いばら姫はブルー
謁見室にアウグストの姿が見えた時、ダフネの心は、まったく動かなかった。
2年間、神に祈り続けた甲斐があった。
完ぺきなカーテシーも、口上も、ダフネを引き立たせる道具に過ぎない。
口角をわずかに上げて、ダフネは陛下に微笑んで見せた。かつて、ダフネは人形だった。感情のない人形だった。そこから感情を操る人形になった。
今は、寵姫という名の新たな人形になろうとしていた。
「美しいな。」
「お褒めにあずかり光栄ですわ、陛下。」
「陛下と呼ばずともよい。フェリペと。」
「……フェリペ様」
わずかに頬を染めたダフネを、陛下は手招きした。数段のぼり、玉座に座る男の手に手を重ねる。
手の大きさも硬さも、まるで違う。
そう考えてから、想像するのをやめた。その誰かの手に、すがることはしないと決めたのだから。
「本当に美しい。我が寵姫は。そう思わないか?アウグスト。」
「……はい。」
アウグストの声がしても決して振り返らなかった。アウグストがダフネと決別したとき、振り返らなかったのと同じだ。
ねたんでいるのだろうか、恨んでいるのだろうか。
ダフネは自分自身の感情が時折、分からなくなる。これは、恨みでもないし、意趣返しでもないはずだ。
「アウグスト、そろそろ二人にしてくれないか?」
「……はっ」
がちゃがちゃと、装飾品と剣が当たる音が聞こえる。その硬質な音が遠のくまで、ダフネと陛下は見つめあっていた。
「さて、邪魔者はいなくなったことだし。話を詰めようか、愛しの姫君。」
「ええ、陛下。もちろんですわ。」
「君を寵姫にすることに、大臣たちは猛反発でね。君が自ら望んでくれて、助かったよ。私はてっきり、矜持を、そう矜持を選ぶと思っていたから。」
矜持、その言葉の後ろにアウグストという名前があることが見て取れた。国ではなく、アウグストを選ぶと思っていた。
そういわれても、ダフネは動揺しなかった。
「寵姫となっても、私は矜持を失ったりは致しませんわ。」
「そうかな?君はこれで、自ら伯爵位を捨てた。私の愛する姫君となり、この腹に、私の子を宿すことになる。……それでも、失わないでいられるかな?」
陛下は、どこか愉悦を感じている顔をした。これが、この人の闇か。ダフネはひどくつまらなく感じた。
「ああ。これが、国のためとはいえ、愉快で仕方がないよ。テオドラ・ウレタの件は、とっくに水に流していたと思ったのに、私の中でいまだに引っかかっていたのだな。あいつが欲したものを奪い取れたことが、これほど愉快とは思わなかった。」
「さて、何のことでしょう?彼が恋したテオドラ・ウレタは、彼の手にありますのに。」
「おや、これは、より一層、愉快だ。あいつも気の毒なやつだ。」
手の甲に陛下が口づけを落とした。同時に背中が粟立つのを感じた。
「今宵、あなたを奪ったら、あやつはどんな顔をするだろうな。」
趣味の悪い男だ。矜持を傷つけられた意趣返しを、かつての婚約者にぶつけて何になる。女であるから、こんな立場に立たされるのかと思うと、悔しくて、歯がゆい。だが、女だからこそ、このゲームのプレイヤーになれるのだ。
「これで、伯爵領は私のものだ。これで、戦争に勝てる。」
「……それは、どうでしょう?」
「……なに?」
ダフネは笑った。握られていた手の力が強くなる。
「陛下はお忘れのようですけれど、私の母は存命です。」
「それが、どうした。」
「父亡き後、私は伯爵位を継ぐものですが、私が継げなくなった場合、母に伯爵領の権利が移ります。もちろん、母が伯爵位を継げるわけではない。でも、正当な後継者がいない場合には、母が、伯爵領のすべての権利を握る。これは、この国の法で定められていますわ。」
陛下はわずかに目を見開いた。
「宰相は決して母のことを公の場では口にしなかったし、母も社交界に出てくることがなかったから、お忘れだったのかもしれないけれど。母が、宰相に遠ざけられていたのは、とても感情的だからです。」
父が母の感情を恐れていたからだ。
「母は、一人娘を寵姫にした、陛下を決して許さないでしょう。身分など関係なく、娘の幸福を奪うものを決して許しはしない。そんな彼女が伯爵領の権利をすべて掌握しているのです。どうなるかは、明白でしょう。仕方がありませんわ。感情的なんですもの。」
「……これが分かっていて、寵姫になったのか。」
「女には女の闘い方がありますの。私は己を売っても、矜持も、我が領地も売りはしませんわ。」
「それで、戦争に負けてもか!」
「あなたは、鉄を手に入れようと入れまいと、関係なく戦争には負けるわ。鉄を手に入れて、たとえ戦争に一度勝ったとしても、先はない。陛下、あなたがすべきことは、鉄を手に入れるために、宰相を殺すことでも、私を寵姫にすることでもないのよ。」
ダフネは、このゲームにおいて、最初から駒に過ぎなかった。
いうなればクイーンだ。
ダフネはクイーンで、キングは父の意志を継いだ母だ。これは、キングを勝たせるためのゲームなのだ。だから、ダフネは自分を犠牲にして、キングを勝たせた。
このゲームは、ダフネの勝ちだ。たとえ、この先、ダフネの歩む道がいばらの道でもだ。
後悔はない。
体は売ったが、ダフネの本当の矜持は、誰にも犯されていないのだから。




