<16・真剣>
女性の体力と腕力で、大きな剣を振り回し続けることは容易ではない。
それどころかそれをずっと帯刀して走り回るだけでも体力を消耗するはずだ。イリーナが扱うなら軽量の猟銃とレイピアだけ、と当初考えていた彼女の両親はけして間違ってはいないのである。
それでもアガサがイリーナに大剣の扱いを教えることに決めたのは、基礎体力を鍛えておくにはこしたことはないからということ。重い大剣を扱うのに慣れてしまえば、軽い武器でも大きな威力を出せるし、素手の格闘技術の向上にも繋がると考えたからである。
これから先、イリーナを守るのは自分やマルティウス伯爵家に雇われた傭兵の仕事ではあるが、それでも万が一自分達がいない時に彼女が襲撃される可能性もないわけではないのである。そんな時、彼女が自分で自分の身を守ることができなければどうしようもない。ましてや――彼女は森に一人で行こうとしていることを知っているなら尚更である。
あの森のモンスターの中には、鋼のように硬い甲殻を持つモンスターもいる。レイピアと猟銃だけで太刀打ちすることは難しいはずだ。
「21……22……23……っ!」
訓練を始めて一ヶ月。元々彼女が人一倍努力家であることをアガサは知っている。同時にイリーナは、一度認めた相手には極めて従順だった。アガサの指示に殆ど文句も言わずに従い、訓練を続けている。プライドも高いだろうに、少し前にシュレインが様子を見に来た時は、彼にも頭を下げて謝罪と礼を言っていた。彼は本気で心当たりがない、という振る舞いをしてはいたけれど。
汗だくになりながら、訓練用のシャツとズボンを着て一心不乱に剣を振るイリーナ。彼女は森に行こうとしていることを秘密にしているつもりだから、尚更訓練にも熱が入るのだろう。自分の身を自分だけで守れる強さが要る。今の彼女には守りたいものがあるだろうから、尚更そう願っているはずだ。
――本当に、神様も残酷なことをする。……イリーナ様はこんなに頑張ってらっしゃるのに、いつだってその前には無慈悲なほど高い壁が聳え立つのだから。
悪魔がいるという伝説があるあの湖。湖へたどり着くまでの森の道が、歴戦の兵士であっても苦労すると言われる最大の理由は、あの森にいるものの殆どが“モンスター”であるからだ。
この世界には、動物と呼ばれるものと、モンスターと呼ばれるものが両方存在している。
その最大の区別は、生態系の研究・解明が一定以上進んでいるかどうか、だ。
例えばヘビの多くは、毒や鋭い牙を持っているので非常に危険ではある。南の山脈にいるイニグロニシキヘビ。あれは一度噛まれたらとにかく相手を絶命するまで何が何でも離さないことで有名で、しかも相手が暴れている間に牙から強力な毒を注入することでも知られている厄介な種だ。噛まれた人間は痛みとパニックで暴れることで余計毒が回りやすくなり、死に至る危険が強まる。そして毒によって瀕死になった獲物の肉を、そのまま貪り食うのである。子供の腕ほどの太さと長さしかない蛇だというのに、非常に食欲旺盛でその気になれば大人一人を半日でぺろりと食べきってしまうというのだから恐ろしい。
しかし、イニグロニシキヘビはあくまで“動物”に分類されている。理由は、そういった毒があることを皆がよく知っており、血清が見つかっていること。対処法も確立されているからである。
イニグロニシキヘビが大量に生息するエリアを通る者は、まず予め予防薬を打っていくことで毒の効果を最大限薄めることができる。噛まれても予防薬が効いているうちは、毒の効果が薄いため痛みも麻痺も半分以下で済むのだ。勿論牙が鋭いことに変わりはないが、噛まれた場合はその場で派手に動くことをせず、蛇の頭を即座に切断することで毒の影響を最小限にすることができるのである。あのヘビは毒も牙も恐ろしい反面、外皮は非常に柔らかく、内臓も脆い。人間の女性の素手であっても、落ち着いてさえいれば縊り殺すことが不可能ではないのである。
あとは牙が折れないように抜いた後で、即座に止血し、落ち着いて山を下山して血清を打って貰えば間に合う。あの蛇が生息している近隣の街には、必ず血清を一定以上常備するよう義務付けられているからまずそれで助かるのだ。このヘビの対策がきちんと取れるようになってからというもの、イニグロニシキヘビによる死者数は毎年減少傾向にある。動物、に分類されてからは毎年数名死人が出るくらいになったはずだ。
だが、“モンスター”は違う。
外皮が固くて倒しづらかったり、毒が強烈すぎて捕獲が困難であったり。それゆえ捕獲して研究が進められない生物は、人間が相対した時の明確な対処法が確立されていない。倒す方法がないわけではなくとも、安定して退けることができないと言えばいいだろうか。結果、そういった生き物は動物とは別の“モンスター”という括りで呼ばれて、体の弱い女子供はモンスターが多いエリアにはけして近づかないようにと厳命されるのだ。
アナウン王国最北部の森が難所とされるのは、つまりそういうことである。対処法が確立されていない“モンスター”ばかりが生息し、生半可な覚悟では足を踏み入れることもままならない。かつてイリーナが踏み込んで無事で済んだことは、正直奇跡であったとしか言い様がないのである。
――まあ、私も訓練と商売ために何度かあそこに足を踏み入れたことがありましたけど。
人の手が及びにくいというだけあって、資源が豊富であることは間違いない。特に北の森の日の当たらないエリアには、世界最高の美食とされるウタキノコの群生地がある。どうしてもお金が足らなくて困る時は、アガサはこっそり森まで入ってキノコを採集し、売り払うことで財源にしていた。あの近隣は特に面倒なコウモリ系モンスターが生息しているので、できればやめてほしいと両親にも苦言を呈されてきたものであるけれど。
湖へ近づくために最大の壁となるものの一つが、泉のすぐ傍がオックス・ヌーの群れの縄張りであるということか。オックス・ヌーは牛の仲間に見える外見であるにもかかわらず雑食であり、草木も食べれば肉も食べる獰猛な動物である。最大のものは、四輪馬車と同じほどのサイズにもなる。それが角を振りかざして凄まじい勢いで突進してくるため非常に危険なのだ。そのエネルギーは馬車に跳ね飛ばされる数倍にも上る。下手をすれば木や岩に挟まれてミンチになってしまうこともあるそうだ。
毒はないが、その角による突進と、外皮の硬さが非常に厄介なのである。あれを倒すのは猟銃やレイピアでは難しいだろう。大剣でジャンプ切りして、一気に首を切り落とす他ない。
そのためには、大剣を振り上げるのみならず、素早く振り回せるスピードも要求されうことになる。本来ならば、女性ではかなり荷が重い相手であるはずだ。多分、以前彼女が森に入った時には、幸運にも遭遇せずに済んだということなのだろう。
――でも、次はそうはいかないかもしれない。一人でオックス・ヌーや多くのモンスター達を倒せるくらいの力を身につけないと、お嬢様はきっと無事では済まない……!
故に、アガサは心を鬼にして彼女の訓練に付き合うのである。全ては、イリーナに少しでも長生きしてもらうために。
「50っ……はあああ!」
大剣の素振り五十回を終え、イリーナがその場に倒れ込んだ。芝生の草が髪の毛につくのも、土で汚れるのも全くおかまいなし――気にする余裕もないようである。
「お疲れ様です、お嬢様」
そんな彼女にお手製ドリンクを渡しながら、アガサはにこやかに告げるのだ。
「十分休憩したら、次はランニングです。邸内を今日は二十周しましょうか。十五周走るのにもかなり慣れてきたみたいですし」
「……あんたも、鬼ね」
「すみません。でも、その鬼の指導を選ばれたのはお嬢様です。生き残るために必要だとわかってらっしゃる、そうでしょう?」
「……まあね」
己の権力と美貌を絶対のものとして溺れ、思い込みで暴走し、人を傷つけることに良心が痛まなかった女性はもういない。シュレインのおかげだ、とアガサは思う。イリーナは変わった。これからも変わろうとしている。自分自身がすべきことが何なのか、漸く気づいたということだろう。
この国の歪みを正すだけの力を、自分達は持っていない。それだけの正義感があるというわけではない。だが、この国の闇を晴らすことが愛する者達を救うことになるというのなら、自分は。
――王国も皇国も、このまま膠着状態を保っているとは思えない。恐らく皇国が先に動き出し、お嬢様の命を狙ってくるはず。そして皇国が動いたともなれば、王国もお父上の口封じを急ごうと考えることでしょう。
イリーナの訓練を急ぐと同時に、彼女の身の安全を長い目で見て確保する方法を考えなければいけないのが自分達である。
本来ならば親戚でもなんでもない(実際は血がつながていても、表向き妹だなんてことは公開できない立場である)シュレインがここまで頭を悩ませる義理はないのかもしれなかった。そのシュレインに雇われているアガサもだ。しかしあの優しい自分の主は、イリーナを守るためには命さえも捧げる覚悟を決めてしまっている。ならばそれに付き従うのが自分であるし、何よりアガサ自身イリーナにすっかり情が移ってしまっているのも事実なのである。
自分達がイリーナを助けようとしているのは、ただの自己満足でエゴなのかもしれなかった。
それでも貫き通したいと思うのは。彼女が幸せになってくれることが、自分達の幸せに繋がるからに他ならない。
――イリーナ様のお父上も、恐ろしい秘密を抱え続けることに疲弊してらっしゃる。……ならば。
秘密を守ることを条件に王国と交渉することは無意味。
秘密をバラすことを条件に、皇国に保護を求めても信用ならない。
とするならば。どこから秘密が漏れたか明確にならない状況を作り、同時多発的に秘密をリークした後に第三国に逃亡できる体制を整えるしかないだろう。秘密をめぐって狙われるというのならば、秘密が秘密でなくなってしまえ意味をなさなくなるということである。王国はバルチカ共和国のネタをリークした人間を血眼になって探し出し、報復処置を考えるかもしれないが、それでも事後処理に追われて後手後手になれば手がまわらなくなる可能性は充分にある。少なくとも皇国が秘密を握る人間を探し当てて拉致するメリットは失われるに違いない。
ならば自分とシュレインがするべきことは、イリーナを鍛える事以外にあと二つ。
イリーナが安全に逃げることができる逃亡ルートを確保することと、多くのメディアが全く同時に国の秘密を流してくれるように、バレないように手を回すこと。国の重大な機密であるがゆえ、そう簡単にはメディア各社も協力して貰えないに違いない。交渉には時間がかかりそうだ。同時に、海外メディアにも協力を取り付けなければならない。これは、イリーナの父のコネクションが必要不可欠となってkるうだろう。
――やれることは全てやらなければ。……あのXデーが来てしまう前に。
アガサは唇を噛み締める。
イリーナにはけして言うことのできない、後悔が自分にもある。
けして繰り返させてはいけないのだ。――彼女を独りぼっちで、森の中へ逃がすような結末など。