憂鬱のブルー
ダフネ・アンブロースがアウグスト・ノエ・フォンセカと婚約を結ぶことになったのは、幼いころだった。
4歳になる前には決められていて、それは、完全に両家の利のためだった。
幼いダフネはそれを、あまり理解していなかったけれど、2人の間にあるものが、愛情ではないのだということは理解していた。
ダフネが好きだったおとぎ話のような愛情は、この世にはないことは、ダフネの両親が証明していたからだ。
宰相である父にダフネが求められたのは、貴族の娘として、次代に命をつなげ、そして謙虚に賢くあることだった。決して、母親のように感情的になってはならないことを徹底的に教えられた。
だから、ダフネは小さなころから、アウグストが夫になると言われても、何も感じていなかった。ただ、そういうものだと理解することだけが、できることだった。
1年に1度程度会うアウグストは、ダフネには少しまぶしく感じられた。いつも冷静な彼ではあったが、時折、友人に笑顔を見せることもあったし、感情を抑制していても失ってはいなかった。
人形のように感情のないダフネとはまるで違う。
それが、まぶしく思えて、あまり話をした記憶はなかった。
「ダフネ、学園に行きなさい。大いに学び、将来の領地経営について学ぶといい。もう少し、社交も覚えなさい。」
父は、そう一言だけ言って、ダフネの学園行きが決まった。そのころには、女子にも門戸が開かれていたが、学園に行く娘は数限られていた。
多くは、学園ではなく子女養成学校に行くし、そうでないものは修道院で女子に必要な知識を得た。
ダフネは父が、ダフネに求めるものが普通の女性とは違うのだと理解して、勉学に励んだ。
母は、すっかり愛人の家にいたし、生きているのか死んでいるのかもダフネは知らなかった。
学園には、アウグストもいたが、相変わらず交流をはかることはなかった。
相手もダフネを認識している様子だったが、声はかけられなかったし、学園には異様な空気が流れていて、とてもじゃないけど、居心地が悪かった。
一人の女性を、何人もの高貴な男性たちが取り合っているさまは異常だった。そこに、自分の婚約者が混じっていればなおさらだ。
社交を学べ
父の言葉が、何を意味しているのか、その時になってやっと気づいたが、ダフネは無駄な努力はしない主義だ。
婚約者を取り戻そうなど、無駄の極みだ。互いにあるのは利だけだ。情がない人間に、何をすればよいというのだろうか。
テオドラ・ウレタ男爵令嬢は、美しい女性だった。美しくて、気品があり、賢く、謙虚、そして完璧な社交性があった。唯一ないのは、身分だけという女性を、王太子を筆頭に、婚約者のいる男性までもが取り合っている。
婚約者の女性たちのほとんどは学園にいなかったし、いたものも黙っていた。黙らせるだけの実力がテオドラ・ウレタにはあったからだ。
一人抜け、二人抜け、そんな中で、最後まで残ったのが、王太子殿下とアウグストだった。
「ダフネさん」
「はい」
「ご紹介したい方がいるの。」
青白い顔をしたバルバラ・メーナはこの間、テオドラ・ウレタの取り巻きをやめた侯爵子息の婚約者だ。その後ろに立っているのが、テオドラ・ウレタであることに気づいて、ダフネは少し驚いた。
学園で目立ち過ぎず、勉学にのみ関心を向けているふりをしてきたダフネにとって、これは予想外の展開だったからだ。
「ええ、構いません。」
「こちら、テオドラ・ウレタ男爵令嬢です」
その言葉と、ダフネの視線に完璧なカーテシーをしたテオドラ・ウレタにダフネは、数拍おいて声をかけた。
完璧な挨拶だ。学園では、身分の差はないとうたっているが、こんな風にされては避けようがなかった。
テオドラ・ウレタはそれ以来、ダフネに声をかけ、言葉を交わすようになった。
そうすればするほどに、ダフネの心はわずかばかり乱された。なんの情もないと思っていた婚約者がほかの女性と仲睦まじいことに、動揺するなんて愚かしい。
ダフネはそう思ったが、テオドラ・ウレタに対するなんとも形容しがたい気持ちは大きくなっていった。
あの日まで、ダフネはテオドラ・ウレタが羨ましかったのかも知れない。だが、それと同時に、それでもダフネは、テオドラ・ウレタに一点のみ勝っていたのだ。あの日までは。