<13・想像>
残酷な話をしていることは、シュレイン自身もよくわかっていた。明らかに動揺で目を泳がせているイリーナ。けして彼女を責め立てたかったわけではない。非難したかったわけでもない。そんな資格は、長いこと貴族という特権に同じく守られてきた自分に言えることではないからである。
シュレインも昔は、イリーナと同じことを信じていたのだ。
この国は、かつてのラナウント皇国とは違う。
確かに身分制度はあるが、それでも人が人の尊厳を踏みつけるようなことなどしていない。低い身分の人であってもきちんと裁判を受けられるし、相応に仕事を貰うこともできる。大昔のように拷問で被疑者の口を割らせるようなこともしていないし、親がいない子供達を保護するための制度もあれば孤児院もある。身分が低い人間もきちんと生きていくことのできる制度が整っているはずだ、と。
それが違う、と理解できるようになったのは。貴族としての奉仕活動の一環として、いくつかの孤児院を見て回るようになってからのことだった。
多くの富を独占する貴族は、その富をもってして人々に奉仕しなければいけない。それが、貴族の務めである、と政府から指導を受けている。その言葉をそのまま実践している貴族がどれほどいるかはさておき、少なくともコースト伯爵家は歴代慈善活動にはかなり重きを置いていたのだった。当然、当時中等部の学生であったシュレインも同じである。
その孤児院は、見た目はそこそこ綺麗であったし、子供達も痩せてはいたが健康そうに見えた。
だが、子供達を守り育てているはずの孤児院の運営者――シスターの具合が随分悪そうに見えたのである。彼女は自分達コースト一族に挨拶をした後、それ以降はずっと同じ場所に座ったままの状態だった。顔色は青ざめ、時折体が震えているのが見える。年配のシスターであったため、疲れがたまりやすいのかと当初は思ったのだが。
よく見ると、彼女は杖を傍に立てかけていた。そしてボロボロのスカートから覗いた足は、六十過ぎという年齢を踏まえてもやせ細っているように見えたのである。
『どうしたのですか、シスター。少し、お体の具合が悪いようですが』
時折咳き込んでいる様子の彼女に対し、シュレインは善意でそう声をかけた。
『具合が悪いのでしたら、病院に行かれた方がいいですよ。放置しておくと、どんどん悪化してしまいますし……もしかしたら大きな病気ということもあります。シスターが倒れてしまったら、この院の子供達はみんな路頭に迷ってしまいますから』
そう、その時のシュレインは。お金がなくて病院にかかれない人がいる、という発想が一切なかったのである。
孤児院の寄付金は、複数の貴族から潤沢に寄せられているものとばかり思っていた。当然子供達の毎日の衣食住を提供し、運営者であるシスターの懐に多少入れても問題ないくらいには。
だが、実情はそうではなかったのだ。
彼女は寂しそうに笑って、首を振ったのである。
『ありがとうございます、シュレイン様。でも、いいのよ私は。病院にかかるお金がないものですから』
『え?しかし、風邪薬を貰うくらいならば、合計でも1000G程度で済むのでは……』
『そうね。……それだけのお金があれば、みんなのためのミルクをもう少し多く買えることでしょうね……。尤も、私達が医者にかかろうとすると、そんな程度のお金ではすまないのだけれど』
その言葉に、シュレインはぎょっとしたのである。1000Gあれば、ミルクが買える。そのような発想を、自分は人生で一度たりともしたことなどなかったのだから。
同時に、彼女は“その程度のお金では済まない”ということを言った。アナウン王国には健康保険制度がある。保険に入っていれば、全ての民が実質費用のうちの一割程度の負担額で医者にかかることができる仕組みだ。貴族も庶民も関係なく、国民は全員加入が基本義務付けられている。正確には入らなくても違法にはならないが、その場合は医者にかかった時保険金が全額負担になり、莫大なお金がかかることになってしまうことになるのだ。
一割負担ですまない、ということはつまり。シスターが、健康保険に入っていない、入る余裕のあるような経済状況でないことを意味している。保険に入るには、一ヶ月ごとに定額を国に収める必要があるからだ。
『シュレイン様。私は、シュレイン様を立派なお方だと思っています。私達のような小さな院に何度も足を運んでくださって、子供達に絵本を読んでくださり、文字を教えてくださり……私は本当に感謝していますのよ。でもね。……それでもやっぱり、シュレイン様もまた貴族でらっしゃるの。現実を、ご存じでないわ。月に500G。そのたった500Gが払うことができず、健康保険に入ることのできない人間はこの国にたくさんいるの。私もその一人。500Gあったら、子供達にもう一つずつパンをつけてあげられるのよ』
孤児院への寄付金の額を後に知り、シュレインは唖然とした。その金額は、自分がずっと思っていたより少ない額であったからだ。当然のようにシスターも孤児達も保険に入ることなどできてはいなかったし、病院にかかることも当然不可能な状況だった。それどころか、毎日の食事を相当粗末なものにしなければ足らなくなることもしばしばで、そういう時はシスターの分の食事を大幅に減らして子供達に分け与えることさえもあったというのである。
それから暫くして、シスターは病気で倒れた。
風邪だと思っていた病は、もっとずっと重いものだったという。複数の臓器を侵された彼女は晩年は手足が壊死し、寝たきりになって死んでいったのだそうだ。もし初期の段階で医者にかかり、適切な治療を受けることさえできていたのなら。彼女はあんな、悲しい最期を迎えずに済んだのかもしれない。
シュレインは父に頼んで、コースト伯爵家が雇った人間を孤児院に派遣し、自分達のお金で孤児院の運営を始めた。子供達が飢えることはなくなり、全員を保険に入れてやることも医者に見せてやることもできるようになったが――シュレインは当然気づいてしまうことになるのである。
それは、父に頼んで、父にやってもらったこと。自分の力で彼らを救ったわけではない。
同時に。彼らだけ救うことができたとしても――この世界の仕組みが大きく変わったわけでもない。もっと逼迫している孤児院はいくらでもあるだろうし、医者にかかれず苦しんでいる下層階級の人々がどれほどの数存在するかしれないのだ。孤児院一つ救ったところで、焼け石に水。本当の意味で彼らのような悲劇を繰り返したくないと願うのであれば、この国の仕組みそのものを変えていくしかないのである。
――俺達のような特権階級がいるせいで、ただ庶民に産まれただけの人々が血反吐を吐くような思いをしなければならない。
イリーナは言った。下層階級の人々にも仕事はあるだろうと。それをしないで、スラムで物乞いをするような人達はただの怠慢だろうと。
そう、仕事を欲しがる者には必ず仕事を与えるべき、と王国も定めている。実際そのとおり彼らに“真っ当な”仕事が与えられていたのであれば、きっとスラムがあそこまで醜く澱んだ場所になることもなかっただろう。
確かに、下層階級の人々を雇ってくれる工場などもないわけではない。だが、最下層の人々を好んで雇うような職場が真っ当なはずがないのだ。藁にも縋るような気持ちで職を求めてきた人々を、彼らは当然のように搾取する。十八時間立ちっぱなしで仕事をさせた後、最低賃金より少ない金を与えて、また明日も来いと鞭で打つ。当然そういった人々はやがて体を壊し、過労死するか病死するかの二択。そもそも、体が丈夫な若い男女でのみできるような重労働を、何故幼い子供や老人がこなすことができるだろう。
そういった仕事ができない老人は、物乞いをし、ゴミを漁るしか生きる術がない。
孤児院に入れなかった子供や女ならば、万引きや売春でお金を稼いでどうにか日々を食いつなぐことさえあるだろう。イリーナは売春婦を唾棄すべき穢れた存在と思っているようだが、彼らの多くは望んで体を売っているわけではない。まともな仕事をしたくてもできないから、仕方なくやっているだけなのである。そもそも売春という行為には常に妊娠と性病のリスクが伴うことになる。その結果無理やり堕胎させようとしたり、不衛生な環境で出産して命を落とす女も少なくない。一体誰が、そのような仕事を心から望んで行うだろうか。
『狂っているわ。人の命を、尊厳を、なんだと思っているのかしら』
イリーナはそう言った。確かにバルチカ共和国で行われている所業は、そんな感想をつぶやきたくなるのも無理からぬ行いである。
だが、忘れてはいけない。直接的に暴力や犯罪をやっていなくても――自分達は存在するだけで、充分に加害者になりえる存在であるということを。
「……イリーナ」
そこまで話したところで、シュレインはイリーナの名前を呼んだ。彼女は可哀想なくらい青ざめて震えている。
そんな下層階級のクズどものことなんか関係ない、貴族が連中より偉いのだから当然でしょ――と。そうやって開き直らないあたり、彼女はまだ真っ当な人間なのだとシュレインは知っている。ただ、知らなかっただけなのだ。貴族が特別扱いされる結果、そのツケを名前も知らない人々が払わされ続けているということを。
人の命と尊厳を真に守るべきと思うのであれば。
自分達の世界に、階級などという差別はあってはならないのである。例えその特権によって自分達がどれほど優越感を得られ、贅沢三昧な生活を許されているのだとしてもだ。
「どうして、君はバルチカ共和国で行われている暴虐を、許しがたいものだと思ったんだい?」
「え」
「昨夜、恐ろしくて眠らなかったと言っただろう?それは、お父上にこう脅されたからであるはずだ。秘密が漏れたらお前の妻と娘も、出産工場の家畜にするぞと。……自分も同じような悲惨な目に遭ったなら、と。被害者の方々の気持ちを想像し、恐ろしいと感じたからこそ許せないと思ったんじゃないのかい?」
そう。想像することができれば、人は自分が受けたわけではない痛みに対しても怒りや悲しみを抱くことができるのだ。
加害者になる者達に足らないのはいつだって、想像力なのである。
「君が見下してくた人々の気持ちも、同じように想像してほしい。……自分は、怪我をしていても見てもらえる病院がない。お腹が痛くなるくらいすいているのに、今日食べる食べ物がない。ゴミ箱を漁ってやっと手に入れたのは、カビが生えたパン一つ。それを兄弟で分けあって今日を生き延びなければいけない。……そこに、貴族の馬車が通りがかるんだ。そこに乗っているお姫様はキラキラした美しいドレスを来ていて、毎日美味しいものを食べているせいかふっくらした体つきをしている。そんな人に……」
そっと、イリーナの頬に手を当てる。自分は、彼女の兄。結婚してやることができない。それをもっと早く伝えられたなら、こんなにも彼女を傷つけることはなかったのだろうか。
申し訳ないと思うからこそ、ここから先は兄として伝えられることは全て伝えたいと思うのである。彼女を守りたくて、少しでも力になりたくて――自分は信頼しているアガサを彼女の元に送り込んだのだから。
「そんな人と、目が合うんだ。そして彼女にとてもとても冷たい、ゴミを見るような目で見られて言われる。“ああ、なんて汚い!これだから下層階級の奴らは。視界に入れるのも気持ち悪いわ”。……下層階級に産まれたのも、親がいないのも、自分にはどうにもできないことなのに、そんな風に言われたら……君はどう思う?」
ほろり、と生ぬるいものが指を伝った。イリーナの緑がかった瞳から、ぽろりぽろりと溺れていく雫。
「あ、あたくしは、貴族よ。そんな、そんな人間に、なったりしないんだから……なるわけ、ないんだから。あたくしは、そうやって、見下される立場になんか」
でも、と。彼女は続ける。
「自分には、どうしようもないことで……憎まれたり、脅されたり、怖がられたり、見下されたり……そんなの、絶対嫌よ。嫌だわ。だから」
「うん」
「……アガサに、謝らないといけないのね、あたくしは」
「……うん」
ああ、やはり。この子はけして、根っからの悪人などではなかった。テーブルごしに、シュレインはそっとイリーナを抱きしめる。
「それが言えるなら、君はもう大丈夫」
労働階級だから、という理由だけでアガサを見下し、いじめていた己を認めることができるなら。
誰かの苦しみをきちんと想像し、共感できるなら。
彼女はどこへ行っても生きていけるし、誰からも愛されることだろう。
「大丈夫だよ、イリーナ。……君のことは、俺とアガサが命に換えても守るからね」




