アルテミスのキスとブルー
「侯爵様、お帰りなさいませ。」
ダフネが膝を折ると同時に、アウグストはその手を掬い上げた。それを握り返し、ダフネはわずかに視線を送った。
アウグストは少しの間、ダフネの手の形を確かめるように握りしめる。執事のナシオ・セサルが咳払いするまでが、この儀式のセットになっている。
しかし、今日は、ナシオの咳払いでアウグストは手を離さなかった。
「侯爵様?」
「出征が、決まりました。」
「いつ、ですの?」
「すぐにでも。先陣を切っているネグレテ卿に合流しなければなりません。」
慌ただしく、物が運び出されるのを見て、屋敷の人間たちは既に知っていたのだと悟った。
先に手紙で知らせでもあったのだろうか。
甲冑も剣も何もかも磨かれた状態で、アウグストのもとに運ばれる。
誰も、ダフネに知らせなかったのは、ダフネが屋敷の人間ではないからだろうか。それとも、主と恋愛遊戯をする女伯爵を憐れんでだろうか。
この盤上遊戯もこれで、おしまいになってしまうのだろうか。父の遺言も遂行されることなく終わるのだろうか。
アウグストが無事に帰ってきたとして、まだこのゲームを続けるのだろうか。
「ダフネに、頼みがあるのです。」
「……侯爵様?」
「私の帰りをここで、待っていていただきたい。」
「ええ、もちろんですわ。いつまでも、お待ちしております。」
持ち上げられた掌に何度も、キスが落とされる。使用人たちは、荷物を慌ただしそうにまとめていて、誰もが見ないふりをする。
「もう一つ、」
ダフネの掌から顔を上げる。美しい蒼の瞳がダフネを見つめる。ダフネが突き落とされた貯水湖のような美しい蒼だった。
「私の剣に、乙女の祈りをお願いできませんか。無事に、あなたのもとに戻ってこられるように。」
乙女の祈りとは戦場に行く婚約者や恋人、身内のための儀式だ。剣に口づけて、無事の帰還を祈るものだ。
「それはできませんわ。……私は、喪に服しております。乙女の祈りをささげるのは、不適当かと。」
二人はただ、ゲームをしているプレイヤーにすぎないのに、まるで恋人同士の会話だった。こうして、彼が切なそうに顔をゆがめるのも、全てはブラフだ。
ダフネとアウグストが婚約を結んでいたとき、彼は確かに恋をしていた。ダフネではない女性と恋をした。
それは、ゲームには見えなかった。今のダフネとアウグストがしているような、化かし合いの不毛なゲームでは、少なくともなかった。
ダフネとアウグストの間にあったのは、名ばかりの婚約で、家同士の利益だけだった。今度は、感情を賭けたゲームをしている。
虚しいものだ。
ダフネは思った。ただ、恋をすることもダフネにはなかった。テオドラ・ウレタは、恋をしたというのに、彼女に人生のすべてを壊されたダフネは、恋をしたこともない。
「侯爵様、かがんでくださる?」
切ない表情でさえ、美しいこの男が、なぜダフネとのゲームを続けるのだろうか。父が、ダフネを託したからだろうか。
ダフネの領地や爵位が魅力的だからだろうか。
このまま手中に収めてしまえば、ダフネの領地も身分も、この男のものになる。
片手を頬に添え、引き結ばれた彼の唇を見つめる。男らしく薄い唇に、ダフネは自分のそれを重ねた。
「ダフネ様!」
レオノルの抗議の声は聞こえたから、きっと使用人たちも見ていただろう。ダフネがなぜ、抗議されなければならないのだろうか。アウグストのブラフに、ブラフを返しただけだというのに。
「御無事の帰還をお待ちしてます。」
もう一度、口づけようと迫るアウグストの唇に、人差し指をあてる。
「これでは、不足かしら?」
その瞬間、アウグストの顔が真っ赤に染まったが、それを完全に視界に入れることはできなかった。
そのまま、強く抱きしめられてしまったからだ。
「侯爵様!」
今度は、アウグストにレオノルが非難の声を上げた。先ほどよりも強くて、冷たいものだったが、アウグストは抱きしめる力を弱めなかった。
「心臓がもちません。」
アウグストは、耳元で小さく抗議した。彼の力の強さにも、体の大きさにも、ダフネはわずかに戸惑っていた。アウグストが、力に訴えたら、ダフネには勝てない。男の力というものが、そういうものであると、ダフネは初めて自覚した。
彼の心臓の音と、同じくらいダフネの心臓の音が早いのは、きっと、それを自覚した今日からだ。
ゆっくりと瞬きをすると、視界の端にエドゥアルダの姿が見えた。その表情は、先ほどのアウグストのそれとよく似ていた。
でも、ダフネにその意味は分からなかった。プレイヤーではないエドゥアルダの心まで読むことは、ダフネには叶わなかった。




