episode Ⅳ
――――――
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教官。一緒に寝ましょう。
夢の中まで、さみしさは入ってこない。
――――――
目を閉じた。
暗転。
朝起きると、午前五時だった。どうやら携帯を握りしめたまま眠っていたらしい。
妻はまだ、寝ているようだった。寝室は別で、ベッドも別々だ。
俺はなるべく物音をたてないように、顔を洗って歯を磨いた。朝食はとりあえず麦茶だけを飲んだ。リビングのテーブルに一言「帰る」とだけメモを残して家を出る。
家を出てから気づいた。俺は家に『帰ってきていた』はずだった。本来なら『戻る』と書き置きをするところをそうしなかった事実を思うと、俺の居場所は自然と知れた。
荷物は昨日できた洗濯物だけだった。
二時間後、午前八時四十五分。
俺は直接病院へ向かった。入院手続きの部屋には、彼女はまだいなかった。
入院手続きのすぐ前の椅子に座って、時計を見つめた。九時まであと五分もない。
――――嘆息。
俺は先ほど売店で買った『入院中にもらった宝物』という本を広げて読み始めた。
――九時二十分。
真剣に読んでいた俺の頭上から、ニヤニヤとした笑みを含んだ言葉が降ってくる。
「お久しぶりですね、何を読んでるんですか」
声の主にすぐ思い当たる。
顔をあげる。くたびれた白衣が視界に広がった。
「その節はどうも。そこの売店で適当に買ったもんですよ、気にせんでください」
俺の言葉に医師が再び笑った。
何がおかしいのかさっぱりわからん。
「また怪我ですか? 私の目には、元気に見えるんですがどうかしました?」
「あぁ、私の部下が病で、今日からここで入院なんです」
「怪我ではなく、病ですか、珍しいですね。あなたの部下が、……へぇ」
医師のあまりに意外そうな顔が、癪に触る。
「誰でも病にぐらいかかりますよ。なんですか、その顔は」
「いえいえ、確かにそうですね。気にせんでください――――――あ、そういえば、その本、私も買いましたよ」
あからさまに話題を逸らしてきたのが分かったが、自分以外にもこの本を買っている人がいると知って、興味が湧く。
「当病院限定でベストセラーです」
ベストセラーかよ。
皆、考えることは同じだなぁと思った。
「そうなんですか。まぁ、売れる理由はわかります。私も実際、買ってしまいましたし」
医師は相変わらずの笑顔で首肯した。
「もしかしたらこれから面白いものが見られるかもしれませんよ。あ、大声で笑うのは控えてくださいね――――では私はこれで」
鬼の形相の看護師が接近してきていることに気づいたらしい医師はよくわからない言葉を残した後、苦笑いで俺に会釈すると看護師の方へ向かって行った。
ご愁傷様、と心の中で唱えて手を合わせる。
それにしても、――――――遅い!
彼女はいつまでたっても来なかった。既に時刻は九時三十分。
行動は十分前集合が鉄則。身にも心にも叩き込んだはずの教えが全然守られていない。本を袋に入れて、俺は立ち上がった。携帯電話が使える場所に移動するためだ。
――――――しまった。
携帯電話を忘れた。
そういえば、持ってきた荷物は洗濯物だけだった気がする。携帯電話を持った記憶がない。
ベッドの上に置いてきたか。
俺は舌打ちをすると、ジーンズのポケットから財布を出した。
緑の公衆電話に十円玉を数枚入れると、彼女の電話番号を押した。
彼女は電話にすぐに出た。
「もしもし」
「俺だ」
「……教官」
「おい、遅刻だ! お前、俺が叩き込んだ規律どうした!! 何かあったのか? 大丈夫か、おい」
「……教官」
声が弱々しかった。俺の心臓は早鐘のように打っている。やはり、なにか事故にでも――――。
「……寝坊しました。すんません」
「馬鹿者――――――――――っ! さっさと来いアホ!」
「教官今どこですか」
「病院だあほ」
「い、今向かってます! あ、教官、携帯電話今持ってます?」
「家に忘れたわ、アホ」
「……やっぱり。あ、着きました」
「入口か? 待ってろ、今すぐ行くから。切るぞ」
「……あ、ちょっ待っ」
何か言いかけていたけれど、俺は構わず切った。すぐに会える。
院内を早歩きで通り抜けた。入口の自動ドアの前に――――いた。
大きなキャリーバックの横に着膨れして丸くなったアイツがいた。寒さか急いだためか、鼻と頬が赤く染まっている。
心なしか顔色が良くみえて、俺はひとまず安堵の息をついた。
「……教官、あの――」
言葉を探すように逡巡する彼女が、ようやく重い口を開いた。
「――――ありがとうございます」
予想外の言葉だった。てっきり、謝罪の言葉が来るかと思っていた。
俺とお前は、良くも悪くもひねくれていて、素直ではないから、いきなりこんなことを言われると調子が狂う。
――ていうか、まず謝れよ。
そう言おうとしたが、彼女の顔は曇っていた。少なくとも、お礼を言う顔ではないその顔に、そんな言葉を投げられるわけがない。
「気にするな。というか急ぐぞ。それでなくとも遅れてるんだ」
「そ、そうですね。急ぎます」
彼女の顔は晴れなかった。入院手続きの最中も、ずっと。
電話で言いかけた先の言葉が気になったが、俺は後回しにした。
なんとなく、聞きたくなかった。