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<1・逆行>

「……一体どういうことなの、これは」


 地団駄を踏みたいほどの苛立ち。本で読んだそれを、まさか格式高い伯爵家の令嬢である自分が経験することになろうとは、夢にも思っていなかった。

 イリーナ・マルティウス。

 名家の一人娘として、蝶よ花よと育てられてきたイリーナに、今まさに人生最大の危機が迫っていた。婚約者であった同じシュレイン・コースト。それから、イリーナの家のメイドとして雇っていたアガサが二人仲良く並んで自分の目の前に立ち、己をこの家から追い出そうとしているのである。


「何故あたくしが、あんた達に追い出されなければいけないの?あんた達、自分が何を言っているかわかっているの!?」


 確かに。自分はシュレインに対して、少々重すぎる愛を送っていたかもしれない。毎晩電話をかけすぎたのは少し反省しているし、手紙を毎週十通ばかり送っていたのは少々やりすぎだと父親からも苦言を呈されている。でも、そうでもしなければ己の愛をシュレインにわかってもらえないと思ってのことだ。彼は誰に対しても優しく、そのキラキラした笑顔を自分にだけ向けてくれるわけではない。己が本当に彼の一番であるのか、心細い気持ちになるのも無理ないことではなかろうか。

 同時に、アガサに対しては初めて会った時から嫌いであったというのも否定はしない。

 求人募集でやってきた、一番見窄らしい外見をしていたそばかすだらけの労働階級の娘。ちっとも美人ではないし、要領も悪い。人が一回で覚えることに三回以上の時間をかける我が家のお荷物。イリーナのドレスにうっかりワインを引っ掛けたなんてこともやらかしている。好かれる要因は一切ない。そのアガサに対して、随分とシュレインが優しく接するから尚更である。

 その二人が今、結託して自分をこの家から追い出すと言っている。

 此処は自分が育った、マルティウスの家だ。何故そのひとり娘たる自分が、この家から出て行けなどと言われなくてはいけないのか。


「……ごめん、イリーナ」


 シュレインは初めて見るような苦々しい顔で告げた。


「君を傷つけてしまうのはわかっている。それでも、俺は何度でも言う。今すぐこの家を出て行ってくれ。そうしないと……」

「なるほど?あんた達でイチャつくためには、あたくしの存在が邪魔ってことなのね?そういうことなのね!?」

「違う!イリーナ、聞いてくれ、俺達はっ……!」

「聞きたくない!聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくないっ……あんた達、裏切り者の話なんて!!」


 美しい自分がこんなにも悲鳴を上げて泣き叫んでいるのに、何故だか誰も駆けつけてくる気配がない。目の前の美しい男と忌々しい女は、悲しげな表情でこちらを見るばかり。

 ふざけるな、と思った。被害者面するな。今まさに、自分をこの家から追い出そうとしている加害者は誰なん織だと言いたい。今日まで己がこの家に相応しい令嬢となるために、どれほどの苦労と勉学に励んできたのかも知らないで!


「いいでしょう、出て行ってあげるわよ。あたくしもあんた達のクズみたいな顔なんてもう二度と見たくないもの……!」


 自分がもう少し品のない人間なら、きっと目の前の男女に唾の一つも吐きかけていたことだろう。イリーナは彼らを射殺さんばかりに睨みつけると、そのまま踵を返して早足で廊下を歩き始めた。目指す先は、当然自分の自室である。追い出されて住む宛など何処にもないが、行く宛ならばないわけではない。最低限の荷物をまとめて、あの場所へ行こうと思っていた。

 即ち――伝説の、あの悪魔がいる湖へ。


――あたくしを裏切ったこと、後悔させてあげるわ!


 悪役だの、ゲスだの、そう思いたければ思えばいいと思った。

 自分にとっては裏切り者の彼らの方が、百倍忌々しい存在に違いなかったのだから。




 ***




「……わかってはいたけれどね」


 マルティウス家のご令嬢は、馬術も訓練も受けている。近年馬に乗って遠出をすることや狩りをすることが、男女問わず貴族の高尚な趣味として知られているからだ。

 森の奥へと馬に乗って彼女が消えていくのを見ながら、シュレインはため息をついた。


「人を傷つけるって、辛いね。……本当に、自分が情けなくなる。何故こんなに酷い状況になるまで気づけなかったんだろう。もっと早く手を打てれば、彼女をたった一人屋敷の外へ放り出すことになんかならなかったのに」

「シュレイン様は、悪くありません。悪いのは、私が裏工作に失敗したからです」


 そっと、シュレインの右手に添えられる少女の手。彼女は泣きそうな顔で首を振る。


「本当は、お嬢様に一言言いたかった……きっとお嬢様は、シュレイン様と私を恨んであの湖に行ってしまったのでしょう。そのようなことしないでほしい。シュレイン様がお嬢様を追い出すことを決めたのは、けしてお嬢様を嫌いになったからでもなければ、権力を奪おうとしたわけでもないのだと。だから、私はともかくシュレイン様に、そのような酷いことなどしないでほしい。何より、悪魔に力を借りることは、お嬢様にとっても危険を齎すことになりかねないからと……」


 こんな時であっても、アガサはシュレインと、彼女にきつく当たってばかりだったイリーナのことばかり心配している。誰よりも優しい娘。誰より強い娘。シュレインは唇を噛み締めた。自分にもっと力があれば、彼女をこのような危険に晒すこともなく、辛い思いばかりさせることにもならなかったというのに。

 ただ願ったのは、大切なものを守りたいということだけ。

 それなのに何故、そんなたった一つの願いさえもたやすく叶わない世界であるのか。確かに貴族というものは厄介で、権力争いに巻き込まれることもあるし下の階級からの恨みを買うことも少なくない。思いがけないところの命の危険が転がっていることは、重々承知していたけれど。


「……泣き言ばかり、言ってはいられないね。イリーナに恨まれ、憎まれることを選んだのは他でもない俺達なんだから」


 アガサの頭をそっと撫でて、シュレインは顔を上げた。時間がない。自分達には、やるべき仕事が残っている。


「準備しよう、アガサ。……恐らくこれが、最後の戦いだ」




 ***




 アナウン王国の北の森には、悪魔が棲みついている。それは、王国の北の地域に住む人間であるならば誰でも知っている伝説だった。モンスター達がうようよする道を抜けなければいけないので危険は伴うが、湖に到達できれば悪魔と出会うことができる。

 湖の中心に建てられた、苔むした悪魔の石像。

 それに向かって祈りを捧げれば、悪魔が現れて願いを聞いてくれるのだという。ただし、相手は神様ではなく悪魔であることを忘れてはいけない。願いを叶えてもらうためには、必ず対価を“後払い”しなければならないのだ。

 そう、つまりは――誰かの命を。

 己の命を賭ける者もいるのだろうが、当然イリーナはそうではない。自分は貴族、アナウン王国有数の名家たる、マルティウス伯爵家のご令嬢だ。その自分が何故、こんなところで命を奪われなければいけない?己は未来永劫、陽のあたる場所で輝き続け、愚民たちを見下げながら幸せになるべき存在である。死ぬべき人間は、当然他に存在している。


「此処だわ……!」


 猟銃の訓練はしていたが、それでもモンスター達を振り払いながら森を突き進むのは苦労した。夜ではないので大半の夜行性のモンスターは眠っているが、昼のモンスターの中にも当然面倒な奴はいる。狩りに出かけたことはまだ数えるばかりの二十歳の娘、基本的には常に護衛を連れて歩いているイリーナが、自らの身を守るために戦う経験などあるはずもないのだ。

 おかげで全身擦り傷だらけであるし、馬は途中でモンスターに捕まったので乗り捨てるハメになってしまった。せっかくの綺麗なドレスも、あちこち引っ掻かれてボロボロになってしまっている。どうして高貴な娘である自分がこのような目に、と思うと理不尽さで涙が滲んだ。

 だが、幸いにして森に入って以来誰とも遭遇していないし、見窄らしい姿を見られる心配はない。そもそも、帰り道のことなど一切考えていないから問題ないのだ。

 自分は悪魔に会いに来たのだから。

 悪魔に、ある願いを叶えて貰いにきたのであるから。


――全ては、あのクソ女が来たせいよ。あの女のせいで、全部滅茶苦茶になったんだわ!


 それから、シュレインも。

 婚約者でありながら、自分を裏切った男に、既にイリーナはほとほと愛想が尽きていた。復讐しなければ気がすまない。そう、悪魔の生贄に捧げるべき存在は――二人いる。


「アナウンの悪魔よ、出ていらっしゃい!」


 湖の浅瀬にじゃぶじゃぶと踏み込みながら、イリーナは叫んだ。

 石像は苔にまみれ、雨風にさらされたせいかあちこち崩れて原型をとどめてはいない。だが、この場所で間違いないはずなのだ。圧倒的な力を持つ悪魔。命を捧げる覚悟さえあるのなら、どんな願い事であっても叶えてくれる存在であるはずなのである。

 自分にはその資格があるはずだ。何故なら裏切られただけの自分は、何一つ悪いことなどしていないのだから。


「あたくしの名前は、イリーナ・マルティウス!ゴドウィン・マルティウス伯爵の娘よ!……復讐したい相手がいるの。あいつら……シュレイン・コーストと、アガサ・ナイラの命をあんたにあげるわ。その代わりあたくしの時間を戻して頂戴。あの日……アガサがあたくしの屋敷にやってくる、まさにその日に!」


 薄汚れていた石像が、ぼんやりと黒く光始める。ああ、やはり伝説に間違いはなかったのだ。イリーナは唇の端を持ち上げた。

 さあ、始めよう。愚かな者達に対する、復讐劇を。

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