竜持たぬ少女は美しい空と出会う
岩の切れ目から覗く空は、青い。
痛む身体を押し通して、手を伸ばしてみる。酷く重かった。簡単で、ほんのわずかなはずの動きをゆっくりと、しかし着実に進めていく。太陽を透かす爪が白く光った。
届かない。
力をなくした手は、右目に落ちた。何も浮かばない右目に、触れる。このまま爪を立てて抉ってしまえば、楽になれるのだろうか。
曲がった指の隙間で、竜が舞った。何かを探すようにゆっくりと旋回しているその竜は、背に人を乗せている。半身、羽、片翼……愛情を込めて、そう呼ぶ人間を乗せて飛んでいた。
死んでしまえばよかったのだ。
ここに落ちた時に死んでしまえばよかった。
『大丈夫、お前を待っているモノがいるよ』
じゃあ、どうして、ネイディーンは独りぼっちなのだろう?
吸い込んだ息が上手く吐き出せず、涙が零れた。
―――
人や竜、荷車に押し固められた簡素な道を抜け、人が住まぬ森を抜けた先にある小高い丘からは海が良く見える。景色はいいが、わざわざ人が来る場所ではない。森は安全ではなかったし、そもそも立ち入りが許されるのは、村の呪い師だけだった。
今そこには、海を眺めようにひとつの墓石が建てられていた。まだ真新しいその墓には、幾多の白い花が手向けられ、人々が集まっている。空には、彼らの半身である竜たちが飛んでいた。列をなし、旋回するそれは、死者を悼み送る葬送の儀だ。
数日前、村の呪い師が死んだ。
その墓は、彼女たっての希望で建てられたのだ。
別れを済ませた人々は墓から離れた場所に集まっていた。彼らの視線の先では、花束を持ったままの少女が墓前で立ちすくんでいる。
「あの子、花の選び方も知らないのよ」
「仕方ないわ、忌み子だもの」
手向けの花は白と決まっている。ネイディーンもそんなことは承知していた。
くすくすと嗤う声たちを風に流し、ネイディーンは抱えたままの花束を見下ろした。
真っ白な百合の中に、二輪だけ混じる真っ赤な花。暑い夏の時期にだけ咲く大輪をそっと撫でる。
『私の片翼は、とても綺麗な瞳をしていたんだよ。血みたいな真っ赤な綺麗な目を』
白くなった髪を揺らして笑うのは、育て親だ。彼女の薄く紋が浮かんだ赤い目を見て『じゃあ、おばあさまとおそろいなのね』と返したのは随分と昔のことだった。まだ幼く、世界が優しいと信じていたくらいには、遠い日のことだ。
散った花弁が風に巻き取られ、赤と白が舞う。一緒に巻かれたネイディーンの緑がかった青い髪を残して、夏の空で戯れたそれらは、やがて崖の下の海へと消えていった。
「本当にアレを供えるつもりか?」
「正気じゃないわねぇ」
風が運ぶ悪意ある言の葉もまた流され海へと去っていく。
背後から風に煽られたせいで、長い髪が視界を遮っていた。おかげで、ネイディーンには前しか見えない。そこにあるのは、どこまでも続く海と物言わぬ墓石だけだ。
「どうして、アレが生きているのかしら」
「ババさまは死んじまったのになぁ」
「アレが呪い殺したんじゃないか」
「まぁ、怖い」
「でも、竜のいないネイディーンに出来るかしら」
「何を笑っている。ここは死者が眠る場所だぞ」
すくすく嗤う声を止めたのは、不機嫌さを隠しもしない低い声だった。
「ダリル」
誰かが青年の名前を呟いた。
声通り不機嫌そうな顔をした青年は、薄緑色の竜に乗って彼らを見下ろしていた。
その竜は多くの羽が生えた立派な翼を持っていた。竜は半身を“我が羽”とも呼ぶが、羽の多さは対との絆の強さを示す。信頼と思い出がそのまま形になるのだ。
ばつの悪そうな村人たちが見守るなか、ダリルは己の竜の背から舞い降りた。その仕草に無駄はない。村にいた時から、他とは違う雰囲気を持っていたが、より洗練され優雅さを滲ませていた。
村人とネイディーンの間に立ったダリルは、じっと村人を睨みつける。
睨まれているにはかかわらず、年若い娘たちは息をのんだ。辺境の村に置いておくにはもったいない程の容姿だ。髪は宵闇より暗く、瞳は森の緑より深い。村にいた頃は幼さを残していたが、顔立ちも今は大人びて、精悍さをたたえている。
久しぶりの再会に、年頃の娘たちがざわめいたのも無理はない。前々からわかっていたが、都会に出てさらに磨きがかかっていた。状況も忘れ、あからさまに、顔を赤らめる娘もいるくらいだ。
「ダ、ダリル。私たち、そういうつもりじゃなかったの。ねぇ、わかるでしょう?」
村の娘たちのまとめ役であるエマは、困ったような笑みを浮かべてみせた。大きな紫色の瞳は潤んで揺れている。上目遣いで見上げてくる顔を縁取っている紺色の髪は、艶がありこちらもまた田舎娘にしておくには惜しい程だった。
無感動にエマを見つめていたダリルは、不意に微笑む。
「わかるよ、エマ。君たちは家族を亡くしたばかりの哀れな娘を指さして笑ったりしない。そうだろう?」
「え、ええ。もちろんそんなことしないわ」
「よかった。ネイディーンは大切な村の仲間だからね」
集まっている村人全員へ聞こえるように声を張り、ひとりひとりに視線を向ける。ばつが悪そうにしている者、決して視線を合わせない者、感情を表さないようにする者と様々だったが、皆、静かな視線を受け入れる以外になかった。
「さぁ、別れは済んでいるね。だったら、もう村へ帰った方がいい」
言い訳めいた表情を浮かべて、村人たちは去っていく。それに合わせて旋回していた竜たちも村の方へと飛んでいった。敵意を込めた瞳でネイディーンを睨む娘たちも、ダリルに笑みを向けられてしまえば、立ち去るしかない。二人と一頭を残して、生者たちが去った丘は風の音を残すばかりだった。
「ナディ」
「……最後、立ち会えなくて残念だったわね」
隣に立った男とその竜に視線をくれることもなく、ネイディーンは前だけを見続けていた。吹いた風が、海の表面を撫でる様が丘の上からでも見える。舞っていった花弁を見つけることは出来なかった。
馬ほどの大きさの竜が翼を広げて、影を落とした。夏の日差しに焼かれ続けた肌が冷めていく。
「……全く不出来な弟子で申し開きもない。花の一つも用意出来なかった」
「葬儀にも間に合わなかったわ。さぞ、都会の学校は楽しいのでしょうね」
「楽しいよ、書物は豊富だし色々な考えを持った人や竜がいる。でも、師匠の方が物知りだった」
「そう。……責めているんじゃないのよ。ただ――」
続く言葉は、風に連れられて消えていった。
束の中から抜き取った二輪の百合を差し出すネイディーンは、変わらず前を見ている。
視界の端で、束の中の赤い花が揺れた。それが、言葉もなくネイディーンを見つめていたダリルを現へと引き戻したのだった。
「潮風、師匠へ」
譲り受けたうちの一輪を己の竜――潮風へと渡すと、ダリルは墓前に残りの一輪を供えた。
村人たちから手向けられた幾多の花の中に、一輪だけの花は埋もれていった。次いで捧げられたもう一輪も同様だ。白い花の中に混じってどれだかわからなくなってしまう。
静かに祈りを捧げる一人と一頭をネイディーンはただ見ていた。
日差しの熱が辛くなる頃、再びネイディーンに影が落ちた。
「祈らないのかい?」
見なくても、ダリルの視線の先が赤い花に向いているとわかる。ネイディーンはわずかばかり目を細めた。
「……赤い花はいけないって知ってはいるの」
「“紅ノ花”。師匠には最高の手向けだよ」
それでも、ネイディーンは微動だにしなかった。
手向けれしまえば、終わってしまう。もう、死んでしまっているけれど、この花を捧げたのなら、本当にいなくなってしまう。そう思うから動けなかった。
「夏の暑い日、紅い花が綺麗に咲いていたそうよ」
「師匠たちが生まれた日」
「……半身を亡くすってどんな気持ちなのかしら」
育て親の声が頭の中で響く。『一番綺麗なモノの名前を付けるんだよ、だから私の竜は紅ノ花になったんだ』死んだ半身の話をせがむ養い子をどう思っていたのだろう。
優しい声だった。
記憶が正しければ、優しい顔をしていた。
でも、本当のところはどうだったのだろう。もし、ネイディーンが養い親のことを話してくれと言われても、上手く出来る気がしない。
「……ナディ、ネイディーン」
「な、に?」
「寂しいね」
重たい声がそっと響く。
胸をしめかけたものを息と共に吐き出した。
「別に。最初からひとりだったもの」
その声は自分でも驚くくらい固い。強がりで吐き出したはずの言葉は、心の奥底に酷く染みた。
誤魔化すように花を投げ捨て、跪く。手を合わせ、祈りの姿勢を取った。
でも、それだけだ。
何を祈ればいいのか、何に祈ればいいのかわからない。ただただ、目を閉じて祈りの姿勢をみせる。
しばらくそうして、振り返ると悲しげに眉をひそめるダリルがいた。
「帰ろう」
どこに?
その言葉が出かかって、ネイディーンは少し前まで帰る場所があったことを思い出した。
―――
「花を摘みに行きましょうよ」
否定を良しとしないエマの言葉に、ネイディーンは瞳を伏せた。
ついに、来てしまった。
育て親の葬儀から三日が経った。その間、なんだかんだと様子を見に来てくれていたダリルは用事で隣町まで行っていて不在だ。
「花の選び方も知らないあんたに教えてやろうっていうのよ、感謝なさい」
エマの取り巻きの一人が嗤う。この後の企みが待ち遠してくて堪らない、そんな笑みだった。
「……森に入ってはいけない、んです」
「大丈夫よ。あなたがいるもの。ババさまと一緒に入ってくのを見たわ」
「あれは、おばあ様がいたから、です。今は……許可する人が、いません」
ネイディーンの……彼女と彼女の育て親が住む家の裏手にある森は、不可侵の地だった。入っていいのは、代々の呪い師と、彼らに許可を得た者だけだ。この村の呪い師は先日亡くなってしまい、後任となる弟子のダリルは出払っている。許可を出せるものはいなかった。
「お前が黙ってればバレないわ。言ったりなんかしないでしょう?」
「でも」
「いいから行くの! 忌み子のあんたに逆らう権利があると思ってるわけ?」
痺れを切らした一人が、ネイディーンの髪を引っ張った。痛みに呻く姿に、集まった少女たちから笑い声が上がる。それを隠しもせず、エマは髪を掴む手を押さえた。
「やめなさいよ。この子、可哀想な子なのよ? 死者に手向ける花も知らない、半身もいない、可哀想な子なの。これ以上惨めな姿になったら、ふふっ」
エマは、わざとらしく半身である竜に身を寄せてみせた。その顔に似合わず、家の手伝いで荒れた手で顔を撫でれば、彼女の竜は嬉しそうにすり寄る。仕舞には、見せつけるように揃いの紋が浮かぶ目と目を合わせて、含みのない笑みを交わしてみせた。
それが一番堪えると知っている少女たちは、真似るように己の竜と寄り添う。
竜と人が対になって生まれてくるこの世界では、ありふれた光景だった。
しかしそれは、独りぼっちで生まれて来てしまったネイディーンにとって、どれ程渇望しようと叶えられない光景だ。
「一緒に来てくれるわよね? ネイディーン」
有無を言わせる声に、今度こそネイディーンは無言で頷いた。
―――
目的地もわからぬまま連れ出されたネイディーンは、ついに森を抜けていた。
潮の香りがする。海は見えないが、硬い岩の下は洞窟になっており海水が入り込んでいることをネイディーンは、知っていた。以前、育て親に、脆くなって崩れやすい所や穴が開いているところがあるから気を付けるようにと、注意された場所だ。
「……こんなところに花はないと思いますけど」
「この先にあるのよ。……あら?」
エマの視線の先には、大きな裂け目があった。幅は差ほど広くはないが、裂け目は長く迂回するにはそれなりの距離を歩かなければならない。
「困ったわねぇ。私たちは運んでもらえるからいいけど……」
憐れむ様なエマの後ろでは、少女たちが意地の悪い目をしていた。
「あたし、嫌よ。この子にアレを乗せるなんて」
「あたしも」
「飛び越えればいいんじゃない? 出来ない幅じゃないわ」
賛同の声が重なり、それに押されたネイディーンは、岩の裂け目の前へ立たざるを得なかった。覗き込んだ先は深く、落ちれば無事ではいられない。よしんば生き残ったとしても、ひとりで上がってくることは到底不可能に思えた。
「無理、です……こんなっ……!!」
にやにやと笑っていた顔が固まった。ブレて、一度消えた。滑るような感覚がして、地面が崩れた。身体を支えるものは何もない。青い、青い空が見える。視界一面、青い。ああ、そうだ。ずっとこんな風に空を飛んでみたかった。青い空だけの世界にいきたかった。綺麗。太陽に視界を奪われて一瞬世界が白くなる。呆然とした誰かが手を伸ばしていた。
茶色い岩肌に視界を狭められて、ようやくネイディーンは理解した。振り返った瞬間、風に煽られて体の平衡を崩したのだ、と。手を伸ばしても何も掴めず、足をばたつかせても何にも触れない。
ただ、ただ落ちていく。
己の悲鳴か、はたまた別の誰かのものか。わからぬままネイディーンは意識を手放した。
―――
『そう。……責めているんじゃないのよ。ただ――』
その後に続いた言葉は、風に消えるばかりのはずだった。しかし、彼女をじっとみつめていたダリルに確かに届いていた。
「考え事か?」
「まぁね」
思ったよりも早く用事が済んでしまった隣町からの帰り道、潮風と連れ立って歩いていたダリルは、己の竜を見上げた。潮風に乗せてもらった方が断然早いのだが、彼は時間が許すのであれば己の足で歩くことを好んでいる。
「当てよう。あの娘のことだな」
「ナディ……ネイディーンだよ。なんで、名前で呼ばない?」
半身の不満を読み取った潮風は人とは違う響きを持つ声を震わせた。我が半身ながら良い男に育ったものだと思うが、まだまだ若い。彼がひとつの仮説に基づき怒っているとわかっている潮風は揃いの紋が浮かぶ半身の右目を左の瞳で覗き込んだ。
「見下しているわけではない。怒りを買いたくないだけだ」
「怒り? 誰のだ?」
揃いの紋が浮かぶ半身の左目を覗き返して、ダリルは足を止めた。
「彼女の、半身のだ」
言葉もなく固まるダリルに、潮風は喉の奥を震わせる。思っていた通りの反応だ。次の呪い師として、村人からは敬意を払われ、同年代の者たちからも一目置かれているが、やはりまだまだ青い。尤も、愉快気に笑う潮風もダリルと同じ年なのだが、彼はダリルを弟のように思っている節がある。
「言葉を交わさぬ理由も、背に乗せぬ理由も同様だ。竜は、中々に嫉妬深い」
「……ナディに、竜がいる?」
人と竜は対になって生まれてくる。
どんな人間にだって半身となる竜がいる。それは当たり前のことで、生まれてからどちらかが死ぬまでずっと連れ添うことになるかけがえのない存在だ。時として、その絆は、同族の家族や伴侶のそれを超える。それほどまで大切な存在だ。
そして、それを持たぬ者は社会的にも認められない。竜を持たぬということはそれだけで罪だった。忌み子として嫌われ、殺されることさえある。
特に、こういう田舎ではそれが顕著だった。
ネイディーンは元々捨て子だ。生まれてすぐに捨てられていたところをダリルの師に拾われ、呪い師という村にとってかけがえのない存在の庇護下にあったからこそ、生きてこられたのだ。
半身を持たぬ痛みを理解することは難しくとも、村人が彼女に向ける嫌悪は知っている。竜を持たぬというだけで、どれ程生き辛さを感じていたか……無垢だった瞳から光が消えていく様を止められなかったダリルはよく知っていた。
「うむ。私にお前がいるように、な。たまに時期を間違えて生まれてくるモノ達もいる。せっかちだったり、のんびりだったりな。だが、いないということはない」
「ナディは知っているのか?」
やっと出る様になった声は震えていた。
半身が瞬き、ほんの束の間、紋が見えなくなる。それが堪らなく不安で落ち着かなかった。
「都合の良い幻想だと思っているようだ」
「嘘じゃないんだろう?」
「……お前は聡く賢いが、少しばかり想像力が足りないな。彼女の立場になって考えてみるといい」
優しい目で見つめられ、ダリルは口を噤んだ。
『あなたが帰ってこなければよかったと思っただけ』
脳裏に浮かぶ少女は悲しそうだった。拒絶……は拒絶なのだが、嫌われているという感じでもなかった。自惚れだろうかと立ち返るが、おそらく違う。
そうではない。
そうではないが、そこには絶望的で救いようのない何かがあった。
だから、聞こえないふりをした。聞こえていたと知れたら、消えてしまいそうな気がしたから。
「ダリル……」
考え事をしながら、歩くとそれなりの距離があるはずの道のりもあっという間だ。気が付けば、村の入り口に差し掛かっている。
か細い声によって思考の海から浮上したダリルを迎えたのは、落ち着かない様子で片腕をさする少女だった。
「エマ? 何かあったのか?」
「……私、そういうつもりじゃなかったの。本当よ、本当に……あんな、あんなことになるなんて思わなくて……」
青い顔で震えるエマは、ダリルに向けて伸ばしかけた手を止めた。縋りついたところで、この後、告げなければならないことを思えば素気無くされることは火を見るよりも明らかだ。代わりに、己自身を抱きしめる。慰めるように半身が寄り添ったが、あの時見た少女の表情が消えることはなかった。
「本当に、本当よ? ……私、わたし……」
震えるばかりで要領を得ないエマを前に、ダリルは心が冷えていくのを感じていた。
大方予想は付く。やりすぎてしまい、どうしようもなくなったから泣きつきに来たのだ。
師の怒りを買うことを恐れた村人たちが、やり過ぎた時に幾度となくダリルを通してお伺いを立ててきたのだ、今更というものだった。
ゆっくりと息を吐いた。気が付かれないよう、そっと腹の底にあるものを吐き出す。既に幾度となく繰り返されて来たものとはいえ、慣れるということはないし、何も思わないわけではない。
「……ネイディーンのことだろう? 何をしたんだ?」
「何もしていないわ! あの子が勝手に足を滑らせたのよ!」
何を言われたのか、理解出来なかった。
一瞬、思考が止まる。
聞かなければいけないことがいくつもあり、やらなければならないことがいくつも浮かんだ。それらが、あまりに多すぎて何も出来ない空白が流れた。
目の前の娘が耐え切れなくなったのか、泣いていた。それと理解していても、どこか遠い世界の出来事のようだ。
「……無事、なのか」
「わからないわ……私たち、その……怖くなってしまって……」
「置いてきたのか? どこに? いつだ?」
感情が抜けきったような静かな声が恐ろしくて、エマは半身に身を寄せた。慰めようと顔を寄せてくるが、どこかぎこちない。これまで向けられたことのない目が怖くて怖くて、応えなければならないのに声が出なかった。
「エマ、答えろ。どこだ」
「も、もりの……先、岩の……隙間に……さっき、よ……」
しゃくりあげる少女をそのままに、相棒へと向き直る。
「潮風」
「ああ、承知している」
―――
まぶしい。
最初に感じたものは、それだった。
覚醒に伴い、痛みが滲むように広がる。ぼんやりとしていたそれは、徐々に強さを増し、時にその手を緩め、その身が常時ではないことを知らせてくる。
そういえば、岩の隙間に落ちてしまったのだったと、痛みという警告に蝕まれた頭の隅で思ったが、事実を確認したところでどうしようもないことだった。ネイディーンに羽はなく、半身と呼べるモノもいない。助けに来てくれそうな人にひとりだけ心当たりがあったが、思い出すと悲しくなった。
他に出来ることもなく、仰向けのまま空を見る。
なんて、綺麗なんだろう。
岩の切れ目から覗く空は、青い。
痛む身体を押し通して、手を伸ばしてみる。酷く重かった。簡単で、ほんのわずかなはずの動きをゆっくりと、しかし着実に進めていく。太陽を透かす爪が白く光った。
届かない。
力をなくした手は、右目に落ちた。何も浮かばない右目に、触れる。このまま爪を立てて抉ってしまえば、楽になれるのだろうか。
曲がった指の隙間で、竜が舞った。何かを探すようにゆっくりと旋回しているその竜は、背に人を乗せている。半身、羽、片翼……愛情を込めて、そう呼ぶ人間を乗せて飛んでいた。
死んでしまえばよかったのだ。
ここに落ちた時に死んでしまえばよかった。
『大丈夫、お前を待っているモノがいるよ』
じゃあ、どうして、ネイディーンは独りぼっちなのだろう?
吸い込んだ息が上手く吐き出せず、涙が零れた。
世界が揺れている。
どのくらいそうしていたのか、いつの間にか竜はいなくなっていた。呼ぶ声も聞こえない。あの世で、おばあ様が呼んでくれればいいのにと思うも、聞こえるはずもない。
磯の香が増して、爪先を濡らした。
そういえば、今日は満潮だったと思い出す。同時に、満潮になるとこの洞窟のほとんどが沈んでしまうことも、思い出した。
痛みは相変わらずだが、動かせないことはない。
それでも、ネイディーンは、動けなかった。
揺れが細かくなって、音が頭に響いた。重たい音だ。
ネイディーンを待っているモノは見つけられなかったが、ネイディーンが待っていたモノは見つけた。
安息。
波の音がする。
青いそれは、徐々に身を沈めていく。
相変わらず、空は美しく青い。
空の青に沈めずとも、海の青には帰れるのだ。
「ほんと、帰ってこなければ……よかったのよ……」
ほんの少しの未練と呼ぶべきか、後悔と呼ぶべきかわからない感情を嗤う。
申し訳ないと思っているのは事実だ。だが、それは彼女を留める程のものではなかった。
流れていく。
流されていく。
そっと目を閉じた。
酷かった揺れが止まって、熱い陽の光さらされ続けた肌が冷えていく。
このまま全て消えてしまえばいいと思った。
なのに。
もっと美しいモノを見てしまった。
一番綺麗な時の空を切り取ったそれ。誰かの対であることの証明も空を思わせる。
「何故、泣く」
いつの間にか、そこにいて覗き込んでくるのは空色の竜だった。
これまで、ネイディーンが見た中で一番大きい。通常、見かける竜は馬と大差ないが、その竜は家よりも大きい。ここからでは見えないが、さぞ立派な翼を持っていることだろう。
一度は乾いた涙が零れたのは、その竜のせいだ。これ程立派な半身を持つ人間はさぞや誇らしいだろう。優しさに溢れた思慮深い目を見ればわかる、この竜に情を向けられる人間はさぞや幸せなのだろうと。
「貴方みたいな、翼が欲しかった」
「この身に未だ翼はないが、おぬしが情を向けてくれるというのであれば、我が翼、喜んで捧げよう。愛らしき我が羽よ」
「うそ」
体の痛みは、気にならなかった。
身を起こして、改めて瞳を覗き込む。映りこむ娘は小さすぎて、その瞳まではわからないが、心の深いところでは理解していた。
「この時をどれ程待ち望んだか……千年、実に長かった」
「……貴方が、せっかちなのよ」
「おぬしがのんびりだと思うが……まぁ良い、こうして会えたのが全てだ」
寄せてくる顔に抱きつく。表面はひんやりとしているが、その下からは確かに熱が伝わってくる。
「私は、ネイディーン。貴方は……美空よ。空がとても美しい日に出会ったから」
身を離して、瞳を覗き込む。浮かぶ紋をじっと見つめると安心することなど知らなかった。
「千年もお待たせしたお詫びにはなるかしら」
「この上ない贈り物だ、ネイディーン」
この日、初めて少女は安らぎを知ったのだった。