<12・現実>
あれだけ忌々しいと思っていた相手に頼るハメになるだなんて、自分も堕ちたものである。情けないと思いつつも、このとんでもない秘密を一人だけで抱えられる自信はなかった。シュレインは既にこの話を知っているはずなので(それを言えばアガサもだろうが)、愚痴と相談を言える数少ない相手であったのは間違いない。
貴族である自分のプライドと、ずっと当たり前のように信頼してきたこの国のイメージがガタガタと崩れる音を聞いたのだ。
みっともないと言いたければ言え、このまま一人抱えて立ち直れる自信は全くなかったのである。なんせ、己が今まで生きてきた足下さえも怪しい状況であったのだから。
「酷い顔だな」
「……悪かったわね。当たり前じゃない、あんなグロテスクな話聞かされたんだもの」
事情を察してか、シュレインの方が屋敷に来てくれた。今日はお互い大学の講義はあったのだが、とてもじゃないがイリーナは外に顔を出せるようなコンディションではなかったし、それを慮ってシュレインも一緒に講義を休んでくれたということらしい。腹立たしいハズの相手にここまで気遣われては、戸惑いとそれだけではないもので涙が出そうだった。
段々と、己が憎んでいたはずのモノが何であったのか、わからなくなりつつあるから余計にだ。
「この国が、植民地に対して酷い行いをしている、ということまではわかったわ。同時に、それを秘密にしたいとアナウン王国と……その秘密を暴きたいラナウント皇国に父が、ひいてはあたくし達家族が狙われる可能性があるということ。そのために、きちんと自分の身は自分で守れるよう訓練をしておくべきだということも」
完全に寝不足で、頭がくらくらしている。それなのに、眠ることが恐怖で眠りたいとも思えない。この国では基本的に紅茶が圧倒的で珈琲は不人気であったが、今日ばかりは少しだけストックしておいた珈琲を入れてもらっていた。今夜はなんとか眠らなければいけないにしても、今このまま倒れるのは避けたいところである。少しでも中途半端な睡魔を飛ばすことができれば御の字だった。
「ただ、アガサはあたくしに言ったのよ。この国が戦争の準備をしている、と。そのことをお父様に話を聞いた時すっかり忘れていたあたくしのミスではあるのだけれど……どういうこと?このアナウン王国は、一体どこと戦争をしようとしているの?」
「実はそれがまだ確定していないらしいんだよ」
「確定していない?」
「アナウン王国が仮想敵として想定している国は一つ。まずはラナウント皇国、これは言うまでもなく君もわかっているだろう」
まあそうだろうな、とイリーナも思う。ただでさえラナウント皇国とアナウン王国は犬猿の仲である。しかもそのラナウント皇国が自分の弱みを握るために嗅ぎ回っているらしいとわかれば、ピリピリしてくるのは当然といえば当然だ。万が一弱みを握られそうだとわかったら、その時はラナウント皇国に言いがかりをつけて、こちらから戦争を仕掛けるくらいのことはするだろう。弱みが明るみに出て、向こうに正義を振りかざした状況で攻められるのが最もさけるべきことであるはずなのだから。
そうなった場合、当然アナウン王国を支援してくれる国もいなくなる可能性が高い。元々人格者の国王と、信頼のおける植民地統治という評価を受けていたのである。それがひっくり返るともなれば、国際社会の目は相当厳しいものになるはずだ。植民地以外にもいくつか同盟国はあるが、これを機に同盟関係を見直してくる国も出ることだろう。それほどまでに、父が語ったことが真実ならば、アナウン王国の受けるダメージは半端のないものなのである。
「もう一つは。戦争というより……紛争鎮圧の名目だな。バルチカ共和国だ」
「え!?」
「植民地の中で最も人口が多く、まだ力を持っているとされている国がバルチカ共和国だろう?このバルチカ共和国が他の国に呼びかけて反乱を起こした、となれば。アナウン王国の側も、大々的に“鎮圧”に乗り出す名目ができる。つまり“自分達は平和的な統治をしていたのに、戦争に負けた連中がその敗戦を受け入れず、あまつさえ復興支援に手を貸した自分達への恩をアダで返そうとしている。こうなっては仕方ない、多少手荒でも鎮圧しないと示しがつかない”と。これならアナウン王国が多少バルチカ共和国の人々を殺そうが傷つけようが、国際社会からの批判は最低限に抑えこめるだろうからね」
「そんな……!」
確かに、バルチカ共和国の人々からはかなり反発や暴動が起きているという話は聞いている。既に千人単位で人が死んでいる、という話も。
だが、そうなるのも当然といえば当然だ。なんせアナウン王国の人々が女性達を拉致して家畜同然に飼って子供を産ませたり、少し気に食わない人々を凄惨な拷問にかけて殺したりしているからではないのか。
「納得したわ。……後者の方が、可能性としては高そうかしらね」
イリーナは呻くしかない。
戦争が終わってから既に数百年が過ぎている。最初の大虐殺が行われてからも既に百年ほどが過ぎているということであったか。人々の不満やストレスはピークに達しているはずだ。大規模なレジスタンスが地下に潜み、反逆の時を待っているということも充分考えられるだろう。
それを、“正義の鎮圧”という名目で強引に押さえ込む。
実際のところ、正義どころか鬼畜生にも劣る行いをしておきながら。
「狂っているわ。人の命を、尊厳を、なんだと思っているのかしら」
思わずそう口にした、その気持ちに嘘偽りはないはずだった。しかし。
「そうだね、イリーナ。しかし、俺達貴族は彼らを過剰に責められる立場ではないんだよ」
「は?」
「確かに、暴力や犯罪でわかりやすく下の階級の人々を苦しめたつもりはない。でも、そもそも俺達という特権階級が存在していることそのものが、この国の大多数の人々を傷つけていることでもある。人の命を、尊厳を、守るべきだと思うのなら。……本当にそれが正しいと思うならイリーナ、俺達は貴族という身分を捨て、皆が同じ階級であるべきなんだよ」
「……意味がわからないわ。そこがどう繋がるっていうのよ。貴族は貴族じゃないの、それの何がいけないの」
イリーナは眉を跳ね上げた。確かに、バルチカ共和国などの植民地で起きている出来事は許しがたい。人には最低限の尊厳が与えられて然るべきだと思っている。
だが、この国の、少なくとも表向きの制度はそれをきちんと守っているではないか。
階級制度はある。特権階級というものも存在する。しかしどれほど身分の低い人であろうと、犯罪を犯して即処刑ということはまずないはずだし、きちんと国選弁護士がついて裁判を受けられるようになっているはずだ。拷問も昔と違って、国家転覆を図ったテロリストでもない限り行ってはならないと定められているはずである。下層階級の人々も、最低限の尊厳が守られるように、法は整備されているではないか。
確かにスラムなどでは、食べ物に困っている子供達や仕事がないホームレスなどが存在していることも知っているけれど。孤児の子供達は孤児院に行けばいいだけであるし、ホームレスをするくらいならちゃんと仕事をすればいいだけの話ではないか。仕事もしていないで路地裏で寝ているだけの奴に同情の余地などない。きちんと下層階級だろうと関係なく雇い入れてくれる工場などがあることを、イリーナは知っているのだから。
思わず早口でそういったことをまくしたてると、シュレインは悲しげに眉をひそめた。君は何も知らないんだね、とでも言いたげで。
「この世界は君が思っているほど綺麗なものじゃないよ。例えば税金。所得税や消費税、市民税などが課せられるのは全て中流階級以下の人々からだ」
それが何?とイリーナは思った。
「税金を収めるのは国民の義務でしょ、何がおかしいのよ」
「その理屈で行くと、俺達貴族は国民ではないということになるけれど?」
「はぁ!?」
「わからないかな。俺達貴族が収めない分の税金まで、彼らが汗水垂らして働いて収めてくれているということなんだよ。俺達よりずっと収入も少なく、貧しい生活をしているのに。明日ごはんを食べるのを我慢してでも税金を収めることで、どうにか住む場所や眠る場所を確保している人達がいる。……俺達貴族がともに税金を収めれば、それだけで彼らの負担は軽減されるはずなのに。俺達貴族が、特権を振りかざしているだけで彼らを苦しめているというのはそういうことなんだよ」
それは、と。イリーナは反論しかけて口を閉ざした。考えたこともなかったからだ。貴族が税金を免除されるのは当然。その分彼らが税金を収めるのも当然。
そう、当然と思っているのに。自分達の存在そのものが庶民の害になっているという発想に、一切辿り着けなかった自分に気づいたのである。
「……命の尊厳を守るというのは。彼らが当たり前に衣食住を確保できる環境を守るということ。国がそれを、責任を持って供給できるようにして初めて保たれるものだ。しかし貴族から税金を徴収できず、貧しい人々からの税金のみで成り立っているこの国にはそれができない。しようとも思わない。何故なら“困っているのは自分達ではないから救済する意味もないし思いつかない”人々が、政治経済を動かしているからだ」
「…………」
「さて、問題だ。この国で、そうやって税金を収めてくれているはずの庶民が一斉に他の国に逃げてしまったら、何が起きると思う?まあ、聡明な君なら言うまでもなく理解できるだろうけれど」
そんなことが起きたら、経済が成り立たなくなる。イリーナは唇を噛み締めた。
税金を収めているのは、庶民だ。
つまり彼らのお金が、実は国そのものを大きく支えているのである。貴族達が国王に多少お金を“貢ぐ”こともあるかもしれないが、そのような額など税収と比べたら微々たるものであるだろう。
当然、国の財政は破綻する。収入のほとんどがなくなるのだから。
「貴族は自分達だけが人間として価値あるものであり、ずっと偉いと思っている。自分達こそが国を支え、成り立たせているのだと。……実際は違う。国を支えているのは、庶民達だ。貴族の大半はいなくなっても困らないけれど、庶民がいなくなったら国は崩壊するのだからね。本当は、彼らの方が俺達よりずっと頑張っていて、偉いと呼んでも差し支えない存在だと俺は思っているよ。本来俺達が彼らを見下して、彼らを搾取して生きるなんてあまりにもおこがましい。俺達の方こそ、彼らに頭を下げなければいけない存在だというのいうのにね」
彼の結論は、理解できた。しかし納得できるかどうかは別である。
自分達は特別だ。貴族ではない者達よりずっと偉い存在で、彼らを見下げて生きることが許されている、そう思っていた。それが間違いだとは思えない。それなのに、何故自分達の方が彼らに感謝しなければならないなどと言われなければいけないのか。
ましてや、貴族の特権階級をなくして、全員平等の身分にするべきだなんて――。
「地獄は、遠いバルチカ共和国の話だけじゃない。すぐ隣にも存在しているんだよ、イリーナ」
彼も頭を冴えさせたかったのだろうか。同じように入れてもらった珈琲を飲みながら、シュレインは言った。
「下層階級の人々は、君が思っているよりずっと凄惨な生活をしている。君は、この国の多くの孤児院が財政破綻寸前であると知っているかい?孤児院の運営は主に貴族の寄付で成り立っている。貧しい孤児達などどうでもいいと思うような貴族が増え、寄付をしなくなれば、彼らは飢え死にするしかなくなるんだよ。今、悲しいことだけれどそういう貴族は少なくない状況だ。とすれば、孤児院に入ることもできずあふれる子供が出る。特に、病気を持っている疑いがある子供は、他の子供達の安全を考えるなら引き取ることもできないだろう」
「びょ、病気になっているなら病院にかかればいいじゃない!子供だってそれくらいの知識は……っ」
「孤児にそんなお金があると?そもそも彼らは健康保険に入れていないから、医療費は全額負担だ。我々のように一割の額で医療サービスを受けられるわけじゃない。そもそも彼らがどこでそんな知識を得られる?……文字を教えてくれる親さえいないのに?」
「そ、それは……」
「そういうところなんだよ。そういう実情を、知ろうともしてこなかった人間にガタガタ言う資格はない。そしてそういう実情を放置してきた俺達貴族が、“人の命は平等で尊厳は守られるべきもの”なんてことを言う資格はないんだよ」
彼の口調は、けして厳しいものではなかった。それでも、イリーナを押し黙らせるには充分であったである。
このアナウン王国は、まさに楽園のような国だと思っていた。
そのような現実があるなど、一体どうして想像できたことだろう。
――文字も読めない子供がいる?孤児院が財政破綻寸前?……あたくし達の存在が、庶民の害?むしろあたくし達より、庶民が偉い?
ぐるぐるぐると、苛立ちよりも混乱が優って考えこんでしまった。
それは今までけしてイリーナがしてこなかった、考えを認めることさえできなかったことであったのだから。




