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<23・卑怯>

 かつてと同じ結末には、けしてならない。何故ならイリーナ達は、悪魔と契約した“あの日”よりも前に海外へ出発する船に乗ることになったのだから。

 出発は、タイムリミットが来る一週間前。ゴドウィンの会社の船で、一家と一部のメイド・執事達はウランベール連邦へ向かうことに決定した。

 今日から十日後に、自分達はこの国を離れることになる。ギリギリのギリギリであったが、手紙を外国に発送する作業も国内に期日指定で出す作業も殆ど終わり、あとは出発を待つばかりとなっていた。


「なんとか終わって助かったわ。もうここ数日は腕が痛かったことといったら!」

「ははは、確かに!」


 お疲れ様会、ではないけれど。片付けが始まっているマルティウスの屋敷で、イリーナはシュレインと共に話をしていた。

 大量の手紙の執筆作業は、シュレインも手伝ってくれている。なんせ、何万単位の手紙を身内だけで執筆しなければならなかったのだ。それも、発送先ごとに言語も変えなければいけないし、文面も全て同じというわけにはいかない。一部の手紙は検閲避けのために工作も必要だったわけで、二重三重の手間がかかっているのだ。信頼できる人手は、いくらあっても足らないほどだった。


「あんなに大量に手紙を書いたのなんか、本当に久しぶりよ。いえ、初めてかしらね。ウランベール語やアトラス語なんて辞書見ながら書いたから余計にしんどかったわよ。やっぱりいくら学校で勉強していても、実戦で使うとなると全然違うものね。ジャポニ語なんかあたくしにはミミズが這いずったようにしか見えないんだもの……あっちにも手紙送ると決まってどれだけ慌てたことか」

「あー、あそこは難しいものね。文字だけで三種類あって、それを上手に組合わないと全く意味が通じないから。俺も大学で第二言語で選んじゃったんだけど、最初は本当にちんぷんかんぷんで苦労したよ」

「とか言いながら、今はしっかり使いこなせてるんだから貴方は凄いわ。あたくし達だけだったら完全にお手上げだったもの」


 室内には今、イリーナとシュレインの二人しかいない。今日は一日中雨が降り続いていた。この国には、春先に長雨が続くのはよくあることである。雨季ほど雨ばかり降るわけではないし、冬からの変わり目なのでまだ少し肌寒いのも特徴だ。銀色の糸のような雨というより、霧に近い雨と言った方がいいだろう。この時期にうっかり外に出て、防寒対策が足りずに風邪を引く者は少なくない。幼い頃おてんばだったイリーナは霧雨も全くいとわずに外で遊びまわっては、すぐにお腹を壊して叱られていた記憶がある。今となっては、完全に黒歴史だが。


「手紙といえば」


 自分達が向かい合うテーブルには、クッキーの入った皿がある。イリーナが四苦八苦の末どうにかシュレインのために焼き上げたものだった。かつては炭を錬成することしかできなかったイリーナだったが、今はどうにか食べられるくらいのものが焼けるようにはなっていた。

 不思議なことだ。逆行する前の世界の自分なら絶対――シュレインは勿論、誰かのためにクッキーを焼く練習をしようだなんて、まず考えもしなかったはずだというのに。


「昔のイリーナは、凄かったね。毎日のように手紙を送ってきてくれたね、俺に。それはもう、ちょっとドン引くくらいの量を」

「う」


 自分で作ったクッキーとはいえ、自分で食べていけないという理屈はない。チョコクッキーの一枚を手にとったところでそのように話題を振られ、イリーナは言葉に詰まった。

 それもそれ、黒歴史の一つである。と、考えると自分の人生は想像以上に語ると恥ずかしい記憶が多いような気がしてならない。

 手紙を送りまくっていたこともそうだし、手紙の内容もそう。今から思うと、なんとも未熟で情けない真似をしていたものだと思う。


「俺に対する手紙もそうだけど……アガサの愚痴を散々送ってきてくれた時は、ほんとどうしようかと思ったものだよ。アガサの容姿なら君も気に入ると思っていたし、きっと仲良くやってくれると思ってたのにさ。なんでアガサが入ってすぐ、あんなに嫌われちゃったんだろうとすごく悩んだんだよ?」


 今だからこそ言える話、というものはある。なんでそんなにアガサが嫌いだったの?と遠まわしに問われているのは気づいていた。イリーナは少し目を閉じて――自己嫌悪を息と共に吐き出していた。

 さくり、と噛み締めるクッキーが随分苦い気がしている。驚いた、本当に感情次第で食べ物の味というものは変わるものらしい。さっきまで食べていたチョコクッキーは、もう少し甘いような気がしていたというのに。





『前回の手紙で話したアガサっていう不細工なメイドのことを覚えてるかしら?いくら不細工だったとしても、仕事がきちんとできるならなんの問題もないのよ。でもあの子ったら、仕事ができないだけじゃなくて性根も本当に悪いの。

 あたくしは女だけど、この家の跡取り娘であるのは間違いないわ。つまり、この家では母上よりも実質序列が高いようなもの。父上に次いで地位が高いのはあたくしなのよ。それなのに、よりにもよってあたくしの部屋で、持ってきた紅茶をブチ撒けるなんて愚行を犯してくれたわ!カーペットを弁償しろと言いたかったけれど、あの女にそんなお金がないのは知っているもの。シミが消えるまで休憩はナシ、に抑えてあげたあたくし、なんて優しいのかしら。シュレインもそうは思わない?』




 愚かなことをしていた、と今なら分かる。

 人を貶めることで、自分の品位が上がることなどけしてないというのに。むしろ、平気で人を傷つけられるような人間が、本当の意味で誰かに認められることなどないとわかっていたのに。


「……アガサは、何も悪くなかったのよ」


 入ったばかりのアガサは、何も悪いことなどしていなかった。ただ将来的に彼女が、自分から婚約者であるシュレインを寝とるものと信じ込んでいただけである。悪いことなど何もしていない、その心当たりもないのに就業直後からいじめられるようになったアガサは、どれほど悲しい思いをしたことだろう。しかもその相手を護衛するために、自分は何がなんでもやめるわけにはいかない立場というのだから尚更だ。


「ごめんなさい。貴方にもアガサにも、酷いことばかりしていたわ。思い通りにならないことだらけで、イライラしてたの。それを、あたくしは全部アガサのせいにして、八つ当たりしていただけ。……しかも、アガサとシュレインが繋がっているかもしれないと聞いて、余計な勘ぐりをして嫉妬したのよね。……二人で、あたくしを裏切るつもりなんじゃないかって」

「俺が、君の婚約者ってことになっていたから?」

「婚約者でもなんでもなかったのに、あたくしがそう信じ込んでいただけよ。お父様のやったことは今でもブン殴りたいと思うけど、そもそも誰も婚約者だなんて言ってないし契約もしてないのに……勘違いしてたあたくしが間抜けなの。そのシュレインが、アガサと何か繋がりがあるかもしれないと思ったら……馬鹿らしいことしか考えられなくなってたわ。なんでシュレインは、あたくしよりもアガサを選ぶの、って。あんな……」


 あんな見窄らしくて、不細工で、身分の低い女を――と。かつての自分が当然のように考えていたことを思い出し、イリーナは罪悪感で俯く。

 彼女は見窄らしくもないし、不細工でもないし、身分は低くとも自分にないものをたくさん持っていた。素晴らしい身体能力だけではない。どれほど不遇な目に遭ってもいつも笑顔を振りまいて、どのような仕事も一生懸命こなしていた。だからこの屋敷に雇われてすぐ、あれだけメイドの先輩達に可愛がられたのである。

 その上で、自分に冷たく当たるばかりだったイリーナのことさえ、悪口一つ言わなかった。それどころか、イリーナの努力を認めて、先輩達を諌めさえした。人格者、なんて言葉でも生ぬるい。まるで聖人のような精神だと思う。そのような娘を、何故自分は思い込みと思い上がりで追い出そうなどと画策したのだろうか。

 シュレインのこともそう。彼は最初から、イリーナを救うことだけ考えてくれていた。妹とはいえ、血の繋がりを明らかにすることさえもできない相手だというのに。


「……これでもね、あたくし自分の見た目には自信があったのよ。自分が一番美しい女と信じて疑わなかったわ。……そんなあたくしが、女として……彼女に負けることが耐えられなかったし、あっていいことだとも思ってもなかったの。滑稽な話じゃない?いくら見た目が美しくても、中身が腐っていたらどうにもならないっていうのに。そんな女が……ご都合展開で王子様に選ばれるなんてこと、現実にはないのにね」


 ああ、よく覚えている。

 アガサに奪われたと思って、激怒したのは。シュレインのことを、殺したいと思ったほど憎んだのは。殺すことで、自分のものにしてしまいたいと思えたのは。

 本当はあの瞬間まで、シュレインのことを好きだったから。好きだと思っていたのが自分だけであったなんて、認める勇気がなかったものだから。


「……たくさん手紙を送って、自分の必死さをアピールして……アガサの評判を落として。貴方の眼を、あたくしに向けさせたかったのよ」


 シュレインは、どんな気持ちで自分の手紙を読んだのだろう。

 幼い頃にどのような口約束をし、親しい関係を築いていたとしても。けして結ばれることが許されない、妹という存在だと知らされてしまった女を。


「貴方が、本当に好きだった。馬鹿みたいにね」


 イリーナは、じんわりと浮かんだ涙を誤魔化すようにクッキーを頬張った。さくり、と口の中で弾ける感触。苦味を忘れられるようにと紅茶で流し込んでも、歯にこびりつくような感覚は消えることなどない。

 好きだった、なんて過去形。自分はこうしてまた、己を偽るための嘘をつくのだ。


――本当に、とんだ喜劇よね。婚約者じゃない、妹だから絶対結婚できない。……それを知らされて、知らされた後からどんどんどんどん……この人の存在が大きくなってしまうなんて。


 けして結ばれることのない運命もまた、自分が受けるべき罰であったということなのだろうか。


「俺も」


 さあさあと、静かに降り続く雨音の中。静かに、シュレインの声が響き渡る。


「君のことが、好きだったよ。妹としてだけじゃなく、それ以外の意味でも」


 沈黙の中。ぽろり、と紅茶の中に波紋が広がる。何故今、そんなことを言うのだろう。そう思って気づいた。

 かつての自分は、きちんと彼の気持ちを聞こうとしたこともなければ、彼の気持ちを尊重しようとも考えていなかった。だからかもしれない、こうして初めて彼の本心を聴くことになったのは。

 相手の気持ちを受け取る気もなく、押し付けるばかりの相手に。一体だれが、隠しておいた本音を語ろうなどと思えるだろうか。


「だからこそ、今一番願うのは君の幸せだ。……イリーナ、幸せになるんだよ。それが、俺の隣でなくても、遠く離れた土地でも構わないから」


 十日後。自分達はこの屋敷に偽装工作を施した後この国を離れる。

 シュレインはそれに巻き込まれた被害者を装って、この国に留まることになっている。

 今生の別れは、もうすぐだ。


――馬鹿。卑怯なことばっかり、言うんじゃないわよ……今更だわ。


 しかし。

 この数日後、最悪の事態が起きることになるのである。

 この国向けに発送した例の手紙の一部が――王国に発見されてしまったのだ。


 物語の終幕は、すぐそこまで迫っていた。

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