<18・幸福>
馬上で安定して大剣を振るい、猟銃を使っても安定して的に当てられるようになるまで――イリーナはかなりの月日を要した。結果、森の入口に何度も足を運び、出口付近のモンスターを討伐して帰って来られるようになるレベルに至った頃には、既にタイムリミットまで約半年と迫っていたのである。間に合ったのは奇跡と呼んで良かった。それほどまでに、必要なだけの身体能力と戦闘技術を学ぶのは苦難の連続であったのである。
イリーナが大学生という身分でなければ、あるいは令嬢として出なければ行けない社交界などの用事がもう少し少なければ。極論を言えば、少ない訓練日時であっても技術を効率的に身につけることができるほどの才能があれば、きっと話はもう少し違っていたことだろう。
だがそもそもイリーナは、自分が天才であると思ったことは一度もないのである。天才であるように見せかけなければいけない凡才。常に奢っていたのは、自分がそれを成し遂げることができると思い込んでいたというのもある。己が人より生まれついて優れているのは身分と容姿のみ――正直なところ、本心ではイリーナ自身もそれをよくわかっていたのだ。
抜群の手腕で、祖父にも劣らぬ交渉術を見せ、貿易商を経営する父。
社交界ではその素晴らしいコミュニケーション能力を駆使して、上に横にとコネクションを広げて情報を入手できる母。
一人娘だからといって、比較する対象がないわけではない。自分は、彼らのほどのものを持っていないのではないか、彼らの期待に応えられない人間なのではないか――そんな風にどこかで思い続けていたのも事実だった。才能がないと思われてしまうことが怖い。そうならないためには、見えないところで人一倍努力するしかない。
だからこそ、だろう。
『マルティウス伯爵家は、アナウン王国でも有数の名家。伯爵という地位ではありますが歴史は本当に古いですし、一部公爵の方からも一目置かれていると知っております。ゴドウィン様の素晴らしい手腕を頼って、独自の貿易ルートを任せる上の方々も少なくないのだとか。……そのような家でなら、本来何人もの後継を作り、今後の存続を安定させたかったことでしょう。しかし残念ながら伯爵と奥様との間にはイリーナ様お一人しか生まれませんでした。たった一人の跡取り娘、イリーナ様が受けた教育の厳しさとプレッシャーは、私達ではとても想像ができないものだと思います』
嫌いであるはずのアガサに、その誰にも認められなかった努力を認められた時、涙が溢れるほど嬉しいと思ってしまったのは。
『お嬢様の訓練風景を何度も見ましたけれど、凄まじいものがありました。お嬢様、必ず訓練の時間には遅刻せずに庭にやってきて稽古をなさっているんです。いくらお嬢様が幼くして鍛えているとはいっても、女性の体力では毎日きつくてたまらないでしょうに、泣き言一つ言わない。この方は、マルティウス伯爵家の後継としての役目を立派に果たそうとしているのだと確信しました。あれだけ、家のために努力できる方が……本当に悪い方であるはずがありません。デーブルマナーも、毎日見ていますが惚れ惚れするほど美しいですし、いつもしゃんと背を伸ばして歩いてらっしゃる。厳しい教育をすべて乗り越えてきた、まさにご令嬢の鑑とも言えるお方ですよ』
本当に、誰かにわかってほしかったのは、努力だった。
誰かに頑張っていると認めて欲しかった。自分がやっていることが無駄ではないと背中を押して欲しかったのだ。
ずっと独りで、誰にも弱みを見せることもできずに生きてきたイリーナであったから。
「お、お、おかしいわ……」
森へ出発する前日。イリーナはバスケットの中身を見て茫然と佇んでいた。キッチンの異変を感じて、遊びに来ていたシュレインと手伝いをしてくれたアガサが手元を覗き込んでくる。
イリーナのバスケットの中には、真っ黒な炭になった謎の物体が。
「あ、あたくしはクッキーを焼こうとしましたのよ?こんな、ダークマター的な何かを錬成するつもりは全くなかったのですけど……」
「な、なるほど、イリーナ様は炭の錬金術師だったわけですね!流石です!」
「アガサアガサ、それフォローになってないどころか、イリーナにトドメ刺してるぞ」
「え!?」
「おうふ……」
アガサの善意100%の言葉に、イリーナは見事に撃沈する。令嬢である自分は基本料理を自分でする必要はないのだが、それはそれ。彼らに日頃のお礼も兼ねて、クッキーを焼いてみようと思ったまではいい。メイド頭のミレーユにこっそり作り方を聞いて、これなら自分にもできそうだと思ったところもまあいいとしよう。
何故、言われた通りに作ったつもりなのに、こんなに真っ黒に焦げてしまったのか。バニラの生地と中に入れたレーズンが、どれがどれなのかもわからないほど黒一色に染まっている。鼻をつく刺激臭に、涙が零れそうだ。
――きちんと火が通ってない気がしてちょっとだけオーブンの火を強くしすぎたのがいけなかったの?それとも念には念をと思って焼き時間を一時間伸ばしたのがダメだったの?それとも二人共甘いものが好きだから、砂糖の量を二倍にしようと思ったのがいけなかったの???
その実情をミレーユが知ったら、真顔で“全部アウトですお嬢様”と言うどころだろうが、当然そのようなことをイリーナが知るはずもない。
「これじゃあ、食べたらお腹を壊してしまいますわ……うう、こんなはずじゃなかったのに」
本気で落ち込むイリーナの背を、シュレインがぽんぽんと撫でてくれた。
「誰でも失敗はあるって。気にする必要はないよ。むしろ最初からうまくできたら、教えてくれたミレーユも立場がないんじゃないかな。自分達の仕事がお嬢様に取られてしまう!って今頃大わらわになってるだろうさ」
「そうですよ、お嬢様。初めて此処に来た日に、うっかりオーブンを爆発させた私よりずっといいです!」
「え、爆発!?そういえばアガサが来てすぐになんかオーブン壊れたとか大騒ぎになってたけどあれあんたのせいだったのー!?」
今更出てくる新事実。爆発もそうだが、何故かオーブンの取っ手が曲がって使い物にならなくなったとかおかしなところの壁が凹んだとか珍事件が頻発したのだが、あれもアガサのせいだったのだろうか。嫌がらせをしていたイリーナでさえ、華奢なアガサがそこまで怪力を発揮したとは思ってなかったのだが。
わいのわいのと騒ぎながら続く、元婚約者である異母兄と、元恋敵であるはずのメイドとの日常。
永遠に続かないとわかってはいても、その日々はとうに、イリーナにとってかけがえのないものになりつつあったのである。
***
森の入口で訓練をしてくる、と。いつも通りの用事を装って、イリーナは朝早くから家を出ようとしていた。いつもと違うことは、今日はお付の者を一人もつけていないということ。こっそり一人で訓練したいから、とアガサにだけ伝えてあるということである。
悪魔の湖まで行くなどと言ったら、反対されるに決まっている。
森の入口で一人で訓練をするというだけでも渋い顔をされるのは明白だった。アガサにも当然嫌な顔をされると思いきや、彼女は何故か一切止めることなく、イリーナにこう告げたのである。
「イリーナ様。実は、私とシュレイン様で、イリーナ様のお誕生日のサプライズを計画してるんです」
彼女は、イリーナが悪魔と契約して逆行してきたことなど知らないはずである。それでも、何かを感じ取ったのかもしれない。少しこわばった表情で、それでもイリーナを安心させようとするかのように笑みを浮かべてみせたのだった。
「本当は、サプライズそのものを秘密にするつもりでしたし……その詳しい内容はまだ言えませんけど。そういうわけですから……その企画が台無しになってしまっては淋しいんですよね」
「あら、何が言いたいのかしら」
「絶対、無事に帰ってきてください。お嬢様に何かあったら、私もシュレイン様もご家族も悲しみます。他のメイドの皆さんもですよ」
アガサとの仲が改善してから、不思議とイリーナは他のメイド達との関係も変化していったのだった。まあ、理由はなんとなくわかる。メイド達がイリーナに反発していた原因の一つであるアガサのせいでもあるだろうし、同時にイリーナの方が認識を改めたというのもあるだろう。
メイド達のことを、心のどこかでずっと労働階級の下っ端どもと蔑んでいた。
自分のような高貴な人間に仕えられるだけ、それで給料が貰えるだけ有難いと思え、と。そのように冷たくあしらわれ、見下される人間がどのような思いをするのか、かつての自分は一切想像できていなかったためである。
今は。今のイリーナは、自分が傷つけた相手の苦しみを、かつてのように見なかったことにはできない。
ほんの少しだけ、感謝を口にする数が増え。間違っていると思った時は謝罪を言うようにした。最初はそれだけだったが、それだけのことが大きな変化に繋がったのも事実だろう。
少なくとも現在は、メイド達からイリーナの悪口らしきものを聴くことはない。掌を返しやがってなどとは思わなかった。悪いのが自分の方であったということを、今のイリーナは正しく認識しているのだから。
「……あたくしを誰だと思ってるの?心配ご無用よ」
令嬢と、メイド。
しかしイリーナにとっては恐らく生まれて初めてできた――本当の友達。
「ありがとう、アガサ。……楽しみにしているわ」
彼女とシュレインを、死なせない。自分の不始末を、これでようやくつけに行くことができる。
イリーナは意を決して、北の森に出発したのである。湖の悪魔と交渉し、新たな未来を導くために。




