<11・悪夢>
あまりにも信じがたい、信じたくない話。父からそれを聞いてしまった晩、イリーナは殆ど眠ることができなかった。あまりにも語り口が生々しく無駄に上手であった父を恨みたくもなるというもの。それこそ自分とシュレインが異母兄妹であるという事実がすっ飛んでいってしまいそうなほどの衝撃だった。人が、人を家畜同然の扱いをしているなんて。王族や一部の貴族達が、バルチカ共和国の人々の“人肉”を輸入して食らっていただなんて――想像するだけで恐ろしいことだ。
自分はあくまで貴族。それも、アナウン王国の伝統ある伯爵の家の娘だ。
まかり間違っても搾取される側になるはずがない、そう思って生きてきた。わざわざ貴族ではない者達に対して暴力を振るったり、犯罪をしたことがあるわけではないけれど。それでも、彼らのことを“自分達とは違う存在”として見下げてきたのは事実である。
この国では、かつてのナラウント王国ほど酷い身分差別はないものとされている。
階級はあるし、裁判を行ってもそれが平等であるかどうかは極めて不透明であるが。それでも、どのような犯罪を犯した者であるとしてもその場で憲兵が私刑を行うということはない。国家転覆やテロなどの大罪を犯した者のみ拷問などが課されることもあると聴くが、基本的には無理やり自白を取るような行為は全て禁止とされているはずである。
それでもだ。
貴族と、そうではない者達の間には、けして越えられない大きな壁がある。
生まれついて金銭に余裕があり、豪華な屋敷と綺麗な服を着て暮らすことのできる貴族を庶民たちは誰もが羨み、妬む。その視線を特権階級として誇らしげに浴びながら生きる者達は、自分達がそのように特別扱いされるのは当然だと考えるのが自然だ。なんせ、庶民に課せられる多くの税金が免除されている。彼らのように、毎日食べるものに困ったりするようなこともまずありえないし、外に出かける時に専用の馬車を駆るのがテンプレートである。イリーナそのものは犯罪に加担したつもりはなくても、裏で特権階級の者による暴虐が行われていて、それが隠蔽されている可能性がないわけではないことを自分も理解していた。
なんせ、時折社交界でひそひそ噂する者がいたからである。あの子爵の家は、ペットを飼っているらしい――身ごもったのが面倒なので腹を蹴って流産させたらしい――可愛い声で鳴くのが気持ちよくて鞭打ちを――などという気持ち悪い話を。
勿論、残酷な者ばかりではない、はずだ。
それでも確かに自分達には、残虐なナラウント皇国の血が流れているのも事実であるのだろう。
例え捕まったところで、金で解決してしまう者もいるのかもしれない。しかもその金は、被害者ではなく憲兵相手に払われるもの、被害者の懐には、一銭たりとも入ることがないと知っている。
――そういう世界があるかもしれない、ってことはちらほら聞いていたわ。でも、だからって自分が、そうなるかもしれないなんて思うわけないじゃない。だってあたくしは貴族、それも伯爵の跡取り娘。選ばれた存在で、絶対にそちら側に行くことなんかあるはずないのよ?……なかったのよ?
そのはず、だった。
この世に奪う者と奪われる者がいるのなら、自分は圧倒的に前者でしかありえない、と。
この家を没落させるようなことなどあってはならないが、仮にそのようなことがあったとて自分達が貴族に産まれた事実に代わりはない。庶民達のように他の貴族から見下げられることなどないし、特権も当然守られてしかるべきだと。もっと言えば、自分が貴族である以上、国が最大の味方であると信じて疑わなかったのである。なんせ貴族と庶民の最大の違いは、かつて王国が独立した時、初代国王に命を捧げて戦った戦士達の末裔が貴族であるとされているからだ。いわば、貴族の祖先は国王の祖先の恩人でもある。蔑ろにされるようなことなどあるはずがない、と。
――それなのに。
『アナウン国王は思い出したのだろうさ、自分達にもあの残酷な……ナラウント皇国の血が確かに流れていたということを。百年ほど前、ついにアナウン王国は一線を超えた。これだけ自分達が大切に保護してやっているのに、植民地のやつらはその恩をアダで返すようなマネばかりしてくる……ならば恐怖で思い知らせるしかない、と。そして、虐殺が起きた。正確に死んだ人数ははっきりしていないが、現地人の死者の数は千人以上に上るとされている』
表向きは、植民地の人々を尊重し、平和的な統治をしていたとされていた王国の裏の顔。
『絶対的な統治をするためには、大きな信仰と恐怖が必要。……アナウン王国は、バルチカ共和国などの人々に自分達の種族を“神の一族”として崇めさせ、本来持っていた信仰を捨てさせた。独自の身分制度を押し付け、人々の心身ともに支配を磐石なものにしようとしたのだ。……私は仕事で、何度かバルチカ共和国に渡っているし、現地の情報も嫌でも耳にすることになる。王国には徹底的に口止めされたが、それでも耐え切れんと思う瞬間があった。……それほどの地獄が、今もあそこには存在しているのだ』
人々の信じていた神さえも捨てさせ、強引に自分達を神のごとく崇めるよう強要し。
『後でいろいろ調べて知ってしまったことを合わせて説明すると、こんなかんじだ。あの場所では、貧しい女性達を家畜のように飼っていた。下は十歳、上は四十歳程度まで。とにかく子供が産めればいいのだ。子供を産んだら一ヶ月か二ヶ月だけ休ませて再度妊娠させ子供を産ませるループ。十人子供を産めば機密保持を条件に、小金を持たせて開放させてやるという。産まれた嬰児はなんと……この国の王族と一部上級貴族のご馳走になるらしい。脳は乾燥させてすりつぶすと不老長寿の妙薬になるなどと言われているようだ』
人が人を、奴隷以下の――家畜・食料として扱い。
『正義を思うなら、この恐ろしい実情を世間に、他国に公開するべきだ。人が人を家畜のように扱い、食物にするなどあってはならんことだからな。だが……私にはできなかった。わかるか。お前が……大切なお前達が、家族がいるからだ。政府は、もし秘密がバレたら、娘と妻も出産工場の家畜にしてやると言ってきたのだ……』
もしその情報をリークでもしようものならば、一家もろとも皆殺し――否、それよりもっと無残な目に遭わせると言っているのだ。
自分達は、貴族であるはずなのに。
国王の恩人の、その末裔であるはずなのに。
特別扱いされるどころか、庶民よりもずっと酷い立場に身を落とされるかもしれない、そんな危険がすぐ傍まで迫っていただなんて。
――嫌、嫌嫌嫌嫌!あたくしは、そんなことには絶対にならない、ならないわ!だって貴族なのよ、下等な連中とは違う……選ばれた存在でしょ?なんで、アンダークラスの連中より酷い扱いを受けなくてはいけないの?
ほんの少しだけ眠りに落ちれば、途端に悪夢を見てしまった。後から思うに、昔見たホラー映画の影響だったのだろう。あの時は娯楽として、拷問されて生きたまま腹を割かれる女性の姿を見ていた。今は違う。夢の中の主人公は、他ならぬイリーナなのだ。
高貴なハズの自分が、服を強引にはぎとられる。全裸になり、あられもない姿を兵士達の前に晒すのだ。男達は欲情の一つもせずに家畜のように自分の股間に注射器をあてがうのである。注射器をねじ込まれる激痛に暴れても、恐ろしい液体が体内に入ってくるのを感じても、逃げる術などない。やがて腹がぶくぶくと膨れ、出産の痛みに泣き叫ぶことになるのである。
早く産んで楽になりたいと思うのに、赤子がちっとも出てきてはくれない。
そんな自分の頬に兵士は唾を吐いて、“とろとろしてんじゃねえ!”と怒鳴り散らすのだ。そして、苦しむ自分を助けるどころか鞭で打ち据えるのである。自慢の絹のような肌もココア色の髪も鼻血で汚らしく汚れていくのがわかり、余計涙が溢れた。やがて兵士の一人が短剣を取り出し、忌々しそうに振り上げるのである。
『貴族のご令嬢だったくせに、とんだ役立たずだ!お前は養豚場の豚以下だな!』
「いやあああああ!」
悲鳴を上げて、イリーナは飛び起きた。自分がおぞましい夢を見ていたと理解しても、まだ心臓がばくばくと高鳴っている。腹がはちきれそうな苦しみも、股関節が脱臼するほどの激痛も、最後に振り下ろされたナイフの生々しい感触も全て覚えていた。あくまでそれらは現実で起きたことではなく、イリーナが想像してしまったことにすぎないというのに。
虐げられるというのは、人に人として見られないということは、これほどまでに恐ろしいことであるのか。
その場所に突き落とされてしまったなら、もう貴族だの令嬢だのという身分は全く関係なくなってしまうのだ――。
「は、はは……」
まだ太陽も登っていない時間。眠らなければ明日が辛いことはよくわかっていたが、再び悪夢を見るかもしれないと思うと到底もう一度試みる勇気はなかった。
恐ろしいことに、自分達が秘密を漏らさないかどうか監視し、隙あらば殺害することもやぶさかではないと思っているのはアナウン王国だけではない。そのアナウン王国に対して、寝首をかいてやらんと虎視眈々と狙っているナラウント皇国もなのだと父は言っていた。
アナウン王国が自分達を裏切って独立したことを、ナラウント皇国は数百年も過ぎた今でさえ忘れていない。アナウン王国が経済大国として成長するのが忌々しく、その利益を自分達で奪ってやるためにはあらゆる方策を講じてくることが目に見えている。
そのナラウント皇国が、アナウン王国が植民地の者達に対して野蛮な行いをしているらしい、という噂をどこかで嗅ぎつけたらしい。まだ証拠は掴んでいないが、もし彼らが証拠を握って国際社会にぶちまけるようなことになれば、アナウン王国は一貫の終わりである。そうでなくとも、ナラウント皇国に証拠を握られて脅迫されたら、アナウン王国はまず逆らうことができない。言いなりになるか、それが嫌なら戦争勃発。いずれにせよ悲惨な結果は目に見えている。
ナラウント皇国の人間が、ゴドウィンの存在に辿りついたなら。
情報を入手するためにはなんでもするだろう。ゴドウィンと周辺の人間を拉致して拷問にかけ、口を割らせるくらいのことをしてもなんらおかしくはあるまい。当然イリーナにも危害が及ぶことになるはずである。
生き残るためには、とにかく自分で自分の身を最低限守ることのできる技術が必要。同時に、信頼できる護衛も。父が、シュレインがしてきたことの意味がここにきて綺麗に繋がったというわけだ。まさかここまで救いようのない真実だとは、思ってもみなかったけれど。
――あたくしは、どうしたらいいの?
まだ、自分の周辺で異変は起きていない。
でも、もしそんなことになった時、自分はこの先どうすればいいのか。
己は貴族だ。その認識をけして捨てることはできない。国を捨ててどこかに逃げるだなんてしたくもない。でも、もしその国そのものが本気で牙を剥いてくることになったなら。
――どうしよう、どうすればいいの……シュレイン!
情けないことに、頼れるような人間が他にイリーナには見つからなかったのである。
真っ暗な部屋の中、そっと灯をつけて、イリーナは万年筆を手にとったのだった。万が一を考えて肝心な情報は伏せた上、真実を知ったことをシュレインに伝えるために。




