僕らは確かに幸せだった
警告。
当作品には、R15の性描写、殺人、猟奇的な残酷な描写があります。以上をご了承いただけた方のみ、当作品をお楽しみください。
6月20日、加筆•修正しました。
それは、あっという間の出来事だった。
次第に激しくなっていく口論の中、姉さんは涙を流し、髪を振り乱して叫んだ。
母さんは青ざめた顔で僕らを見やり、首を振って呟いた。
「気持ち悪い」
と。
小さな小さな声だった。けれど、僕たち三人しかいない部屋では、それは十分に響いて聞こえた。
姉さんはそれを聞いた瞬間、テーブルに置いてあった果物ナイフを手にとった。そして僕が止める間もなく、そのナイフを母さんの腹に突き刺した。母さんは目を見開いたまま床に崩れ落ち、赤い血を垂れ流した。
リンゴや何かを切るためだけの小さなナイフだ。おそらく致命傷ではなかったのだろう。母さんはまだ生きていたし、意識もあった。化け物を見るような目で僕らを見ながら、床を這いずるように逃げようとしていた。
姉さんは母さんに跨がるように立つと、悲鳴を上げる母さんを無視してナイフを振り上げた。
「母さん。ごめんね」
そう言って、姉さんはナイフを振り下ろす。
今度は止める間はあったけれど、僕は何もしなかった。
シャワーの音がいつまでたっても鳴り止まない。
扉を開けると、風呂場に座り込む姉さんの背中が見えた。僕が入っても振り向く事さえなくシャワーにうたれている。
こんな時だと言うのに、いや、こんな時だからだろうか。骨の浮き上がった姉さんの白い背中はひどく美しい。僕はただ、何をするでもなく姉さんの背中を眺めた。
「どうしよう」
ぽつりと、姉さんが呟いた。
「ねぇ、どうしよう」
「……姉さん」
「母さん殺しちゃった」
「姉さん」
「どうしよう」
姉さんはただ壊れた人形のように「どうしよう」とだけ繰り返した。僕は姉さんを背中から抱きしめた。
縋るように姉さんが僕の腕を掴む。その手は恐ろしいほど強く、腕に血が滲んですぐに流れていった。
「姉さん」
「どうしよう」
虚ろな目で、姉さんは同じ言葉を繰り返す。僕はそれを止めるように唇を押し付けた。姉さんは抵抗することなく受け入れた。そして、やがて白い腕が、僕の首に絡み付いた。
僕は姉さんを愛している。
人は誰しも一度は恋をするものだろう。僕にとってそれが姉さんだったというだけで、姉さんにとってもたぶんそれだけの事だった。
禁忌だとは当然知っていた。けれど、別に背徳感はなかった。愛する人と愛し合う、僕らにとってはただそれだけの事だった。どちらにせよ結婚などできないし、子供をつくらなければ問題ない。僕らはただ愛し合うだけで十分だった。
けれど、それさえ母さんにとっては許容できないことだったらしい。僕と姉さんの関係を知った母さんは怒り狂い、そして姉さんは母さんを殺した。
「母さん、ごめんね」
動かなくなった母さんに言い、僕はのこぎりを手に持った。
姉さんは僕らのために母さんを殺した。それなら、今度は僕の番だ。
母さんの職場にはもう辞めると連絡を入れた。父さんは数年前に死んでいる。だから、後はこの死体さえ上手く処理してしまえばいい。
死体の処理の仕方なんて知らないから、ゴミに混ぜて少しずつ捨てていく事にした。この地区のゴミ収集は結構ずぼらだから、きっとばれない。
僕は母さんも愛していた。
父さんが死んでからも、女手一つで僕らを育ててくれた母さん。父さんはそれなりのお金を残してくれたけれど、きっと苦労はたくさんあっただろう。僕らの関係だけは認めてくれなかったけれど、普段は心の広い優しい人だった。
僕は母さんも愛していた。けれど、それ以上に姉さんを愛していた。
だから今こんな事をしているのは、たぶん、それだけの話なのだろう。
「終わった?」
部屋から出ると、外で待っていたらしい姉さんが言った。
「とりあえず今日は終わりにしたよ。後はまた今度にする」
そう言うと、姉さんは僕に抱きついた。姉さんの白い手が僕の体を這う。
さっきまで母さんを切っていた僕は全身が血みどろだ。けれど姉さんは構うことなくその白い肌を赤く汚した。
「姉さん、汚れるよ」
肩を掴んで離そうとしたが、姉さんは首を横に振り、ますます強く抱きついた。
「側にいて」
「姉さん」
「こわいの」
「……」
僕はため息を吐いて、諦めて姉さんの背中に手を回した。
“こわいの”
それが小さな頃からの姉さんの口癖だった。
僕はこの言葉に昔から弱い。姉さんを慰めなくてはという気持ちになってしまう。
僕らの両親は僕が物心つくころには既に仲が悪かった。食事の最中に口論し険悪な雰囲気になるのはしょっちゅうだったし、時には怒鳴り合いの喧嘩をすることさえあった。
そんな時決まって姉さんは自分の部屋に僕を引き込み、まるでぬいぐるみにするように抱きついていた。そして口癖を囁きながら僕に縋るのだ。
僕に縋る姉さんは可哀想で、いつだって放っておけなかった。そして僕が放っておけなくなると分かっていて言うのだから、姉さんはずるい人だ。
僕に縋る姉さんをきつく掻き抱く。
姉さんはずるくて可哀想で臆病者だ。その弱さでもっていつも僕を束縛する。
小さな頃の僕は、姉さんは両親の発する大きな声がこわいのかと思っていた。怒鳴り合う両親の声は雷のような恐ろしさがある。だから少しでも声が聞こえなくなるように、小さな頃の僕は姉さんの頭を抱えるように抱きしめていた。けれど姉さんが怯えなくなることはなかった。何故なら姉さんがこわがっていたものは声なんかじゃなかったからだ。
姉さんは家族を愛していた。僕も家族全員を愛していたけれど、姉さんはそれだけじゃなく家族という形を愛していた。
僕がまだ物心つく前は、家族の仲はとても良いものだったらしい。その時の事を覚えていない僕には写真から伺い知る事しかできないが、姉さんは記憶として覚えている。姉さんはそれをとてもとても大事にしていた。そして、まだあるものだと信じていた。
僕にとっては両親は不仲なものだったけれど、姉さんにとってはそうじゃなかった。また元に戻れると期待し、そしていつもその期待は砕かれていた。けれどどんなに砕かれても、姉さんは諦めはしないのだ。
弱いくせに諦めの悪い、可哀想で愚かな僕の姉さん。
姉さんの想う家族はとっくに壊れている。あるのはただの残骸だ。僕にとってはそれも立派な家族の形だったけれど、姉さんにとっては認められないものだった。
年を経るごとに両親の仲は悪くなっていった。それはまるで、道路に落ちた果実が少しずつ腐っていくような日々だった。
その日々の中で姉さんは確実にすり減りながら怯え続けていた。
いつか来るかもしれない明確な家族の終わりに。そしてたぶん、腐り続ける日々が終わらない事にも。
本当に、馬鹿な姉さん。諦めてしまえばきっと楽だったのに。
不仲な両親だったけれど、母さんと同じように僕は父さんも愛していた。
典型的な仕事人間であまり構われた記憶はないけれど、時折ぶっきらぼうにも優しい言葉をかけてくれる人だった。
けれどたぶん、姉さんを傷つけ続ける事を恨んでもいたのだろう。
父さんの車に乗った時、僕はおかしな音がする事に気がついていた。けれどそれをあえて伝えなかった。心の隅で事故にでも遭ってしまえばいいと思ったのだ。
今にして思えば、それはきっと明確な殺意だったのだろう。
音に気付いた翌日、父さんは車の故障が原因の事故で死んだ。
父さんが死んだと聞いた時、僕は悲しかったし後悔もした。けれどやっと終わったと、それ以上にほっとした。
姉さんは父さんの死をとても悲しんだ。
そして母さんも父さんの死を悲しんでいた。父さんの死体に泣いて縋った母さん。あれだけ不仲だったのに離婚しなかったのは、実は愛していたからだろうか。それとも、愛とは呼べずとも執着があったのか。
僕らには優しい母さんは、父さんにだけは厳しかった。僕らには温かな眼差しをくれる父さんは、母さんを見るときはいつも眉間に皺をよせていた。
かつて愛し合っていたという二人に何があったかなんて知らない。きっと両親には両親しか分からない理由と感情があったのだろう。
けれど今となってはそれは分からず、そしてもう、どうでもいい事だ。
父さんが死んだ日、姉さんは泣いて泣いていつものように僕に縋った。僕はそれを慰め、そして、乞われるままにその時初めて姉さんを抱いた。
「行かないで」
ベッドから出ようとすると、姉さんの腕が絡み付いた。弱々しいこの腕を振り切る事は簡単だ。けれど力以上に抗えない何かが確かにこの腕には存在し、僕はいつも簡単に絡めとられてしまう。
「姉さん。学校にはいかないと、怪しまれるかもしれない」
「行かないで」
僕の言う事は聞かずに姉さんは僕の膝に乗り上がると、首筋に顔を埋めた。
「姉さん」
「こわいの」
そう言って、僕の首筋に頬をすりつける。僕は姉さんの白い背中をそっと撫でた。
「こわいの。でも、幸せなの」
首筋から顔を上げ、姉さんは笑った。とろりととろけるような笑顔だった。
「大好きよ。あんた以外、何もいらない」
「……僕もだよ。姉さん」
すん、と鼻を鳴らせば、悪臭が鼻につく。冬とはいえ、ここ数日で母さんは腐り始めてしまった。今では家のどこにいても、この臭いがつきまとう。家に、僕らに染み付いたこの臭いは、いつでも母さんの事を思い出させる。
母さんを殺した姉さんと、母さんを棄てている僕。同じ“母”に関する罪はより強く、僕らを結びつけた。
もうこの感情は、愛情などという綺麗なものではないのかもしれない。執着、依存、狂愛。言葉は色々とあるけれど、そのどれもが当てはまり、そのどれもが違う気がする。
だが、この感情が何だろうと別にどうでもいい。たとえおぞましい何かだろうと、僕と姉さんは互いに求め合っている。それだけが、僕らにとって重要な真実だ。
姉さんがねだるように唇を押し付け、僕の首に絡めた腕をきつくする。僕は結局それに抗えず、またベッドに沈んだ。
「ふふ」
僕の腕の中で満足そうに姉さんが笑う。
初めこそ不安定だったものの、母さんを殺してから姉さんはよく笑うようになった。
ほんの少し前までが嘘かのようだ。
姉さんはいつだって怯えていた。父さんが死ぬ前も、そして、死んでからも。
父さんが死んだ事で、僕はやっと姉さんが怯えずに暮らしていけるようになると思っていた。
けれど、両親が姉さんに与えた傷は予想以上に深いものだった。
父さんが死んでから、僕と姉さんは姉弟であると同時に恋人になった。そして姉さんは、今度は僕との関係に怯え始めた。
姉さんは僕を愛している。けれど、姉さんにとって愛とはいつか腐るものだった。
僕との関係がいつ両親のように腐り始めてしまうのかと、姉さんは怯えていた。
それが今は、怯えていたのが嘘かのように、何の憂いもなく心底幸せそうに笑うのだ。
「こわいの」と口にはするけれど、たぶん姉さんは今どんな時よりも安心している。それこそ、かつて姉さんの愛した家族であった時と同じくらいに。
「寝ちゃうの?」
姉さんを抱えたまま目を瞑ると不満げに髪を引っ張られた。
僕は目を開けて姉さんを睨んだ。
「学校行かないなら寝るよ。あんまり眠れなかったんだから」
「もう。……でも、いいわ。あんたが側にいてくれるなら」
そう言って愛おしそうに僕の頭を撫でる。小さな子供するようなそれを受けながら、僕はうとうとと微睡んだ。
そして睡魔に負け意識が落ちるその瞬間。
「ごめんね」と囁く声が、聞こえた気がした。
母さんを殺して2週間程が経った。
母さんの処理は上手く進まず、今では諦めてゴミ袋に入れて放置している。それでも放つ臭いは強烈で、家の外にも漏れ出しているのかもしれない。休みがちでも行っていた学校は、今は完全に行かなくなった。
そろそろまわりが異常に気づき出している頃だろう。
僕らのこの生活も、終わりが近づいている。
けれど姉さんはまわりを誤摩化す事も何処かへ逃げる事もしようとしない。
腐臭の漂うこの家で、終わりがやってくるのをただ静かに、幸せそうに待っている。
それが何故か正確には分からないが、きっと、姉さんにとって今の状況にこわいものなどないからだろう。——ただひとつを除いては。
「生まれ変わったら何になりたい?」
ころりと僕の隣に転がって姉さんが言った。裸の白い背中に黒い髪が散る。思わずそれに目を奪われたが、姉さんは僕の視線に気付く事なくどこか無邪気に笑っていた。
「何?突然そんな話」
「そう?これって結構重要でしょ」
「さあね。僕は死後の世界なんて信じてないから」
「もう。いいから考えてみてよ」
子供のようにねだる姉さんにため息を吐いて、言われた通りに考えてみる。
小さな頃は空を飛べる鳥やなんかに憧れた事はあった。暢気に見える猫やゆったりと海を泳ぐ深海魚になりたいと思った事もある。もう一度人間に生まれるのも悪くはない。
けれど色々と並べて考えてみても、どれもいまいちピンとこなかった。その代わりふと思った事があり、僕は姉さんと顔を合わせるように寝返りをうった。
「少し違う答えになるけどね。何かに生まれ変われるとしても、僕はもう何にもなりたくないよ」
「どうして?」
意外だったのか、きょとんとして姉さんが言った。
僕はその姉さんの頬をそっと撫でて言った。
「僕は姉さんの弟。それだけで十分だ」
「……」
呆然とした様子で姉さんは目を見開いた。そしてその目に涙を浮かべ、次の瞬間顔をくしゃっと歪めた。
「馬鹿ね」
そう言って、姉さんは僕の頬を撫で返す。涙が目からこぼれ落ち、シーツに小さなシミをつくった。
「本当に馬鹿で、どうしようもなく優しい子」
両目から次々と涙をこぼしながら、姉さんは僕の額にキスをした。
僕はそれを、どこか神聖な気持ちで受け止めた。
心底幸せそうな姉さんの、ただひとつのこわいもの。
あの小さな謝罪を聞くずっと前から気付いていた。姉さんは僕に負い目を感じている。
僕を巻込んだと、ずっと自分を責め続けている。
でも、それは間違いだ。こうなったのは、姉さんだけのせいじゃない。
姉さんが母さんを殺してしまったそもそもの原因は、僕たち家族全員にある。
例えば両親がもう少し仲良くしてくれれば、あるいは姉さんが両親の事を諦めていたら、あるいは僕が姉さんを見捨てていれば。
両親にも、姉さんにも、僕にも、選択肢はいくつもあったのだ。でもそれを選べずこの未来を歩んでしまった。
きっと皆必死だったのだ。両親はいつも喧嘩の後は傷ついた顔をしていたし、姉さんは怯えていた。
そして僕も、家族で笑い合えない事が、たぶんずっと苦しかった。
皆必死で、必死すぎて間違ってしまっただけなのだ。
だから、姉さん。
姉さんが自分だけを責め続ける必要はない。
それに、僕は姉さんの弟であった事を後悔などしていないのだ。
僕らがこれから迎えるのは、端から見れば最悪の結末だ。きっと僕らを知った人達は得体の知れない人間だと気味悪がり、あるいは可哀想だと同情するのかもしれない。
僕らが姉弟でなければ、きっとこんな事にはならなかった。けれど、姉弟でなければ恋をすることもなかった。
ずるくて弱くて愚かで、それでも愛しい僕の姉さん。
始まりは同情だった。そして姉さんの弱さに束縛され、やがて愛するようになった。
これが刷り込みのようなものだろうとは自分でも分かっている。けれど過程がどうであろうとも、僕が今姉さんを愛している事は確かだ。
そして、それがどれだけ歪で罪深いものであったとしても、僕にとってはこの上なく人を愛する事のできた最高の恋だった。
だから、僕はもう生まれ変われなくていいのだ。姉さんを愛した僕。それだけでいい。
ただひとつだけ望むとすれば、それはたぶん、姉さんと同じ願いだ。
「姉さん。このまま、一緒に終わろう」
姉さんはとろりととろけるような笑みを浮かべ、頷いた。
終わりの時は、案外あっさりとやってきた。
伯父さんが訪ねて来たのだ。
「久しぶり。学校行ってないって俺のところまで連絡きたけど、どうかしたのか?」
そう言いながらチャイムも鳴らさずに伯父さんが家に入って来た時、幸か不幸か僕らは食事中だった。
いつもと同じ、けれど決定的に何かが欠けたその光景を見て、伯父さんは首を傾げた。
「あれ?あいつはいないのか?」
「……」
「……」
僕らは何も言わず、ただ黙って箸を置いた。姉さんの静かな視線と目が合う。きっと僕も、同じような目をしているだろう。
母さんを殺して一ヶ月。思ったよりは長くもった。
「……なぁ、なんで黙ってるんだよ。それにこの家、何か臭くないか?」
「……」
「……」
「おい、妙な悪戯はよせよ。それにあいつは何処いったんだ?……おーい、でてこいよ!」
母さんの名前を呼びながら、伯父さんは居間を出て行った。
再び僕らだけになり、僕は内緒話をするように小さく囁いた。
「……こわい?」
「こわくないわ。あんたと一緒だもの」
こわいこわいといつも言っていた姉さんは、今は恐怖心の欠片もなく鮮やかに笑った。
僕らは席を立つこともせずに、ただその時を待つ。やがて耳をつんざくような悲鳴が響き、声を辿るように僕らは居間を出た。
母さんを置いていた部屋の前に、腰を抜かしている伯父さんの姿があった。
伯父さんは僕らを見て、再び悲鳴を上げて後ずさった。
「お前ら、なんで……。いや、お前らがやったのか!?」
息を吸うのさえ躊躇うほどの悪臭が鼻をつく。開きっぱなしの扉からは、手足のない、腐った母さんの姿が半透明のゴミ袋から透けて見えた。
「そうだよ。僕らがやった」
「……なんで、どうして、自分たちの母親を!!」
「さあ。どうしてだろうね。それより伯父さん。もう出て行ってよ」
「何言ってるんだよ!」
「出て行ってくれないなら、母さんと同じ姿になってもらうしかない」
背中に隠していた包丁を見せると、伯父さんの息を呑む音が聞こえた。姉さんも僕と同じように包丁を持っている。
母さんを棄てた時のように、躊躇いなく僕は伯父さんを殺せるだろう。
けれどそうしようとしないのは、これが僕の望みだからだ。
僕は両親が与えた日々に傷つきはしなかったけれど、与えられた価値観は姉さんと一緒だった。僕にとっても、愛とはいつか腐るものだった。
僕は姉さんを愛しているし、姉さんも僕を愛している。けれど、どんなに愛し合っても僕らは未来を信じることはできない。
僕が母さんを棄てたのは、たぶん逃げるためではなかった。僕は姉さんと同じだけの罪を背負いたかったのだ。同じ“母”に関する罪はより強く、僕らを結びつけた。
そしてどうしようもなく求め合う中で、不確かな未来を歩み続けるより明確な終わりがくる事を望んだ。
いつか腐ってしまうくらいなら、いっそこの最高の時に終わってしまう方が良い。
そして今、その望んだ終わりの時が来た。ただそれだけの事だ。
伯父さんはガタガタと震え、僕らを見上げた。その目は最期に僕らを見た時の母さんの目にそっくりだった。
「うわああああああ!!」
やがて耐えきれなくなったのか、伯父さんは走って家を出て行った。僕らはそれを追いかけることはせず、ただその背中を見送った。
「姉さん。行こう」
玄関の鍵を閉め、ぼんやりと母さんを見ている姉さんを促して姉さんの部屋へ行く。一ヶ月間、ほとんどの時間を僕らはこの部屋で過ごした。
姉さんを抱きしめると、同じ強さで抱きしめ返された。そのまま二人でベッドに沈み、互いの体温を感じ合う。姉さんの肌を、味を、声を、何もかも感じられるものをすべてを刻み付けるように貪った。
やがて少し時間が経った頃、どんどんと玄関の扉を叩く音が聞こえた。きっと伯父さんが警察に通報したんだろう。
ああ、終わりの音だ。これで本当に、僕らは終わり。
「ねぇ」
姉さんが言った。
姉さんはするりと僕の頬を撫で、顔を覗き込んだ。
「私達は幸せだった。そうでしょう?」
僕は姉さんの頬を撫で返して答えた。
「そうだね、姉さん。僕らは確かに幸せだった」
姉さんは、いつかの時のようにとろりととろけるような笑みを浮かべた。
扉を叩く音が大きくなる。そしてついに扉を蹴破られる音の中、僕らはただ幸せに、幸せに、笑い合った。
母さんを殺し、母さんを棄て、互いを求め合った。
それが例え、誰に理解されずとも。
腐臭がただようこの中で、僕らは確かに幸せだった。
『昨夜9時頃、通報により駆けつけたところ、その家の長男と長女が刺殺体で発見されました。また、家の一室からは母親の腐乱死体も発見され、通報者の証言により刺殺体で発見された姉弟が母親を殺したとみられています。なお、姉弟は互いに包丁を持っていた事から心中したとみられ——』
「げえ。気持ち悪う」
朝食の食パンをかじりながら少女は顔をしかめた。
台所で食器を洗っていた母親は、少女の声に振り返り、「あぁ」と頷いた。
「そうねえ。私は嫌だわ、子供に殺されるなんて。あんた達はやらないでね」
「やるわけないじゃん!」
「そうだよ。これからもっと脛かじらせてもらわなくちゃならないのに」
慌てて否定した少女の言葉に頷いて、少女の隣に座っていた少年が言った。少年は母親にジロリと睨まれ、おどけたように肩を竦める。
「でも、ちょっと可哀想だよね。母親殺して心中するって、きっとよっぽどの事があったんじゃない?」
「確かに。そんな状況、俺には想像もつかないや」
少女の言葉に少年が頷き、なんとなくその場がしんみりとした雰囲気に包まれる。
「それより、お前達そろそろ時間大丈夫か?」
だが黙々と新聞を読んでいた父親が不意に顔を上げてそう言うと、しんみりとした雰囲気は一気に吹き飛んだ。
少女と少年はそろって時計を見て、同時に「やばい!」と叫ぶ。
「お父さんの馬鹿!もっと早く言ってよ!」
「そんなん言ってる場合じゃないよ、姉ちゃん急げ!」
「あ、待ってよう!」
バタバタと姉弟は玄関へ駆けて行く。そんな二人の背を見送りながら、父親と母親は顔を見合わせ楽しそうに笑い合った。
「行ってきまーす!」
元気な姉弟の声が響く。
「もう、あんたが寝坊するからじゃん!」
「姉ちゃんの支度が遅いんだよ!」
二人は言い合いながらも仲良く並んで、明日も続くと信じて疑わない、いつもの平和な日常の中を駆けて行った。