表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/37

アルテミスのキスとブルー

「侯爵様、お帰りなさいませ。」


 ダフネが膝を折ると同時に、アウグストはその手を掬い上げた。それを握り返し、ダフネはわずかに視線を送った。

 アウグストは少しの間、ダフネの手の形を確かめるように握りしめる。執事のナシオ・セサルが咳払いするまでが、この儀式のセットになっている。

 しかし、今日は、ナシオの咳払いでアウグストは手を離さなかった。


「侯爵様?」

「出征が、決まりました。」

「いつ、ですの?」

「すぐにでも。先陣を切っているネグレテ卿に合流しなければなりません。」


 慌ただしく、物が運び出されるのを見て、屋敷の人間たちは既に知っていたのだと悟った。

 先に手紙で知らせでもあったのだろうか。

 甲冑も剣も何もかも磨かれた状態で、アウグストのもとに運ばれる。

 誰も、ダフネに知らせなかったのは、ダフネが屋敷の人間ではないからだろうか。それとも、主と恋愛遊戯をする女伯爵を憐れんでだろうか。

 この盤上遊戯もこれで、おしまいになってしまうのだろうか。父の遺言も遂行されることなく終わるのだろうか。

 アウグストが無事に帰ってきたとして、まだこのゲームを続けるのだろうか。


「ダフネに、頼みがあるのです。」

「……侯爵様?」

「私の帰りをここで、待っていていただきたい。」

「ええ、もちろんですわ。いつまでも、お待ちしております。」


 持ち上げられた掌に何度も、キスが落とされる。使用人たちは、荷物を慌ただしそうにまとめていて、誰もが見ないふりをする。


「もう一つ、」


 ダフネの掌から顔を上げる。美しい蒼の瞳がダフネを見つめる。ダフネが突き落とされた貯水湖のような美しい蒼だった。


「私の剣に、乙女の祈りをお願いできませんか。無事に、あなたのもとに戻ってこられるように。」


 乙女の祈りとは戦場に行く婚約者や恋人、身内のための儀式だ。剣に口づけて、無事の帰還を祈るものだ。


「それはできませんわ。……私は、喪に服しております。乙女の祈りをささげるのは、不適当かと。」


 二人はただ、ゲームをしているプレイヤーにすぎないのに、まるで恋人同士の会話だった。こうして、彼が切なそうに顔をゆがめるのも、全てはブラフだ。

 ダフネとアウグストが婚約を結んでいたとき、彼は確かに恋をしていた。ダフネではない女性と恋をした。

 それは、ゲームには見えなかった。今のダフネとアウグストがしているような、化かし合いの不毛なゲームでは、少なくともなかった。

 ダフネとアウグストの間にあったのは、名ばかりの婚約で、家同士の利益だけだった。今度は、感情を賭けたゲームをしている。

 虚しいものだ。

 ダフネは思った。ただ、恋をすることもダフネにはなかった。テオドラ・ウレタは、恋をしたというのに、彼女に人生のすべてを壊されたダフネは、恋をしたこともない。


「侯爵様、かがんでくださる?」


 切ない表情でさえ、美しいこの男が、なぜダフネとのゲームを続けるのだろうか。父が、ダフネを託したからだろうか。

 ダフネの領地や爵位が魅力的だからだろうか。

 このまま手中に収めてしまえば、ダフネの領地も身分も、この男のものになる。

 片手を頬に添え、引き結ばれた彼の唇を見つめる。男らしく薄い唇に、ダフネは自分のそれを重ねた。


「ダフネ様!」


 レオノルの抗議の声は聞こえたから、きっと使用人たちも見ていただろう。ダフネがなぜ、抗議されなければならないのだろうか。アウグストのブラフに、ブラフを返しただけだというのに。


「御無事の帰還をお待ちしてます。」


 もう一度、口づけようと迫るアウグストの唇に、人差し指をあてる。


「これでは、不足かしら?」


 その瞬間、アウグストの顔が真っ赤に染まったが、それを完全に視界に入れることはできなかった。

 そのまま、強く抱きしめられてしまったからだ。


「侯爵様!」


 今度は、アウグストにレオノルが非難の声を上げた。先ほどよりも強くて、冷たいものだったが、アウグストは抱きしめる力を弱めなかった。


「心臓がもちません。」


 アウグストは、耳元で小さく抗議した。彼の力の強さにも、体の大きさにも、ダフネはわずかに戸惑っていた。アウグストが、力に訴えたら、ダフネには勝てない。男の力というものが、そういうものであると、ダフネは初めて自覚した。

 彼の心臓の音と、同じくらいダフネの心臓の音が早いのは、きっと、それを自覚した今日からだ。

 ゆっくりと瞬きをすると、視界の端にエドゥアルダの姿が見えた。その表情は、先ほどのアウグストのそれとよく似ていた。

 でも、ダフネにその意味は分からなかった。プレイヤーではないエドゥアルダの心まで読むことは、ダフネには叶わなかった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ