<26・最期>
時間が巻き戻ったと気づいた時、シュレインは自分の屋敷で机に向かって本を読んでいるところだった。
シュレインは大学を卒業した後、大学院に行って人を乗せる乗り物に関する研究をしたいと考えていた。現在この国の物流は、多くが馬車に頼っている。大国アナウン王国が、他の国と比較して明らかに劣っているとされている点がそれであった。馬車は確かに便利であるが、そもそも馬を持てる個人・企業は限られている。管理・飼育の問題もあるし、そもそも一度に運べる物量の限界を感じずにはいられなかった。他の国のようにもっと自動車を有効活用する方法を模索していくべきだと考えていたからである。
ゆえに、その時読んでいたのも自動車に関する学術書であったわけだが。
すぐに気がついたのである。その本が、自分の記憶にあるよりもずっと綺麗で新しいという事実に。大量に貼ってあったはずの付箋が殆どなくなっているという現実に。
やがて混乱の中、シュレインは自分が確かに死んだはずだという“過去”を思い出し――すぐにアガサと連絡を取ったのだ。もしかしたら自分を“殺害した”はずの彼女もまた、記憶を継承しているのではと思ったからである。
――予想した通りだった。アガサもまた、俺を刺したこと、炎の中で自らが焼け死んだはずということを覚えていたのだ。
自分達は確信を持つに至る。イリーナはやはり、あの後悪魔と契約を交わしてしまったのだと。にわかには信じがたいが、他には考えられない。自分達は悪魔の力によって、数年前の過去の世界に戻ってきたということを。
すぐにシュレインとアガサは、二人でひそかに森へ向かうことになる。自分達は悪魔と契約するつもりもなければ、なんらかの交渉をするつもりもない。しかし、元の世界と同じ自分を演じるにせよイリーナときちんと話し合うにせよ、確かめておかねばならないことがあったのである。
即ち、イリーナは正確にはどのような契約を悪魔と交わしたのか、ということだ。
生贄に選ばれたのは自分達であるのか、あるいはアガサかシュレインのどちらかであるのか。
自分達はこの巻き戻った時間の中で、新しい未来を描くことも可能であるのかどうか。悪魔が素直に話してくれる確証はなかったが、それでも本人に確かめるわけにはいかない以上、訊ける相手は悪魔をおいて他になかったのである。
幸いにして、彼は守秘義務などといったものを守るつもりは全くないようだった。特に躊躇う気配もなく、自分とアガサが共に生贄に選ばれており、二人を殺すことがイリーナの時間遡行の条件であったことをぺらぺらと語ってくれたのである。
『アナウンの悪魔よ、一つ確認したい』
既に時間が巻き戻り、魔法は実行されてしまった。
契約そのものが取り消しになる、などと甘い考えは最初から持っていない。
『俺とアガサの命を悪魔に捧げるか、イリーナの命を捧げるか。それで契約は完了するんだな?なら……我々が期日までに自害を行った場合、契約はどうなる?』
イリーナを死なせるわけにはいかない。ならば、悪魔との契約通り自分達二人が死ななければならないだろう。問題は、自分達からすればできればイリーナ自らの手を汚させたくはないということに尽きる。ならば、自分達が事故で死んだり自害した場合契約がどうなるのかが問題だった。それが“生贄を捧げた”とカウントされないのなら、自分達はイリーナを説得してきちんと殺してもらわんければならないことになってしまうのだから。
しかし、悪魔は告げたのである。お前達の心配は杞憂であるぞ、と。
『我は嘘はついていない。しかし、イリーナ・マルティウスの望む情報全てを語ってもいない。時間を何年も巻き戻すなどという行為の対価が何故、数名程度の命で済むのか?少し考えればわかることに、あの娘は気づいていないのだ』
『……なるほど、理解した。時間を巻戻しても……大きな運命の流れは、元の世界と変わることはない。そういうことか』
『左様。生きるべき者は生き、死ぬべき者は死ぬ。その運命は何も変わらない。ゆえに、そもそも前提として、死ぬべきではない者は生贄に捧げることもできない。イリーナ・マルティウスの契約が成立した最大の理由は、あの娘が生贄に指名したのが汝らであればこそ。汝らは、あの契約の日までに死ぬことが定められた存在であった。つまり、その死に方が多少変化しようとも、世界の大きな運命にはなんら影響を及ばさないということでもあるのだ』
『やはり……』
数名の生贄(それも後払い)で時間遡行が許された最大の理由。
それは、イリーナが時間を逆行しても、運命はなんら変わらないからこそ。
最初から、シュレインとアガサはこの日までに死ぬことになっていたのだ。それが多少遅いか早いか、手段が変わるかの違いでしかなかったのである。
『……なんとなく、お前が何故悪魔と呼ばれているのか理解したよ』
忌々しい。シュレインは吐き捨てることになる。
『時間を逆行したいとお前に願う人間は、十中八九その日までの運命を変えたがっている。しかしその人間がいかに足掻こうとも、運命は最初から絶対不変。その者が救いたいものは救えず、変えたい結末はけして変えられない。変えることができるのは、あくまでそこに至るまでの過程のみ』
そして、生贄を要求しておきながら、実際選ばれるのは死ぬことが予め決まっている命のみ。悪魔が本当に得る“対価”は、生贄ではない。
『お前はそうやって人が、抗えぬ運命に押しつぶされ、嘆き苦しみ惑い姿を見て楽しみたい。ゆえに人の願いを叶えるんだ。それが、その観劇する権利こそがお前が受け取る最大の対価だから。違うか?』
悪魔はけして、自分達の前に姿を現さなかった。それでもその声が、真理を言い当てた自分達をあざ笑う気配だけは感じ取ることができたのである。
『我を作ったのは、人間よ。人間の意思よ』
どれほど忌々しくても、憎たらしくても。
彼はいつでも、本当のことしか言わないのだろう。
『けして望み叶わぬとしながら、罪は洗い流せぬと知りながら。我に頼り縋りつくのが汝らよ。汝らが望まなければ、我のようなものは最初から存在しておらぬのだから』
***
「これが、俺達が知っている……見てきた全てだ」
全貌をようやく知ったイリーナは。今にも倒れそうな顔で、シュレインを、アガサを見た。
「最初、から」
ふらつきながら、彼女は。窓に寄りかかり、告げる。
「最初から、全部知っていたの?知っていて黙っていたの?……なんで?」
可哀想なことをしてしまった、と思う。本当ならばもっと早く真実を伝えておくべきであったのだと。
――ああ、俺はどこまでも、愚かで身勝手だな。
シュレインは唇を噛み締める。
――君を守るためと言いながら、結局……同じことを繰り返しているんだ。君に大切なことを伝えないで、傷つけている。
彼女が何を思うのかなど明白だ。それこそ、“騙されていた”と今度こそ思っても誰も責められない。かつてのそれは誤解だったが、今度ばかりは間違いでもなんでもないのだ。
自分達は死ぬことを覚悟して、それでも彼女と共にいることを選んだ。彼女が自ら消えることを決意していることを予想していながら、それでも彼女を守るために共に命を捨てることをとうに決めていたのである。
裏切られたと、詰られても仕方ない。それなのに。
「……なんで、そんなことができるの」
「イリーナ」
「なんで?あたくしは……あたくしが貴方達に何をしたのか!何を言ったのか!全部知ってたんでしょう、覚えてたんでしょう!?それなのに、何故守るだなんてそんなことが言えるの?何故救おうと思えるの?貴方達を誤解して、思い込んで、裏切っていたのはあたくしの方なのに……生き残る価値なんて、そんなあたくしの何処にあるというのよ、ねえっ!」
ぽろぽろと溢れる涙は、外で降り注ぐ雨よりも優しく、切なく、温かい。
かつて自分の名誉のことしか考えられなかったであろう彼女が、孤独に自分と向き合うことさえもできなかったであろう彼女が。今は、自分とアガサのために心から悲しみ、涙を流している。
彼女はけして、人の心がわからない人間などではなかったのだ。ただ環境と思い込みが、彼女の心をずっと冷たく変えてしまっていたというだけで。自分達が、そうさせてしまっていたというだけで。
「……酷いこと、たくさん言ったわ。貴方にも、アガサにも。取り返しのつかないことをたくさんしたわ。謝っても全然足らないの。……貴方達はあたくしを守ろうとしてくれていたのに、そんな貴方達をあたくしは、生贄にしようとした。自分本位な、身勝手な理由で。結局運命が変わらなくて、悪魔と契約したことそのものになんの意味もなかったとしても……だからといってあたくしが犯した罪が消えるわけじゃない。許されるはずがない、それなのに」
顔を覆って、彼女は嗚咽を漏らし、呟く。
「悪役令嬢は、あたくしだった。……生き残るのは、心が清らかなヒロインとヒーローであるべき、そうでしょう?……悪魔は、あたくしが死ぬのなら二人を殺さなくてもいいと言ったのよ。なら、あたくしが死ねば、二人は生き残ることもできるかもしれないって、そういうことではないの……?」
「そう思えるようになったなら。……君が契約したことも、逆行したことも、正しく意味はあったということだよ……イリーナ」
涙を流す彼女を、シュレインはそっと抱きしめる。そしてそのシュレインの背中を、アガサが無言で支えてくれていた。
想いはひとつだと、そう告げるように。
「確かに、結末は同じであるのかもしれない。君は生き残り、俺とアガサはここで死ぬ。……でもね。ここから先の未来はまだ、決まってなどいないんだよ。生き残った君がどのように未来を導くのか。そして、この世界をどう変えていくのか。……逆行したことで君は物語の“過程”を変えた。ならばその先の未来は、逆行する前の君とは大きく違うものになるはずだ。それだけで……それこそが意味になる。君の人生が、俺達が生きた……価値を作ってくれる。違うかい」
イリーナの嘆きを示すように、窓の外ではざあざあと雨足が強くなり続けている。このまま、洗い流すような雨は全てを飲み込むのかもしれない。もっともっと大きな嵐になり、雷を落とし、彼女の行く手を大きく遮るのかもしれなかった。
それでも、シュレインは知っている。やまない雨はない。晴れない空はない。――どれほどその闇が深く、長く続くように思えても。その向こうの青空を信じることができるなら、けして人は絶望に負けたりなどしないのである。
「俺達の命を、どうか未来へ持っていってくれ……イリーナ。愛している」
それは、たった一度だけの――兄としては消して許されることのない、告白だった。
イリーナのは一度だけ体を大きく震わせると、やがてゆっくりと自らシュレインから離れる。涙でぐしゃぐしゃの顔は、シュレインが一番好きな彼女の表情とはかけ離れたものであったけれど。
「……生きて、罪を償い続けること。あたくしにはもう、それしかないのね」
「それだけではありません、お嬢様」
そっと、そんなイリーナの手を握り、アガサが告げた。
「生きて、私達の分まで幸せになること。それがお嬢様の義務です。そうでしょう?」
家族と名乗ることもできなかった家族と、唯一無二となった親友。
イリーナは頷き、それ以上何も言うことなく廊下を駆け出した。そしてもう二度と、自分達を振り返ることはなかったのである。
彼女が玄関から飛び出し、馬車に乗ったところまで見届けて、シュレインはアガサを見た。かつての世界と、そっくりな景色。違うことはいずれ晴れるであろうこの雨と、今のイリーナがけして独りではないということであろうか。
彼女の未来を守るため。今度こそ、自分たちには最後の仕事が待っている。シュレインは顔を上げ、あの時とよく似た、されど違う台詞を呟いたのだ。
「準備しよう、アガサ。……間違いなくこれが、最期の戦いなのだから」