<19・嘲笑>
『戦いにおいて大事なことの一つが、自分の得意・不得意を正確に把握しておくことです』
森の中を馬で疾走しながら、イリーナはアガサが教えてくれたことを思い出していた。
『イリーナお嬢様は大剣の扱いに四苦八苦なさってましたけど、私から言わせると初日の段階で剣を持ち上げて両手で振り下ろす動作がちゃんとできていました。女性としては充分腕力がある方ですし、振り下ろして体力消耗はしてもバランスを崩していなかったのでバランス感覚にも優れています。同時に、長らくレイピアで訓練していたのも無駄にはなっていません。敵の急所の見極め、正確に攻撃するコントロールの良さも長所だと思っていいと思います』
湖へ向かう道は、最初の分かれ道を除けばほぼ一本道である。ゆえに、迷う心配はさほどない。問題は、進めば進むほど視界が暗くなり、獣道になるということ。馬をあまり速く走らせすぎると足下が疎かになる。いくら訓練している愛馬とはいえ、獣道を何十キロもの速度で走り続けるのには限界があるのだ。足を取られたり躓くようなことがあれば骨折もありうるし、ちょっとよろめいただけでもイリーナ自身の落馬を招きかねない。疾走する馬から振り落とされるのは、それだけで大怪我をする危険性がある。ましてや、舗装されていない森の中の道なのだ。
加えて、湖に近くなればなるほど厄介なモンスターが増える。現実問題、影に入って視界が暗くなってくるのと同時に、じんわりと周辺から黒い霧が漂い始めた。イリーナは目を細める。これは、ある特定の厄介なモンスターが出てくる予兆として知られていた。
『ただ、お嬢様は脚は遅くないですが、攻撃速度はさほど速くはありません。大剣に持ち変えるともなればより、素早い連撃などは不可能になってくるでしょう。つまり、相手の姿を見てからの奇襲は元々成功率が低いと思っておくべきです。ゆえに……先手必勝ではなく、後の先を読む戦い方をした方が安全かと。どのような相手であり、どのような攻撃を仕掛けてくるタイプか見極めた上で先手を取るのです』
出現時に黒い霧を纏ってくるモンスターは、この森では三種類ほどに絞られる。だが、その三種類は全て霧の形状がやや異なる。
ぶるり、とイリーナを乗せている愛馬が体を震わせた。周辺の気温が下がっているということだ。イリーナは身を屈めて舌打ちした。冷気を纏った霧を身につけて歩みだしてくるモンスターは一種類のみ。
――フローズン・ジャイアントだわ!
森の中からゆっくりと、二体の巨人が出現した。全体的にウロコ状の黒く硬い外皮に覆われており、そのつやつやした外皮には真っ白の霜が張っている。それは巨人の体温が、生体としては有り得ないほど低いことを示していた。
『人間相手ならば体格と動きから武術の心得の見極め、服装と武器から相手の戦術の予想。モンスターや動物でも同じです。特に野生生物は、生活や戦闘を行うに最も適した形状に進化したものでしょう。つまり、その姿形を細かく観察する分析能力とそれを裏付けできる知識があれば、相手がどのような攻撃を仕掛けてくるのか予想できるはずです。あとはその攻撃をかわして、隙を見つけて攻撃する。大丈夫、今のお嬢様なら、戦術さえ間違えなければ相手を力で押すことも不可能ではありません!』
フローズン・ジャイアントは名前がついているだけあって、何度も目撃例のあるモンスターである。図鑑にも名前が載っているし、簡単な攻撃や特性も読んだことがあった。ただし、国の研究施設はまだ生体の捕獲に一体も成功していない。ゆえに、そのモンスターについて、わかっていることはさほど多くはないのである。そう、何故氷点下を下回る体温でありながら、血液が凍らないのか。他の動物と同じように活動することが可能であるのか、などの点が特に謎であるのだ。
「グオオオオオオオオオ!」
黒い巨人二体が、同時に咆哮した。二体の大きさや外見は殆ど同じものであるように見えるが、群れを作らないとされるフローズン・ジャイアントが二体一緒にいるのなら、恐らく番であるのだろう。連中は、人間には狼の遠吠えにも聞こえるその声で身内とコミュニケーションを取るのではないか?と予想されている。敵意を示す時にも、呼応するように吠えるのが特徴であるようだ、とも。
二体はどかどかと足音を立てながらこちらに向かってくる。巨人とはいえ、そのサイズは人間の大人の倍程度。他の“ジャイアント”と名のつくモンスターと比べれば、そこまで大きいというほどではない。
――問題は、その硬い外皮。そのまま剣を振っても、攻撃はまず通らない。……レイピアじゃなくて大剣に持ち替えたのは本当に正解だった、って分かる瞬間ね。レイピアで突いたら折れてたかもしれないわ。
だが、全身全てを硬い殻で覆ってしまったら、生物は一切身動きが取れなくなってしまう。関節などには当然その隙間が必要だ。特にそれが薄いとされているのは、ジャイアントの顔面。そして顎と首の隙間である。
「ウィナー、行くわよ!」
愛馬の名前を呼び、イリーナは仕掛けた。幸いにして二体の巨人の動きは速くない。イリーナは自ら愛馬を飛び降り――巨人二体の腕をかわすと同時に、飛び出した勢いのまま一体の首に大剣を滑り込ませた。
馬の速度と、イリーナの腕力と全体重が乗った一撃。それは巨人の体の脆い首に、大剣を食い込ませるには充分な一撃を持っている。すんでで気づくも回避が間に合わなかった一体が、切り飛ばされた首から真っ黒な体液を吹き上げながら崩れ落ちていった。
「ゴ、オオオオオ!」
番を殺されたことに動揺してか、もう一体の動きが止まる。地面に華麗に着地したイリーナは、嘆き悲しむ一体を見上げて告げた。
「ごめんなさいね、貴方に恨みはないけれど……あたくしは、前に進まなければいけないのよ!」
そして、大地を蹴った。
もう一体が番の後を追うのは、その直後のことである。
***
相変わらずこの湖の周辺は、陰鬱な空気が漂っている。木が鬱蒼と生い茂り薄暗いこともそうだが、地形の問題なのか土壌の問題なのか地面も草木もじっとりと湿っているのである。恐らく、太陽の光そのものが入りにくい場所なのだろう。馬から下りた途端、靴の裏にべちょりと泥が張り付く感覚がしてイリーナは顔をしかめた。
最初に此処に来た時には、帰り道のことも考えられないほど無我夢中だった。怒りで我を忘れていたと言ってもいいかもしれない。自分を裏切った婚約者と、婚約者を寝取ったであろうメイドにいかに復讐するか、それしか考えることができなかった。彼らを地獄に落としてやることができるのならば、禁忌とされているアナウンの悪魔に力を借りることも正当化されると本気で信じていたのである。
そもそもシュレインとは正式な婚約者ではなかったし、アガサがシュレインと関係を持っているなんて証拠は何処にもなかったというのに。なんとも思い込みとは恐ろしい。追い出されたと思ったあの時だってそう、彼らの話を遮らずにきちんと聞いていれば、何かがおかしいとすぐ気づくことだって不可能ではなかったはずではないか。
頭に血が上っていた自分は、都合の良い真実しか受け入れることができない状態で。
あの時は“己は婚約者とメイドに裏切られて家を追放される、可哀想なお嬢様で被害者”だとしか思うことができずにいた。それ以外にあるかもしれない真実の断片は、一片足りとも見えなかったし見る気もなかったのである。
人間とは、なんと恐ろしい生き物だろう。
他の多くの者達がそうであるように、イリーナの眼もまた曇っていたのだ。真実が知りたいと言いながら、望んでいたのは“己にとって都合の良い真実”だけであった。己が加害者かもしれない、悪かもしれない――それを認める勇気を多くの者は持てないまま、間違った道を暴走して堕ちるところまで堕ちるのである。イリーナもまた、そうなっていてもおかしくなかったのだろう。
そうならなかったのは、イリーナの心が清らかであったからでもなければ、強かったからでもない。
恵まれていたからだ――このような自分をも支えてくれる人達に。あれだけ辛く当たったにも関わらず、こんな自分を愛してくれた人達に。
――こんなあたくしのせいで、あの二人が命を落とすなんて……そんなこと、あってはならない。二人のためだけじゃない。このような愚かな失敗のツケを他人に払わせるなんて、それこそマルティウス家の名折れだわ。
「……アナウンの悪魔よ、あたくしに気づいてるでしょう?出ていらっしゃい」
生臭く生ぬるい湖の水にゆっくりと脚を浸しで歩を進めながら、イリーナは中央の石像に向かって呼びかける。あの日と同じように。
「あたくしの名前は、イリーナ・マルティウス。おまえと契約した者よ。あたくしはお前と契約して、時を遡ったわ。今日は話があって此処まで来たの、出てきて頂戴」
お願いではなく、交渉。悪魔にどこまで通用するかわからなかったが、今の自分はこれに賭けるしかないのである。
シュレインとアガサの命を救うことができるというのなら、もはや数多くの名誉さえも捨て去る覚悟がイリーナにはあった。彼らの命と比べたら、なんと価値のないものばかりであることか。
そして、それさえももし、叶わないならばその時は。
「!」
苔にまみれて薄汚れていた石像が、ゆっくりと黒く光始める。
あの時と違うのは、その光に包まれてもイリーナの意識が遠ざかることがなかったということだ。悪魔はどうやら、話をしてくれる気がないわけではないらしい。――あまり好意的な気配も、感じ取ることはできなかったけれど。
『汝、イリーナ・マルティウス。用件は何か?』
森の中に、あの時と同じ男とも女ともつかぬ声が響き渡る。不協和音のようにぐわんぐわんと耳朶を叩く、実に耳障りな声。不快感に顔をしかめながらも、イリーナは告げた。
「……契約の変更を、申し出るわ」
『変更、とは?』
「あたくしの願いに対する、対価の変更よ。シュレインとアガサの命ではなく……別のものに、対価を差し替えたいの。悪魔なら、それくらいできるでしょう?あたくしはマルティウス家の跡継ぎ。庶民達には持ち得ない多くの名誉や特別な権利を持っているし、お金もある。二人分の命を、別のもので支払うこともできると思うのだけど」
しばし、落ちる沈黙。悪魔の姿は見えず、ただ気配がするばかり。気味の悪い時間は果たして何十秒、あるいは何分続いたことであろうか。
やがて。
『ハハハ、ハハハハハハハハハハハハハ!』
ぐわんぐわんと脳髄を揺らすような、薄気味悪い嘲笑が響き渡った。
『愚か、愚か、愚か!愚かよなイリーナ・マルティウス!これだから人間は愚かというのだ、自分でした約束を、ちょっとした心変わりで覆そうとは!』
「わ、わかっているわ!自分で自分の約束を反故するなんて、そんなのはおかしいって!でも、あたくしは……!」
『大体、そこまで命というものが大切というのなら何故このような簡単なことがわからない?』
ぶわりぶわりと、石像を包む黒い光が揺れる、揺れる。悪魔の姿は見えずとも、その存在が心の底から愉快だと思って嗤っているのは火を見るよりも明らかだった。
『人間の命というものは、金で買えるものなのか?お前達人間は金で死者を蘇らせることができるというのか?できないであろう?』
絶句した。悪魔に賛同するのは癪であるが、その言葉は――どこまでも正論であったからである。
確かに、金の有無で救える命と救えない命が出る世界ではあるだろう。だが、どんな医療にも救えない難病や、既に死んでしまった人間の命を大金で取り戻すことなどできるだろうか?命とは、本当の意味で金や名誉でどうにかなるものだったのか?
答えは、NOだ。
『人の命は、金と引き換えになどできない。何故そのような子供でもわかる理屈が、お前達は何年、何十年と生きてわからないのであろうな』
「あ、ああ……」
ぐらり、と視界が揺れた。スボンが汚れた水で濡れることも厭わず、イリーナはそのまま湖の浅瀬に尻餅をすいていた。
交渉が成立しない可能性を、考えていなかったわけではない。それでも、足下から何かが、ガラガラと崩れていく感覚を止めることができなかったのである。
『命の重さは同じ。……我は心優しい悪魔よ。二人分の命を、お前の命と引き換えに救ってやってもいいと最初に言っただろう?』
ハハハ、ハハハハハ、と悪魔の嘲笑が森の中でぐるぐると回る、回る。
どのような金も、名誉も、権利も。命の重さに、換えることなどできない。できるはずもない。まったくもってその通りだ。それほどまでに重いものなのだ、命というものは。
何故自分はそんなことさえわからず、怒りと憎しみにかられてこのような契約をしてしまったのだろう。
本当に見るべき真実すら、見ようとはせずに。
『イリーナ・マルティウス。タイムリミットまでの半年……よく考えるがいい。シュレインとアガサの命か。自身の命か。選択肢があるだけ、汝はまだ恵まれているのだ』