菜の花
1
帆奈は、私鉄で都心から30分程の郊外に住んでいる女の子で、今年小学3年生になった。自宅からバスと電車を乗り継いで、1時間半掛けて私立小学校に通っている。学校は自由な校風でイジメもなく、勉強ものんびりしているので不満はない。地元の公立に行った幼稚園時代の友達は、イジメにあったり、中学受験の塾に通ったりしているらしい。
帆奈は毎朝6時半に家を出る。その頃には、隣のおばあさんが家の前で腰を屈め、短い箒で道を掃いている。その後、近くのバス停から6時37分のバスに乗り、別の私鉄の駅で電車に乗り換えるのだ。都心とは反対に向かう電車なので通勤時間でもガラガラだ。電車の中では大好きな「ハリー・ポッター」がゆっくり座って読める。帆奈は本を読むのが好きだ。誕生日に買ってもらった「ハリー・ポッター」(全巻セット)は何度も読み返して暗記してしまっているくらいである。でも家で本を読んでいると、いつも母親に「また本ばっかり読んで! 先に宿題を終わらせなさい!」と言われてしまうのだった。
帆奈は隣のおばあさんと顔を合わせても挨拶をしない。初対面のとき、おどおどとした小さな声で「おはようございます」と言ったら、おばあさんに不機嫌そうな声で「何だい、○○の小学生か」と言われて苦手になってしまったのだ。帆奈の制服とカバンには目立つ位置に○○小学校のエンブレムがついている。帆奈は以前にも、有名私立小学校の生徒ということで、駅で見知らぬ大人からやっかみ半分の嫌な言葉を掛けられたことがあった。帆奈の同級生は裕福な家庭の子が多いが、帆奈の両親は決して裕福ではなく、共働きで経済的に無理をしながら娘を学校に通わせている。両親は言わないが、帆奈にはそのことが十分にわかっていた。
2
帆奈はふだん学校から4時頃に帰宅する。両親が共働きなので、自分の鍵を持っている。
その日は朝から雨が降っていた。帆奈がいつも通り帰宅して玄関の錠を開けようとすると、鍵が見つからない。カバンや小銭入れやポケットをあちこち調べても出てこない。帆奈はがっくりして玄関の前で膝を抱えて座り込んだ。秋は日が落ちるのが早く、どんどん寒くなっていく。この地域では子供にいたずらする悪い人の目撃情報もあった。次第に風雨は強くなり、玄関の庇の下まで吹き込みだした。ずぶ濡れの帆奈の体温は徐々に低下し、手足や唇が震えてきた。帆奈はもう両親には会えないかもしれないと思うと悲しくなった。弱々しく「パパー、ママー」と叫んでみると涙があふれ出た。
そのとき、突然隣の玄関の灯りが点り、扉の開く音がした。隣のおばあさんが帆奈を不思議そうに見ていた。
3
おばあさんの家はすごく古いけど、とても綺麗に片付いていて、お線香の匂いがした。おばあさんの他には誰も住んでいない様子だった。おばあさんはガチガチ震える帆奈をフワフワのバスタオルで拭いて、電気ヒーターをつけてくれた。それから、温めた牛乳とお菓子を帆奈にくれた。
二人はおばあさんが押入れから出してきたこたつに入りながら、いろんな話をした。今は住宅地で想像もつかないが、昔この辺りは野原で、春には菜の花がいっぱい咲いて皆で摘んでお浸しにして食べたこととか、おばあさんには息子がいて何年も会っていないこととか、そしてその息子が昔帆奈と同じ○○小学校に通っていたこととか。
帆奈は母親が帰宅している時間を見計っておばあさんに別れを告げ、自宅に戻ってインターホンを押した。
「ドア開けて。鍵忘れちゃったみたい」
「あんた最近忘れ物多すぎ! こんな時間までどこにいたの?」
母親にはおばあさんの家に行ったことは話さなかった。
4
その年の大晦日の夜、帆奈は少し早い年越しそばを平らげた後、居間で両親とお菓子を食べながら紅白を見ていた。その日の夜半から明け方に掛けては雪の予報だった。
「あーあ、今年は初日の出見られないね」
帆奈は、毎年大晦日に明け方まで起きて、まだ暗いうちに車で海に行って、皆で初日の出を見るのが楽しみだったのだ。
「もう雪降ってるかな?」
帆奈がカーテンを開けると、普段見慣れない不思議な光景が現れた。おばあさんの家の前で、たくさんの白い雪が舞い落ちる中、たくさんの赤い光が回り、たくさんの黒い人影が左右に動いていた。
5
おばあさんが亡くなって暫くしてから、おばあさんの家は取り壊されて空き地になってしまった。もう少しすると誰かの新しい家が建つらしい。おばあさんの空き地には、どこからやって来たのか、昔みたいにたくさんの黄色い菜の花が、春風に揺られて咲いていた。
(完)