後編
この人のこの手の中に、自然に入り込める人っているのかな、とか。
考えたらとても不思議な気持ちになった。
さすがに、目の前にある制服の白いYシャツからはタバコの匂いはしなかった。
香水の類もつけていないらしい。
汗の匂いがほんのわずかに、こんなに近くなかったら気にならないくらいに鼻をくすぐる。
「…… 今日は朝練、ねえの?」
「え?」
朝練ってなんで。
頭の上にはてなを飛ばしながら、とりあえず答える。
「私、文化部。家庭科クラブだから、朝練ないよ」
「あ、そっか」
しまった。
そんな独り言も聞こえてしまう距離。
眉を寄せて歪んだ顔がおかしくて、笑った。
下を向いてたんだけど、振動で伝わってしまう距離。
「なんか、困るな、こういうの」
照れくせえ。
うん、ほんと照れくせえな。口調を真似て同意すると、ごちんと頭をぶつけられた。
手が使えないからってあなた。
びっくりしていると、振動が伝わってきた。笑っているらしい。
ぷつり、と会話が途切れた。
それはそれは自然に。
だって、自分と彼をまともに結びつけてくれるのは、学校の教室の中に限られる。
こんな強制的にくっつけられても、そんなドラマティックな展開を期待されても。
困るよねえ。と、目の前のとれかけたボタンに同意を求める。
(―― 線路は続くよ、どーこまでもー)
歌い出したい衝動をおさえた、30分間。はてしない時間のように思えた。
長い休み明け、でもまだまだ身体は休みを欲しがっている、欲張りだ。
あくびをするたびに、前から振動が伝わってくる。
目の前のとれかかっている、ボタンが。
ときどきゆがんで、だんだん重みを増してきて。糸が、切れてしまいそう。
どうやら、この領域には抗いがたい魔力があるらしい。
N極とS極、いつもは意識しない体内磁石が反応するみたいに。
ごちん、とおでこから突撃した。
「………… おい?」
頭のてっぺんに、ちょっと焦った声。
シャツに頬を寄せる。洗濯したての、洗剤と汗のにおいがかすかに混じる。
思っていたほど悪くない掛け算だった。
「んー」
貸しておいちゃくれませんか。この特別な誰かだけの空間を、私に。
学校に着くまで、ほんの少しだけだから。懇願する。
「…………」
やがて、諦めたように。
しゃあねえなぁ、と、独り言が落ちてきた。
ふふふ、と振動で伝える。ありがとう。
電車の揺れと、夏のなごりをかぎながらこっそりと私は思う。
(…… 着くまでにはきちんと名前、思い出さないとなぁ)
おしまい




