<17・大嵐>
基本的に、人間の足はモンスター達よりも遅い。普通に走って大型のモンスター達から逃げようとしても、追いつかれて食われるのが関の山である。しかし、ガソリンで動くような自動車はまだ特権階級の中でも王族・上級貴族だけが扱うことを許された代物だ。なんせとにかく高価と来ている。馬より足は速いが、凸凹の山道で走れるようにもまだできていない。つまり、大型のモンスター達を躱して逃げたり、あるいは彼らのスピードに対応しながら勝負するためには、馬上で敵と戦う訓練が必要不可欠になってくるのである。
馬術の訓練は幼い頃からやってきているイリーナであったが、当然馬の上で大剣を抜いて戦うような訓練はしたことがない。大剣そのものを扱ったのが最近であるというのもあるし、そもそも馬に乗る時は基本的に“逃げる時”だと教わっていたからである。馬を乗りこなしながら銃で撃つ訓練は多少行っていたが、こちらもまだまだ未熟であるという自覚がイリーナにはあった。つまり、自分はまだ馬に乗った状態でモンスターと戦えるほどの腕前ではないのである。
――時間がない。とにかく早く、馬上から的確に攻撃できるようにならなくちゃ……!
「お、お嬢様!無茶ですよ、今日は嵐ですよ!?訓練は中止にしましょうよ!」
「何言ってるの、一週間にそう何度も訓練日はないのよ。今日中止にしたら次に訓練できるの三日後じゃないの」
「で、でも」
「それに、いざ敵が襲って来た時、外が嵐ではない保証なんかないの。いつもいつでも天気が安定している時だけ襲撃してくれるほど、刺客って優しいものかしら?違うでしょう?」
アガサは必死で止めてきたが、イリーナは聴く耳を貸さなかった。付き合わせる愛馬には申し訳ないが、やっと地上で大剣が振れるようになってきたのである。この感覚を忘れたくない。同時に、天候が悪い日にも正確に敵を捉える訓練をしておきたいという気持ちもある。
悪魔と契約した日が、どんどん近づいている。
休んでいる暇はない。王国と皇国の刺客だって、いつやって来るかわからないのである。今のところ襲撃らしい襲撃はないが、それもいつまで続くかわかったものではない。
「お嬢様……」
「アガサ、あんたが止めてもあたくしはやるわ。……安心しなさい、あんたはちゃんと止めたって、お父様とお母様には言うから」
無茶を承知で、イリーナは嵐の下へと歩き出した。玄関を一歩出た途端、凄まじい雨が顔面に打ち付ける。一応レインコートは着ているが、これでは殆ど意味を成さないかもしれない。かといって、傘を差せるような天候でもないのは一目瞭然である。レインコートのフードは手を離したらすぐ外れてしまうだろう。ばたばたと濡れた前髪が顔にあたるのが気持ち悪い。重たいと感じるほどの突風が吹き付ける中、歯を食いしばってイリーナは足に力を込める。
この程度、恐怖でも脅威でも何でもない。
一番恐ろしいのは、これ以上後悔することだった。やるべきことをやらずして後悔するくらいなら、やるべきことを死ぬほどやっていたらなかった方がまだマシである。
『はははっ……なんてザマなの、傑作だわ。こんな、こんな喜劇ってある、ねえ……!?』
あの時と同じ涙は、もう流さない。
自分の罪は、自分で贖う。アガサとシュレインの命を、悪魔などに捧げさせたりなどしない。するものか。命の恩人を差し出して、何が伝統あるマルティウス家の跡継ぎか。
「せいやっ!」
馬に飛び乗り、手綱を握った。マルティウス家の馬には白いものが多い。白は、我が一族のイメージカラーと言っても良かった。残念ながら現代の当主はよその伯爵夫人と浮気をする馬鹿者で、その娘は思い上がって恩人を傷つけようとした愚か者であるけれど。清廉潔白であれと教えたそのイメージとは、あまりにも程遠いものがあるけれど。
「走って!」
遠くでアガサの声が微かに聞こえた気がした。ざあざあと降り注ぐ雨と凄まじい風に負けて、何を言っているのかは殆ど聞こえなかったけれど。
イリーナは白馬を駆け、まっすぐ人形達が立ち並ぶ訓練場に躍り出た。不安定な馬の上で大剣を抜くのはそれだけで体力を消耗する。思わずずり落ちそうになってあわれて手綱にしがみついた。地上で持っている時も充分重かったが、馬の上ではバランスが悪い上片手で振らなければいけない。想像していた以上にきつかった。それでも左手でしっかり手綱を握り、右手に剣を構えイリーナは一体の人形に狙いを定める。
訓練場の人形には、木製のものと枯れ草を編んで作ったものがある。当然、前者の方が硬い。まだ慣れていないうちは、柔らかい草を編んで作った人形のの方を標的にするのがセオリーだった。腕への負担も少なく、当然斬りやすいからである。勿論枯れ草人形は柔らかい反面、斬り方を失敗すれば武器に絡んでしまうという別の難点もあるのだけれど。
――まずい、走りながら……ブレる!
馬の走る速度とそのまま剣戟の威力に乗せて、一気に一刀両断する――つもりだった。しかし柔らかいはずの枯れ草に思い切り剣を取られ、絡め取られてしまう結果となる。このままでは落馬する、と咄嗟にイリーナは大剣を離した。ちぎれかけた人形に半分絡まった状態で落下する大剣、どうにかふらつきながらも馬を止めることに成功する。
落ちずに済んだが、人形を斬れずに剣を手放してしまうなど。これでは本番で全く使い物にならない。しかも。
――ほんの数メートル離れただけで、全然視界がきかない……!
周囲が真っ白になるほどの雨と風。すぐに馬を止めたのに、切りかけた人形と大剣からさほど離れていないはずなのに。まるで霧にうもれたかのように、その存在がぼやけてしまっている。これが天気の力。このような状況でモンスターや刺客に奇襲されたら、人間などまずひとたまりもないだろう。
裏を返せば。このような天候でも問題なく戦えるようになれば、それが充分武器になるはずである。イリーナはため息を一つつくと、馬に待っているように指示を出して地面に降り立った。レインコートを貫通し、下のジャージから下着まで既にぐっしょり濡れている状態である。歩くだけで体が重い。まだ訓練は始めたばっかりだというのに。
――この重さにも、慣れなくっちゃ。森へ行くと決めたその日に、嵐や竜巻が来ない保証が何処にあるの?
大剣を拾い上げ、イリーナは再び馬に飛び乗った。
もう一度だ。成功するまで、何度だって挑戦してみせる。大切なものを奪わせないと、そう自分自身に誓いを立てたのだから。
***
イリーナが無茶をする理由が痛いほどわかっているだけに、アガサには強く止めることができなかった。なんせ彼女はまだ知らないことがある。自分とシュレインが――彼女が何をしてこの“世界”に戻ってきた存在であるのか、それを知っているという事実を。
彼女が頑張るのは、己のためではない。他ならぬ、アガサとシュレインを守るためなのだ。
――そんなに、頑張らなくていいんですよ……お嬢様。
ぎゅっと唇を噛み締めながらも――アガサは同じく玄関を出て歩き出した。レインコートは着ていないので即座にずぶ濡れになるが、関係ない。泣きそうな気持ちと、冷え切った気持ちが共存している。自分には、やるべきことがある。
――だって。元はといえば……悪いのは私達なんです。お嬢様が繊細な方だとわかっていながら、傷つけた。誤解させてしまった。お嬢様が本気でシュレイン様のことを好きでいると知っていながら、私は……。
段々と早足になる。屋敷をぐるりと囲む柵に、不自然に寄りかかるようにしている茶色のレインコートの人物。その先からは小さく、双眼鏡の先端が覗いている。
見ているものは他でもない、イリーナだ。
「ちっ……酷い嵐だ、全然よく見えないぜ」
「何が見えないんですか?」
「!?」
男がぎょっとして振り返った瞬間、アガサは彼を思い切り投げ飛ばしていた。石畳の地面に背中から叩きつけられた男が鋭いうめき声を上げる。もろに背骨にダメージが行くように投げた。折れたり傷ついたりはしていないだろうが、暫くは痛みで動けないはずである。男がどうにかもがくところ、アガサは馬乗りになった。
袖口から取り出した仕込みナイフを首筋に当ててやると、ひっ、と小さく悲鳴を上げる男。
「な、な、なんだ、テメェ」
「質問に答えてください。何を見ていたんです?貴方、どこのどちら様ですか?」
「――っ」
「答えたくないならそれでもいいですよ。教えてくださるまで、適当に……切り刻みますから」
「ぎっ」
ぎああああ!と男が上げた悲鳴は、大粒の雨音にかき消されてさほど響くことはなかった。実に有難いことである。この雨であるから通行人も少ないし、憲兵も見回ってはいないだろう。こんな光景を見られたら、いくらこちらの正当防衛を主張してもややこしいことになるのは目に見えている。
手の甲をナイフで抉られた男がもがくのを見つつ、アガサはこれみよがしに血濡れのナイフを振ってみせた。ぺろり、と刃を舐めるような仕草をして嗤ってやれば、みるみる青くなっていく男の顔色。なんともわかりやすい。
「次はそうですね、指を一本ずつ切り落とすというのはどうでしょう?きっと、想像以上に楽しい思いができると思うんです。此処、お屋敷の裏手ですし……今日はごらんの通りの嵐。叫んでも声はそうそう届かない、だーれも貴方を助けに来てはくれません。……さて、どうしますか?お好きなコースを選ばせてあげますよ」
「ひ、ひいいい……!」
このようなこと、楽しんでやっているはずがない。それでもアガサは、己に課せられた役目を忠実に演じるのである。
汚いものや恐ろしいものは、自分が全て担う。自分はシュレインの剣であり、イリーナの盾。怖いものから彼らを守るのは、自分の役目だ。
「あら、強情ですね。それじゃあ、まずは左手の小指から……」
「ま、待ってくれ、待ってくれええ!言うから、言うからあ!」
男の小指にナイフを押し当てて食い込ませると、すぐに泣き叫ぶ声が上がった。全く、本気で何かを守る覚悟もないくせに、金だけ貰って誰かを傷つけようなんて馬鹿げた話である。そんな連中に、自分はけして負けるわけにはいかないのだ。
――時間がない。早く、早くお嬢様の、マルティウス伯爵家の安全を確保する準備をしなければ……!
タイムリミットは、刻一刻と迫っている。




