<14・真実>
何もかもに、納得できたわけではない。
自分は選ばれし貴族であり、庶民のことなど慮るべき存在ではない。そのような認識は正直今でもあるし、そう簡単に覆せるようなものでもないのである。
それでもイリーナは、もう知らなかった頃の自分には戻れないことを知っていた。
父に恐ろしい話を聞き、シュレインの考えを聞き、それから何とはなしに馬車の中から人々の生活を眺めるようになり。自分が今まで見ようとしていなかった多くのものに気づくようになってしまったら、もう。
――明日、自分が死ぬかもしれない。そんなこと考えたこともなかった。お父様の馬術のしごきで死にそう、とかって思ったことがないわけじゃないけど。
貴族ではないせいで。
生まれついて、低い身分であったせいで。
本人にはどうしようもないそんな理由で、明日どころか今日を生き抜けるかどうかも怪しい人々がいる。華やかな街の、少し静かなエリアに行けば自ずとそれらは目についた。大きな道の影、少し路地に入った場所で隠れるように座り込んでいる人々。イリーナがずっと“怠慢で施しを待ってるだけなんだろう”と決めてかかっていたような老人達は手足がやせ細り、とても真っ当な仕事ができる状況には思えなかった。
勿論、世間の仕事というものは何も力仕事だけではない。事務仕事もあるし、そこまで負担の大きくない接客の仕事もあるだろう。だが、それができるのはある程度の“スキル”を持ち合わせた者だけ。文字が読めない人間にどうして書類の整理や資料の作成が任せられるだろう。毎日風呂に入れない人間をどうすれば接客の場で、人前に立たせることができるというのか。
文字が読めるのは、子供の頃にきちんと学校に行けたか、家庭教師に教えてもらえる環境にあったから。
清潔な体を保ち、毎日服を替えられるのは。毎日当たり前のように風呂に入ることができ、替えられる服とお金があるから。
勿論一言で言っても庶民と言えばピンキリで、ほとんど貴族と変わらない生活ができているような中流階級の者もいるだろう。だが、ギリギリ労働階級に引っかかっているような者や、それこそ階級外の人間はその限りではないのである。
この国は最初から平等では、ない。
何故なら自分達貴族のように恵まれた側の人間は、その不平等さに目を向けることなどないから気づかないのだ。自分達さえなんとかなっているのなら、他はどうでもいい。貴族という選ばれた階級である自分達が優遇されるのは、至極当然のことであるから、と。
『人に与えた痛みは、必ず自分に返ってくるものなんだよ。復讐だとかそういうものじゃない。人を傷つけ、踏みにじった者には必ずその報いがやってくる。悪意があったか、なかったかなんて関係ないんだ。だって傷つけられた人間には、傷つけられた事実が全てだろう?その加害者に悪意があったかなかったかなんて、傷の前にはなんら関係のないことじゃないか』
だからね、と。シュレインは帰り際に、そんなことを言ったのだった。
『自分が傷つけられたり、苦しめられたくないのなら。誰かにそういうことをしてはいけないんだ。逆に自分が誰かに愛されたいのなら、精一杯誰かを愛せばいい。そうするれば必ず、その愛もまた返ってくる。誰かを一生懸命愛することが、最後にはちゃんと自分のことも幸せにしてくれるんだ。……俺も同じさ、とんだエゴイストだ。自分が幸せになりたいから、いろんな人を幸せにしたいんだよ。大切な人達の笑顔を見ているだけで、俺はとっても胸の奥が温かくなるんだ』
自分は、アガサのことのみならず。シュレインのことさえも、ちゃんと知ろうとはしていなかったのかもしれない。彼が何故自分のところにアガサを送り込んだのか、そして婚約者になれない立場でありながら舞い上がっているイリーナに対してどれほど歯がゆい気持ちを抱いていたのか。同時に、例え結婚が叶わぬ関係であるとしても――どれほどイリーナに対して、愛情を注いでくれていたのか。
もう、イリーナにもわかっている。否、目を逸らせなくなっているのだ。
あのような話は、イリーナを愛していないならけしてしなかったであろうということを。
ただ機嫌を取りたいだけならば、心配しているというそれだけであるならば。イリーナに対しては、ただ身を守ることだけを語れば良かったのだ。自分達が貴族であるがゆえ、いつだって“無意識・無自覚の加害者であった”などという救われない事実を教える必要はなかったはずなのである。それを語ったのは他ならぬ、イリーナの未来を慮ってのことだとわかってしまった。つまり。
彼が――彼と彼女が。自分を裏切って追い出すような人間ではないと、知ってしまっということでもある。
――あたくしが、騙されている可能性は本当にはない?シュレインとアガサが全力で演技をしていて、実はとっくに恋人同士で。マルティウス伯爵家の財産を全て奪い取るために、二人で計画を練って、二人がかりであたくしを騙そうとしている可能性は?あるいはお父様もそのグルになってる、なんてことは?
悪い可能性を挙げればキリがない。完全に否定できる材料があるわけでもない。
でももう、イリーナは彼らのことを信じたいと思うようになっていた。彼らの言う通りなら筋が通ることが多いのもあるがそれ以上に、己の直感に従うことにしたのである。
それは己の方がずっと彼らを誤解し、罪を犯したことを認めることに他ならないけれど。
――悪魔と、契約してしまった日までもう二年ばかり。
シュレインを玄関先で見送ったあと。しばらくイリーナはその場に立ち尽くしていた。既に空はオレンジと藍色のグラデーションを作る時間帯。小さく星達は瞬いているが、月はよく目をこらさなければ見えない状況だった。あまりにも細く細い、ナイフのように尖った月。今にも空に溶けて消えてしまいそうなそれは、崩れていきそうな足下で必死に踏ん張っているイリーナ自身を示すように思われた。
――その二年が過ぎる、あの日までに。あたくしは……悪魔に対価を支払わなければいけない。
自分は、約束してしまった。シュレインとアガサの命を、その日までに捧げるということを。それが叶わないのなら代わりに死ぬのはイリーナ自身だ。どちらも避けたいと願うならば、避けるための方法を全力で探さなければいけないだろう。いつやってくるかもわからない、王国と皇国の刺客に怯えながらも。
――あの時は、人を殺すことなんて大したことないと思ってた。特に、あたくしを裏切ったあの二人がどうなろうと知ったことではなかったし……むしろ楽に死なせてやってはつまらないと思っていたほどだったのに。
ぶるり、と全身が震える。あの時の自分がどれほど怒りに身を任せ、肝心なことが何も見えていなかったのかを思い知らされた気分であった。
人を殺すのは、恐ろしいことだ。首を締められて、息ができなくなって死ぬのはどれほど恐ろしいだろう。
ナイフで抉られる激痛とはいかばかりであることか。心臓を一突きにすれば即死できるように言われているが、素人が一撃で人を殺すのはそう簡単なことではない。肋骨の隙間を上手に縫うか、あるいはみぞおちから突き上げるようにしなければ心臓を正確に刺すことなどできないと聞いた。よほど訓練した暗殺者でもない限りできない芸当だ、つまりまず長いこと苦しませてしまうことになる。
死ぬだけで恐ろしいのに、それに伴う苦痛を想像すると、それこそ身の毛がよだつほどの恐怖に襲われる。自分は何故、そんな怖いことがこの手でできるなどと思ってしまったのか。いくら、怒りと憎しみで我を忘れていたとしても、だ。
そして、最も恐ろしい事実は。そんな彼らが本当は、自分の裏切り者などではなかったということ。
――そういえば、何故あのような状況に陥ったのだったかしら。
時間が巻き戻る前の最後の日を思い出しつつ、イリーナは屋敷の中に戻った。そういえば、あの日は寝坊をしてしまったのだったな、と思い出す。いつも使っていた目覚まし時計が何処にもなかったせいだ。
元々イリーナは朝に強い方ではない。あのけたたましい音を鳴り響かせてくれる時計があってどうにか毎朝起きることができていたというのに、あの日の朝はそれが部屋のどこにもなかった。結果、イリーナはかなり日が高くなる時間までぐっすり眠ってしまったのである。
妙に屋敷が静かで、違和感を覚えたはずだ。
頭が痛いと思いながらメイドを呼んだが誰も来ないので、仕方なく自力で着られるドレスを着て、廊下に出た。とにかく髪を直してもらわなければとか、朝食はまだ残してもらえているんだろうかなんてことを思いながら。
――そう、丁度廊下のこのあたり、だったわ。
イリーナは巻き戻りのその日、シュレインとアガサとばったり遭遇した廊下で立ち止まる。
この屋敷に仕えているアガサはいい。何故本来ならば客人であるはずのシュレインがそこにいたのか。しかも、アガサと仲睦まじげに並んで、初めて見るような険しい顔で。
いや、仲睦まじげに、見えたのは。自分がこの時にはもう、シュレインとアガサの仲を疑っていたからに他ならない。シュレインとアガサが密会している現場を何度か目撃し、シュレインは自分というものがありながら見窄らしいメイドを選んだのかと激怒していたせいだ。完全にフィルターがかかっていた。実際はただ、横に並んで立っていただけ、であった気もしている。
そう、そこで。彼は自分を追い出すようなことを言って、イリーナの怒りを買ったわけだが。正確にはあの時、彼は自分になんと言ったのだったか。
――“イリーナ、君はもう邪魔だ、今すぐここから出て行け”ってことを言われた認識でいたけど、正確にはそんな言い方じゃなかった、わよね。ああもう、自分のフィルターがかかっているせいでなかなか思い出せないじゃないの、あたくしの馬鹿……!
ああ、そうだ、確か。
『イリーナ。……今すぐここを出るんだ、そうしなければ……大変なことになる』
「……馬鹿じゃないの、あたくしは」
思い出してしまった、その言葉。イリーナは窓枠に寄りかかり、額を抑えて呻いた。
「邪魔だ、なんて言われてないじゃない。出て行かないと酷い目に遭わされる、なんて脅されてもいないじゃない。なんでこの程度の文脈も読み取れないのよ、あたくしは……」
そうだ、アガサもすぐに続けたはずだ。
『お願いします、お嬢様。此処から逃げてください』
彼らは自分を屋敷から追い出そうとしたわけではない。屋敷を乗っ取ろうとしたわけでもない。あの朝は、この家そのものの様子が明らかにおかしかったではないか。
迫るなんらかの危険から、彼らは自分を守ろうとしていた。
この屋敷から一刻も早く離れて、逃げ延びてくれるように頼んできただけではないか。それなのに自分は、そうやって自らの身を顧みず――恐らく屋敷にとどまってくれたか、迎えに来てくれたのであろう彼らになんと言った?
『……一体どういうことなの、これは』
何も、見えていなかった。
『何故あたくしが、あんた達に追い出されなければいけないの?あんた達、自分が何を言っているかわかっているの!?』
追い出す、なんて言われていないのに。それを勝手に自己変換して、悪い方に持っていったのは自分の方ではないか。
『……ごめん、イリーナ』
どうして見えていなかったのだろう、シュレインの今にも泣き出しそうなあの顔が。
『君を傷つけてしまうのはわかっている。それでも、俺は何度でも言う。今すぐこの家を出て行ってくれ。そうしないと……』
『なるほど?あんた達でイチャつくためには、あたくしの存在が邪魔ってことなのね?そういうことなのね!?』
『違う!イリーナ、聞いてくれ、俺達はっ……!』
『聞きたくない!聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくないっ……あんた達、裏切り者の話なんて!!』
かつて、どこかの本で読んだ台詞を思い出していた。
愛がなければ、真実は見えないと。
愛がない相手の真実など、人はけして見ようとはしない。本当のことを知りたいなら、都合の悪い真実からも目を背けたくないのならば、愛をもってその相手をみなければいけないのだと。
自分は彼らを悪だと思い込み、目を曇らせ、けして愛など向けようとはしなかった。だからあんな酷いことが平気で言えてしまったのだ。
『いいでしょう、出て行ってあげるわよ。あたくしもあんた達のクズみたいな顔なんてもう二度と見たくないもの……!』
彼らはきっと最期まで、自分を守ろうとしてくれていたのだろうに。
「は、はは……はははっ!」
みっともないだとか、情けないだなんて考えることもできなかった。ずるずるとそのまま廊下に座りこみ、イリーナは乾いた笑いをこぼす。
アガサに謝らなければいけないとは思ったが、自分はシュレインにも謝るべきだったではないか。恐らく、あの時屋敷の他の人間は既に避難済みであったか、攫われた後だったのだろう。目覚まし時計がなくなっていたのは、大きな音を立てさせないためだったのかもしれない。あの時間を、世界を捨ててしまった自分はそれさえ確かめようがない。
「はははっ……なんてザマなの、傑作だわ。こんな、こんな喜劇ってある、ねえ……!?」
確かなことは、一つだけ。
悪役令嬢は自分だった。
いくら涙を零して罪を悔いても、取り返しなどつかないけれど。