<25・希望>
ずっと、不思議に思っていたことが一つあるのだ――アガサには。
何故、悪魔は時間を巻き戻す、なんてことが可能なのだろうかと。しかも、巻戻した術者本人の命、あるいは捧げた数名の命だけで対価が足りると言うのである。大真面目に考えるなら、少々割に合わないような気がしてならないのだ。なんせ、時間を巻き戻し、記憶を持った術者が思い通りにしようとするということはつまり――巻き戻った世界中の人々の運命が変わる可能性があるということなのだから。
一人の時間を巻き戻すことは、世界中の何十億の人々の時間を巻き戻すのと同じこと。
それが数名の命だけで、足りるような小さな魔法とは到底思えない。だが、こう考えれば筋は通るのである。
――過程は違えど、結末が同じ物語など掃いて捨てるほどある。……時間が巻き戻ったとて、多くの人の運命が変わらないように、最初から固定されているのだとしたら。
自分達が巻き戻ったのは、アガサの記憶が正しければ自分がマルティウス家の面接を受けに来た日であったはずである。恐らく彼女は当初、アガサがメイドに採用されないように手を回したかったことだろう。
が、多くの状況が、彼女にそれを許さなかった。結果元の世界と同じようにイリーナはアガサの就職を許すしかない状況に陥ったのだ。勿論、イリーナが“アガサに就職させない状況を作るためには、もっと前の時間軸まで戻らないと無理”ということに気づいていなかった現状はあったのだろうが――恐らく仮に気づいていたとしても、大きな流れを止めるには至らなかったのではないか?というのがアガサとシュレインの結論である。
イリーナがアガサとシュレインを憎もうと。逆に愛するようになろうと。
それは所詮過程の問題に過ぎない。結末が同じであるならば、世界の未来には大きく影響しないのではないだろうか。
それこそ。それぞれの人の死という、大きな結果が同じであるのなら。
――今の世界と同じように。ゴドウィン様は、ご自身とご家族の未来を案じてらっしゃいました。このままでは王国と皇国、あるいはそれ以外の敵にも狙われるかもしれないと。そうなる前に、なんとかしてこの国から逃げる方法を考えなければいけないと。
かつての世界では、イリーナは自分の窮状を一切知らされてはいなかった。しかしイリーナが知らないところで、この国を脱出するための計画は進んでいたのである。アガサとシュレインの関係で気を揉んでいた娘を案じて、伯爵もギリギリまで真実を伏せていたからだ。そして時間が巻き戻る日のおおよそ一ヶ月後に、自分達は皆この国を脱出する手はずになっていたのである。恐らく、ゴドウィンもそろそろイリーナに全てを話そうと思っていた、その矢先のことだったのだろう。
だが、残念ながらそれは叶わなかった。
皇国のスパイが伯爵家周辺を嗅ぎ回っているという事実を、王国の者達に知られてしまったのである。ゴドウィンと夫人は、出先で王国の者達に捕まってしまった。アガサはシュレインと共に結託してどうにか他のメイド達を避難させると、両親が帰って来ないことに気づかず眠っていたイリーナを、どうにか屋敷から逃がそうと画策したのである。
それが、あの日の真実。
屋敷にアガサとシュレインしかおらず、アガサがイリーナの身代わりになるためにドレスを着ていた最大の理由である。
だが、イリーナが何も知らされていなかったことがここで完全に裏目に出てしまうことになるのだ。彼女は伯爵家が王国と皇国に狙われていることを知らず、シュレインを自分を裏切った婚約者と思い込み、アガサが自分からシュレインを寝取ったと完全に勘違いしていた。
『イリーナ。……今すぐここを出るんだ、そうしなければ……大変なことになる』
『お願いします、お嬢様。此処から逃げてください』
あの時、彼女が自分達の言葉をどう受け取ってしまったのか。
本当に手抜かりだとしか思えない。もっと他に、言葉の選びようはなかったのだろうか。
『……一体どういうことなの、これは』
婚約者と、婚約者に寄り添うように立つメイド。
寄り添っていたというより、アガサはいつもの癖でシュレインをいつでも庇うことのできる位置に立っていただけであったのだが。アガサの正体を知らないイリーナにどう見えたかなど、言うまでもないことだろう。
『何故あたくしが、あんた達に追い出されなければいけないの?あんた達、自分が何を言っているかわかっているの!?』
追い出す、なんて一言も言ったつもりはなかった。けれど人は、一度思い込んでしまえばそのフィルターを外してものを見られない生き物である。
誰だってそうだ。自分が望んだ真実しか見えないのが当たり前なのだ。何も知らされていなかったイリーナならば特に。
『……ごめん、イリーナ』
思えば、あの時シュレインが謝ってしまったことも逆効果であったのかもしれない。
『君を傷つけてしまうのはわかっている。それでも、俺は何度でも言う。今すぐこの家を出て行ってくれ。そうしないと……』
『なるほど?あんた達でイチャつくためには、あたくしの存在が邪魔ってことなのね?そういうことなのね!?』
『違う!イリーナ、聞いてくれ、俺達はっ……!』
『聞きたくない!聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくないっ……あんた達、裏切り者の話なんて!!』
裏切り者。その言葉は、今でもアガサに突き刺さっている。
わかっている、全ては自分達の自業自得。イリーナをのけものにして、何も知らせなかったせいでこうなったのだから。彼女は悪くない。誤解させて苦しめた、自分が全て悪いのだ。
『いいでしょう、出て行ってあげるわよ。あたくしもあんた達のクズみたいな顔なんてもう二度と見たくないもの……!』
彼女が何を考えて愛馬を駆け、森へ向かったかなど明白だった。森の悪魔の伝説は、この国の人間ならば大半が知っている話であったのだから。勿論信憑性があるかどうかは別で、自分達も実際に湖に行くまでは半信半疑であったのだけれど。
悪魔と契約することで、人は望みを叶えることができる。それこそ、時間を遡りたい、なんてことも叶えてもらうことができるという。悪魔が本物であったのはもはや疑いようがない。その対価は、到底看過できないものであったとしてもだ。
『……わかってはいたけれどね』
どうしてこうなってしまったのか。茫然と呟いたシュレインの声を、アガサは今でも忘れることができない。
『人を傷つけるって、辛いね。……本当に、自分が情けなくなる。何故こんなに酷い状況になるまで気づけなかったんだろう。もっと早く手を打てれば、彼女をたった一人屋敷の外へ放り出すことになんかならなかったのに』
『シュレイン様は、悪くありません。悪いのは、私が裏工作に失敗したからです』
自分がイリーナにもっと早く事実を伝えていたら。そして、皇国のスパイをもっと効率的に処理し、脱出計画をもっと迅速に進めることができていたのなら――こんなことにはならなかった。
『本当は、お嬢様に一言言いたかった……きっとお嬢様は、シュレイン様と私を恨んであの湖に行ってしまったのでしょう。そのようなことしないでほしい。シュレイン様がお嬢様を追い出すことを決めたのは、けしてお嬢様を嫌いになったからでもなければ、権力を奪おうとしたわけでもないのだと。だから、私はともかくシュレイン様に、そのような酷いことなどしないでほしい。何より、悪魔に力を借りることは、お嬢様にとっても危険を齎すことになりかねないからと……』
自分の命などどうでもいい。この命は、シュレインに拾われて生まれ変わったもの。彼と、彼が愛する妹とその家族に捧げたものであるのだから。
でも、あまりにも皮肉としか言い様がないではないか。イリーナの見えないところで、ずっと彼女を支えるために頑張っていたはずの彼が。何故、その妹に憎まれて、命を奪われなければいけないようなことになるのか。
悪魔は対価として、人の命を要求すると知られている。
あの状況で誰の命が要求されるかなど、考えるまでもなく明白ではないか。
『……泣き言ばかり、言ってはいられないね。イリーナに恨まれ、憎まれることを選んだのは他でもない俺達なんだから』
アガサの頭をそっと撫でて、シュレインは顔を上げた。さきほどまでの泣きそうな顔ではない。彼はもう、とっくの昔に覚悟をしていたのだろう。
『準備しよう、アガサ。……恐らくこれが、最後の戦いだ』
ゴドウィンと夫人はまだ、取り調べを受けている段階であるはずだ。暗殺するつもりだというのなら、わざわざ連れ去る必要もない。彼らが秘密を確実に漏らした、なんて証拠はどこにもないのだから。
しかし、屋敷の中をくまなく調べられたらどうにもならない。この世界の自分達も、アナウン王国の植民地に関する暴虐を調べ上げ、告発する準備を進めていたのだから。このまま屋敷を調べられたらそれははっきりしてしまう。さすがに秘密を漏らして海外に逃亡するつもりでいた一家を、王国が見逃すということはないだろう。
ならば手段はひとつ。この屋敷ごと焼き払い、全ての証拠を隠滅すること。
そしてイリーナらしき遺体が焼け跡から発見されれば。同時に、そのイリーナと懇意にしていて疑惑から逃れることが難しかったシュレインの遺体も見つかることになれば。王国の疑惑を一時的に晴らすことができるかもしれない。少なくともイリーナが生きていることを悟られるまで時間を稼ぐことはできるだろう。
シュレインと二人、アガサは屋敷中に油を撒いて回った。特に多くの資料を保管していた地下倉庫には念入りに。
『シュレイン様。……火に焼かれて死ぬのはきっと、とても辛いでしょうから。……私に最後の忠義を、果たさせていただけませんか。明らかに殺害されたとわかる遺体が出た方が、きっとコースト伯爵家への疑いも逸らしやすくなるでしょうから』
最後の仕上げとして、アガサはシュレインの心臓を刺して殺害した。
忠義を尽くしたその人の遺体を抱きかかえ、アガサは悲運に涙しながら思ったのである。
もしも、ひとつだけ願うことが許されるのであれば。自分のこの、許されない片思いなど報われなくてもいい。主に対して、忠義以上の想いを抱いてしまった自分の心など、この炎と共に灰となって燃えてしまっても構わない。
ただ。生まれ変わることができるのなら――願わくば。自分の愛した主に、愛した人と幸せに笑い合える時間を。今度はこんな形で憎まれたり、恨まれることのないように。
――だって私にとって一番の幸せは、シュレイン様が笑っていられる世界だから。シュレイン様がイリーナ様と幸せな時間を過ごせるというのなら私は……私にはもう他に何も要らないのだから。
そして、アガサの意識は。焼かれる激痛と共に、炎の中で燃え尽きていったのである。




