をさせるのは非常に危険である。特に、女子は全体として力も弱いし体力もない。にもかかわらず、イリーナはかなり幼い頃から、馬術の訓練を始めさせられていた気がするのだ。
もっと言えば、狩猟の技術――つまり銃を扱う術に関しても、である。
狩猟は貴族の嗜みだが、あくまで“できるようになっていれば尊敬される貴族の趣味”でしかない。女性ならライフルが扱えなくても、そう恥ずかしいということはないだろう。しかし、こちらも馬術と並行して、子供の頃から訓練をつけさせられていた。狙いを外すたび厳しい叱責を受け、怪我をするたび失望の目を受けながら。一体何故、とは思っていたのである。どうして自分には、このようなことを幼い頃から訓練させられていたのだろうか、と。
それは一人娘であるがゆえ、二人の期待を一心に背負っていたからだと思っていたのだが。
「お二人がイリーナ様に教え込んでいるのは、正確には狩猟の技術ではない。……あれは、身を守るための、護身術です。馬を乗りこなすことができればいざという時すぐに逃げられるし、高速で走りながら銃で撃つことができるのならば比較的安全に敵を倒すことも可能。伯爵は少しでも長くお嬢様が生き残ることができるように、護身術のつもりで幼くしてお嬢様を鍛えてらっしゃるのでしょう。それこそ、男子と戦っても打ち勝てるようにと」
凄いことですよ、と。アガサは続ける。
「お嬢様の訓練風景を何度も見ましたけれど、凄まじいものがありました。お嬢様、必ず訓練の時間には遅刻せずに庭にやってきて稽古をなさっているんです。いくらお嬢様が幼くして鍛えているとはいっても、女性の体力では毎日きつくてたまらないでしょうに、泣き言一つ言わない。この方は、マルティウス伯爵家の後継としての役目を立派に果たそうとしているのだと確信しました。あれだけ、家のために努力できる方が……本当に悪い方であるはずがありません。テーブルマナーも、毎日見ていますが惚れ惚れするほど美しいですし、いつもしゃんと背を伸ばして歩いてらっしゃる。厳しい教育をすべて乗り越えてきた、まさにご令嬢の鑑とも言えるお方ですよ」
「いくらなんでも褒めすぎてしょ、アガサ。言いたいことはわかるけど、それでもあんたをいじめていたことに代わりないじゃない。自分が辛いからって、誰かをいじめていいことにはならないのよ?」
「そうですね。それは、私もやめてほしいです。でも……お嬢様の辛い気持ちを吐き出せる場所が、私にぶつけるしかないのなら。それって、とても悲しいことだと思うし、きっと私の存在も必要なんだと思うんですよね」
何それ、とイリーナは思った。
――今まで。どんなに勉強や訓練を頑張っても、誰も褒めてくれる人なんかいなかった。全部全部、できて当たり前のことだったんだもの。……あたくしも、できるのが当然だと思ってた。できないのが出来損ないなんだって。だから死ぬ気で頑張ってた。誰にも、認めてもらえないとしても。
それを、まさかアガサは見ていたと。
アガサだけは見ていて、認めてくれていたとでもいうのか。
――はっ……わかってるのよ。あんたそうやって、あたくしをかばって自分の株上げたいだけなんでしょ。本気であたくしを評価しているわけなんかじゃないんでしょ。騙されたりしないわよ。ましてや。
ましてや、いじめられているのに。その苛立ちをぶつける場所として自分が必要なら、それでいいとでもいうのか。何故、そんな考え方ができる。もし嘘をついているわけではないというのなら、そんなものはただの偽善だ。彼女は自分の八つ当たりを受け止められる己に酔いしれているだけなのだろう、きっと。だから、いじめられてもずっと平気であったのだ、きっとそうに決まっている。
自分は彼女とは違う。ちゃんとわかっているのだ、人間は結局己が一番可愛いということを。己が生き延び、評価されること以上に大切なことなどないということを。
何故なら、まさにイリーナはずっとそう思っていたのだから。
「でも、本当はこんな形じゃなくて、もっと別のやり方で……お嬢様の気持ちを受け止められる存在になれたらって、そう思うんです。貴族の方にこんなこと言うのもなんですけど。お話するのも喧嘩するのも、真正面からぶつかり合ってすっきりできる仲が一番いいというか。……できれば、年も近いし、お友達のような関係になれたら最高なんですけど」
馬鹿じゃないのか、こいつは。イリーナはそう思いながら、そっとドアを閉じていた。
ぽたり、と足下に雫が落ちる。
最後に見た、花が咲いたようなアガサの笑顔を。イリーナは当面、忘れられそうになかった。
***
「……なんでこんなことになってるのよ、全く」
「すみません、お嬢様。でもお嬢様も、自分のドレスの生地はご自分で選びたいと仰ってたではないですか」
「それはそうだけど……」
後日。
なんとイリーナは、アガサと二人で馬車に乗っていた。アガサの新しいドレスを買うのが目的で、もし欲しいものが見つからなかったら生地からメイド達が仕上げることになっていた。本来仕立て屋は本業に任せるのが筋であるのだろうが、マルティウス家のメイド達、特にメイド頭であるミレーユの仕立ての腕はプロにも劣らぬレベルであると知っている。近年は彼女に新しい仕立てを任せることも少なくないのだった。その補佐を行う他のメイド達の裁縫の腕も上がっていくから、ある種一石二鳥なのである。
伯爵家令嬢であるイリーナは当然、社交界の参加頻度も高い。そのたびに新しいドレスを仕立てて、自分の権力を誇示しなければならない立場である。
男性ならばスーツを何着か着回せばいいのかもしれないが、女性はそうもいかないからややこしい。いつも同じドレスを着ていたりでもしようものなら、あの家はお金がなくて没落寸前ではないか?みたいなあらぬ噂を立てられかねないのである。本当の品位は服ではなく本人の美しさだとイリーナは思っているが、それでもお金を使わなければ権力を誇示できない理由もわからないわけではないのだ。
おかげで余計な出費がかさむのは、本当に勘弁して欲しいと思うのだけれど。
――確かに自分で生地選びたいとは言ったけど。なんでよりにもよって、あたくしについてくるのがコイツなのよ。コイツもなんでOK出すのよ、意味わかんないんだけど。
ゴトゴトと馬車に揺られながら、イリーナは思う。メイドの中で自分が一番イリーナに嫌われていることは、アガサが誰よりわかっているはずである。しかも今は、かばってくれる先輩メイドもいないし、いいカッコをしたところでそれを見ている人間もいない。辛い思いをするだけなのがわかっていて何故なのかさっぱりだった。
まあ、確かにいくらイリーナであっても、買い物の行き帰りに彼女を転ばせるなりなんなりして、用事を台無しにするようなことをするつもりはないけれども。
――どうせなら、聞いてみようかしら。他のメイド達がいないなら、こいつの本心聞けるかもしれないし。
「ねえ、アガサ。訊きたいんだけど」
こんなことでもなければ、アガサに話しかける機会もなかったし、話したいとも思わなかったことだろう。
先日立ち聞きした一件。あの時は自分の努力をアガサが見ていたことや、彼女の言動に動揺して見落としてしまっていたが。よくよく考えると、どうしても気になることが一つあったのである。
それは何故、彼女が自分が受けている狩猟の訓練を――護身術の訓練だと考えたか、だ。
彼女は元々、しがない商店の娘であったはず。そばで憲兵の訓練などを見たことがあるとも思えないのだが。
「あたくしの狩猟の訓練、あんた見ていたんですってね。……先日ちらりと聞こえてしまったのよ。あれを、あんたは護身術だと思ってるんですって?根拠は?」
案外こういうところから、彼女の正体に繋がる根拠が得られるかもしれない。