episode Ⅴ
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教官が私のキャリーバックを持って看護師さんのあとを追っている。私は教官の背中を手ぶらで追いかけた。
私の病室は、四人部屋で、入って左側の一番奥だった。窓際だ。
教官が窓の外を覗き込んで「おー」という歓声をあげる。
めずらしい。
「おい、こっから寮棟が見えるぞ」
「え、本当ですか?」
見ると、丁度真正面の方向にあった。
「お前いいとこ選んだな」
「偶然ですよ」
教官は満足そうに、頷いていた。
「まぁ、俺は個室だったけど、お前は四人部屋の方があっているかもしれないな」
「では、後々、担当の医師、看護師、薬剤師、栄養士が伺いますので、それまでにお部屋の整理の方だけお願いします。何かあったら、そこのナースコールを遠慮しないで押してくだいね。彼氏さんも、手伝ってあげてください」
看護師はまくし立てるように一息にそう言った。
私は、看護師の最後の言葉に引っかかりを覚える。
――――ぁあ、誤解だ。これでは、教官が困る。
「あ、いや俺は――「違いますよ。この人は、軍にいた時の私の元上官です」
教官の大切な人に、失礼だ。
教官と目があった。教官の目が見開かれている。
――――どうしたんですか、その顔。
看護師は申し訳なさそうに頭を下げると微笑んだ。
「そうだったんですね。間違えてごめんなさい。良い上官さんに恵まれましたね」
それから看護師は、金庫の使い方と、ベッドのリモコンの位置を私に教えた。テレビはどうやらテレビカードというものを買わないといけないらしい。
教官は懐かしそうにしていた。個室だった教官は、テレビカード不要だったらしいが。
けっ。これだから金持ちは。
一通り説明を終えると、案内をしてくれた看護師は姿を消した。病棟内を見回すと、看護師や医師がせわしなく動いている。忙しそうだった。
教官はパイプ椅子に座って、私はひとまずベッドに腰掛けた。
私は教官が運び入れてくれたキャリーバックを横目で見ながらため息をつく。
「あー。今からこのキャリーの中身を全部出すのか。今日入れたばっかなのになぁ」
「は?」
教官の顔色が変わる。声色が変わる。
「今日? そんなギリギリまで準備をするから寝坊なんてするんだ。いったい何時まで起きてたんだ……あれほど早く寝ろって言ったのに」
「急だったんだから仕方がないじゃないですか。それに私、教官に言われてすぐ寝ましたよ。早く起きて準備するつもりだったんですよ! まぁ、寝坊して遅刻しましたけど」
「開き直るな」
教官の説教が嬉しかった。怒ったように尖った声が、耳に優しかった。
毎日聞いていたはずなのに、ここ最近はまともに会ってさえいなかったせいか、懐かしい思いとともに、優しさが溢れてくるようだった。
教官の休日は今日で終わる。
明日から私は一人だ。
本当は、今日も一人のはずだったのに、教官は来てくれた。
本当は、寂しかった。
不安だった。
私は以前強くて、寂しさなど、不安など、知らなかった。ガラスの向こうの世界で、私は前だけを見つめて生きてきた。教官だけを見つめて、生きていた。
そんな私が、今回、最後まで強さを守れなかった。
教官の前で、格好をつけて、会いに来るなと言ってそして、入院準備を始めて私は、――――――圧倒的な宵闇に負けた。
気が付けば私は、教官にメールを送ってしまっていた。優しい教官は、絶対に来てくれるという確信があったのだ。
私は、自分の嫌な部分を鏡でまざまざと見ているような気がした。自分がどんどん嫌な存在になるのを、どうしても止められなかった。
一番頼ってはいけないその人に、頼ってしまうほど、私は愚かな人間になってしまった。私はそんな自分を、知りたくなかった。
数時間前、教官に奥さんがいると知ってもなお、今、この瞬間、私は教官を追い返さない。
奥さんとの時間を、おそらく私は奪ったのだ。
そして、私は――――これからの教官の休日の話をしなければならない。
昨日は闇夜に負けてしまったが、今はお昼間だ。太陽がまぶしく、教官の優しさもたくさんもらった。
大丈夫だ。
私はきっと、まだ踏みとどまれる。
私はこれ以上、嫌な奴になりたくなかった。教官の為でも、教官の奥さんの為でもない、他でもない――私自身の為に。
+++
一時間半前。
まずい。ひっじょーにまずい。
このままでは遅刻だ!
私は準備途中だったキャリーバッグに乱雑に適当なものを詰めながら青ざめていた。
―――――――やっぱり教官に教えるんじゃなかった! 絶対にぶっ飛ばされる。
九時まであと五分もない。
私は携帯を取り出して、教官の番号を押し込む。
――――とりあえず、遅れそうなことだけでも伝えないと。
三回ほどコール音が響いて、そして――――電話は切られた。
――は?
もう一度かける。心臓の鼓動と、呼び出し音が重なっていた。
結果は、同じだった。教官は、電話をいちいち故意に切っているらしかった。
心はズタズタ。なんで出てくれないんだ、と泣きそうになりながら、泣きの十五回目。
ようやく電話がつながった。それも、先程とは違いかなりの間の呼び出し音を聴いたような気がする。我慢比べに勝ったような誇らしい気持ちさえ湧いてきた。
つながった瞬間、叫ぶ。
「教官! ひどいですよ!」
「ごめんなさい。私はその教官の妻です。あなたは誰ですか」
「え」
頭が真っ白になった。
刺々しい女性の声に、頭を殴られたような衝撃が走る。
え、えええええええええええええええええええええええええええええええ。
いや。
はあ―――――――――――――――――――――――――――――――っ?
「あ、あ、私、教官の部下の者なんですが。教官を探していまして」
「あぁ、なんだ。そうなんですね」
奥さんの声が急に、柔らかくなった。
「女性の部下さんもいらっしゃるんですね。驚きました。先程は、電話を切ってしまい申し訳ありません。私もどうしていいものかわからず」
「いえいえ。こちらこそごめんなさい。女の人からの電話なんて、警戒しましたよね。いつも、教官にはお世話になっています」
「こちらこそ、主人のことこれからもよろしくおねがいします。それと、ごめんなさいね。あの人、携帯を忘れてしまったようで。もう家にはいないんです。何か急用ですか?」
それから二、三、言葉を交わすと、急いでいる旨を伝えて会話を終えた。
――――優しそうな人だったな。
たしかに、よくよく考えると、あの頭が良くて、なんでも卒なくこなす教官が独り身なわけがなかった。
私だけ、知らなかったのだろうか?
教官が既婚者だなんて、全く知らなかったのは、このバカな私だけだろうか。
そうか。教官は奥さんとの休日のために、家に帰っていたのだと、今更ながらに思った。
今日という日は、私が奪っていい時間ではなかったのだ。
呆然としていると、再び携帯が着信音を告げた。
非通知だった。
いつもは警戒して、出ないのに今回ばかりは流れるように出てしまった。
「もしもし」
「俺だ」
声だけで分かった。教官だった。
なんですか「俺だ」って。可笑しいですよそれ。
泣きそうになりながら、頭の中でツッコミを入れる。
「……教官」
なにを言えばいいのか、なにを言うべきだったか、さっぱりわからなくなった。
ただ、衝撃だけが頭の中で残響して、苦しかった。