<24・流転>
何も知らないのは、最初から自分だけだったのだろうか。
それでも運命を自らで定めておきながら、それを強引にねじ曲げようとした罰を受けたのか。
出発まで、あと三日と迫っていたその日。イリーナは深夜に突然、叩き起こされることになるのである。
「お嬢様、起きてください!お嬢様!!」
「え……?」
基本的にイリーナは、防犯もかねて自分の部屋の窓とドアには鍵をかけて眠ることにしている。それなのに、起こされた時イリーナのベッドのすぐ横にアガサは立っていた。
――ちょ、待って?まだ外暗いんだけど?それになんで、あんたどうやって部屋の中に?あたくし、鍵かけ忘れたのかしら?
まだぼんやりと霞みがかっていた頭を強引に覚まさせたのは、思い切りドアノブあたりが破壊されている自室のドアを見たせいだった。アガサが、ドアを壊して中に入って来たのだと気づいたからである。
内側からかけたイリーナの部屋の鍵を開くには、屋敷の執事頭が管理しているマスターキーを使うしかない。裏を返せば、その鍵さえ取ってくれば主の部屋だろうと関係なく開けられるはずであったのだが――アガサはそれさえも惜しんでドアを破壊したのである。彼女の怪力ならばそれも充分可能であっただろう。
問題は。マスターキーを取ってくることさえ失念するほど、あるいはその時間さえ惜しむほど彼女が慌てているということである。
「ど、どういうことなの、アガサ」
何か、とてつもなく悪いことが起きている。何も聴く前からイリーナはそれを感じ取っていた。バタバタと走り回る音がする。遠くから罵声に近い声さえも聞こえてきてぎょっとさせられた。あれは、父の声だ。女たらしで教育に厳しいが、それでも基本的には温厚であった父のあのような声など聞いたこともない。
ざわざわと、鳩尾あたりから這い上がってくる、おぞましい予感。
「……十日後に、この国と海外に手紙を同時多発的に撒く予定でした。海外には既に検閲を通った手紙が全て到着していることが確認されているので、そちらは問題がなかったのですが」
国内の方の手紙に、問題が発生したという。
なんとアナウン王国の所業を記した手紙が数枚、郵便局で見つかって差し止められてしまったというのだ。イリーナは青ざめた。何故、としか思えない。自分達は万全を期した筈だ。差出人はデタラメな住所をランダムで書いたはずであるし、投函日も投函場所も国中にズラしたはずである。万が一を考えて、マルティウス伯爵家近くのポストには一枚も手紙を投函していない。それがまさか偶然、王国政府に見つかるなんてそんなことがありえるのだろうか。
「運が悪かったようです。……反政府組織“コオリアの牙”が最近活動を活発化させているということで……王国がその連絡手段を探るため、首都周辺の郵便物もランダムで検閲にかけていたみたいなんです。海外に出さない郵便物は、普段なら検閲にかけられることがありません。シュレイン様も知らなかったみたいです。やられました、手紙の数枚がそれに引っかかってしまったみたいです」
「そんな……!」
確かに、検閲されないのであればと国内の手紙の方は特に小細工を施さなかった。海外に出すもののみ、色が変わる紙を使うなりなんなりして届くまでけして情報が漏れないようにしていたのである。国内の手紙は、そのままの状態だった。そして一枚でも見つかれば、王国政府も血眼になって同一の手紙が他にも存在していないか探し始めるだろう。それこそ、無関係な何十万、何百万もの手紙を検閲する手間をかけたとしてもだ。
時間はかかるだろうが、そうなれば――自分達が国内に撒くつもりであった手紙全てが発見され、差し止められるのも時間の問題である。国内世論に現実を知らしめることは叶わなくなるが、それ以上に問題なのは“差出人が誰なのか”を突き止められてしまうことだ
アナウン王国が植民地で行っている人身売買や人肉販売、虐殺などの事実を知っている人間は極めて限られたものであろう。
差出人そのものを誤魔化したところで、情報源が誰であるかはすぐに突き止められてしまう。ゴドウィン・マルティウスが情報源だという確証がなかろうが、犯人であると疑われた時点で終わりと思っておくべきだ。捕まったら最後、裁判を受けさせてもらえる見込みさえないだろう。
そうなる前に、計画を前倒しにして逃げなければいけない。アガサは早口で、そう状況を説明してきた。
「お嬢様、既に荷物はあらかたまとめてありますよね?今すぐ出発します、急いで着替えてください」
「え、ええ。わかったわ、でも……」
イリーナは困惑した。今すぐ行動を起こせば、まだ自分達が逃げきれる算段はあるということだろう。それはわかる。だが。
自分達は、今屋敷に残っている召使は全員連れていくつもりだった。当然アガサもだ。それなのに何故、彼女は動きやすいメイド服でもコート姿でもなく、イリーナが持っているのによく似た黄色のドレスを身につけているのだろう。
――そうだ、そうだわ。あの服は……!
『お嬢様、もうすぐお店ですよ。私、黄色いドレスがいいと思うんです。太陽のようにキラキラした色が、お嬢様には一番よく似合うと思うので!どうですか?』
あの日、アガサは見立ててくれたもので。自分がお気に入りの、あのドレスとそっくりではないか。何故それを今、メイドのアガサが着ているのだろう。ご丁寧に、茶色の髪をアップにしてまで。
その姿は、まるで。
「あんた……何をする、つもりなの?」
思い出した。思い出して、しまった。
そうだそのドレスは、あの日。自分が悪魔と契約した日に、何故だかアガサが着ていたものと全く同じものではないか。
あの時は深く考えることなどできなかった。何故アガサが身分不相応なお姫様のようなドレスを着ているのだろう、と腹が立つばかりで。きっとシュレインに、この家を乗っ取るために買って貰ったに違いないと、そういうふうにしか思うことができなくて、でも。
「私は……私とシュレイン様は、此処に残ります」
今は、違う。
まるで自分の身代わりにでもなるようなその姿は、イリーナに現実を突きつけるのに充分だ。
「私達は、最初からそのつもりでした。……私達が、お嬢様の代わりに此処で死にます。はじめから、そういう計画だったのです」
***
「待って、待ってよ、ねえ、ねえってば!」
混乱するイリーナを強引に着替えさせ、荷物を持たせると。アガサはぐいぐいとイリーナの背を押して、玄関に向かわせようとした。いくらイリーナの方が体格が良くて近年は剣術で鍛えていたとしても、もともとの膂力が段違いである。アガサに無理やり引っ張り出されては、逆らう術などない。
廊下の途中で、シュレインがこちらに走ってくるのが見えた。何をしてる!と初めて見るような厳しい顔で彼は叫ぶ。
「ぐずぐずするな、イリーナ!急げ、時間がない。一刻も早くこの屋敷を出るんだ!」
「ちょっと待ちなさいよ、シュレイン!確かに、貴方も偽装工作に参加する予定ではあったけど、でも!あたくしの代わりにあんた達が死ぬって、それ意味がわかんないんだけど。説明してよ、ねえ!!」
「イリーナ……っ」
自分達は確かに、出発するその日にこの屋敷に放火するつもりでいた。アガサは自分達に同行し、シュレインは――火事に巻き込まれて負傷する役である。
マルティウス伯爵家が疑われた場合、当然のようにマルティウス家と交流の深かったコースト伯爵家も一定の疑惑を持たれるのはどうしようもない。だが、そんな時に“直前にマルティウス家の住人と口論をしていた”コースト伯爵家次男が怪我をしたともなれば、周囲はどのように受け取るだろうか。
彼らは、王家のためにマルティウス一家の暴走を止めようとした。次男はその結果、マルティウス一家の人間に刺されて負傷した――そう王家が解釈してくれれば、彼らの疑いを晴らすことも充分可能だろう。コースト家にまで、例の情報が伝わっている証拠がなければ。むしろ彼らは、親しい家を止めるために尽力した王家の忠臣として、迎え入れてもらうことも不可能ではないかもしれない。
だが、自分達が計画していたのはそこまでだ。
アガサがイリーナのふりをして火事に巻き込まれて死ぬなんて。
シュレインもアガサと運命を共にするつもりでいたなんて。
そんな話は――一切イリーナは聞いていない。むしろ、聞いていたなら止めなかったはずがないというのに。
「……イリーナ、俺は……ずっと考えていたんだ。このまま元の計画通り、どうにかマルティウス一族が逃げおおせることができたとしても。王家に疑いをかけられたままでは、追っ手が連邦までやってこない保証はどこにもない。情報源がマルティウス一族だと思われていることと、意図せず情報拡散に手を貸したと判断されるのとでは段違いだろう。マルティウス一族から情報は漏れたが、彼らも被害者であるかもしれない。……そう思われていた方が、ずっと都合がいいと思わないか」
混乱するイリーナの両肩に手を置いて、シュレインは言い聞かせるように告げる。
「コースト伯爵家にとってもそうだ。怪我だけであれば、偽装を疑われるかもしれない。……陰謀に巻き込まれて死んだ次男の遺体が転がり出た方が、はるかに信憑性が高くなると思わないか」
「意味がわからないわ!だから死ぬっていうの、あんた達が!?追っ手が来るとか、信憑性が高まるとか……それが何だっていうのよ!」
パン!と想像以上に大きな音がした。シュレインの手をイリーナが振り払ったためである。
「そんなの、くだんないわ……あんた達の命に比べたら!生きて、生きて生きて生きて……繋ぐ未来の重さに比べたら!!そんな簡単なこともわからないわけ、ねえ!?」
人の命は、どんな金にも名誉にも替えられない。
悪魔の言う通りだ。そのような計画など、彼らが生きて幸せになれる可能性と比べたら塵芥にも等しいではないか。
大切な人の命は、何物にも替えられない。
それをイリーナに教えてくれたのはほかでもない、目の前の彼らではないか。
「生きなさい……これは命令よ!あんた達、あたくしのために生きなさい!そうじゃなきゃ、意味なんか何もないのよ!!」
本末転倒だ。自分は彼らに生きて欲しくて、自らの命を悪魔に差し出すつもりでいたのに。
「お嬢様」
やがて。イリーナの手を、そっと握る者がいた。アガサである。
「もう、いいんです。お嬢様」
「何がよ!何がいいってのよ!」
「いいんです。だって、私達は……あの日死んでるはずだったんですから。お嬢様が悪魔と契約した、その日に。それが元々、私達の運命だったんです」
とっさに。彼女が何を言っているのか、理解できなかった。アガサの手が震えている。彼女は繰り返した――私達は覚えてるんですよ、と。
「私とシュレイン様は、覚えているんです。あの日……お嬢様を森に送り出したことも。そのあとに、何が起きたのかも。私達は、お嬢様がいなくなったすぐ後に死んでるんです。……この屋敷に、自ら火を放つことによって」
泣き出しそうなアガサの声に。イリーナは愕然として、目を見開いたのである。




