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恋人領域  作者: 雪田
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前編

 その人が手を伸ばした距離の内側を、恋人領域と呼ぶ。

 そこに入れるかどうかが、親しさを表す指針になるんだって、誰かが言ってた。

 そうしたら、今朝、私はいったいどらくらいの人と恋人の契りを結んでしまったんだろう。





(よーく考えてみると)

 他人と、こんなに身体をぴったり密着させる機会って、滅多にないことで。

 自慢じゃないけど、彼氏いない暦、年の数だし。

 よく考えてみると、貴重なのかも。うん、きっとそうかも。

 前向きになろうとする健気な努力は、隣のサラリーマンのおじさんに染み込んだタバコの匂いで打ち消された。

 でも鼻をつまむための手を上に出すことはかなわない。

 ぎゅうぎゅう。身動きできるほどのスペースは車内には見つけられなかった。


 9月に入り、長いお休みが終わりを告げたばかり、季節はカレンダーをめくり忘れているらしい。

 秋先取り気分の空は青く、けれど太陽に照らされた大地は熱く。

 目の先にあるサラリーマンのおじさんの顎のあたりからすーっと汗の線が伸びていくのが見えた。その生理反応に同意する。本当に、くそむし暑いったらない。

 中途半端に働いている冷房を恨む。

 運転手はきっと自分だけは特別な場所に隔離されているから、乗客の苦しみなどちっともわかっていないのだ。そうに違いない。

 恨み言は車内に沈殿していくだけで、ちっとも状況をよくはしてくれなかった。


 電車がゆるやかなスピードになり、次の駅のアナウンスが聞こえてくる。それに合わせて足の緊張をいったん解いた。

 こうやって、無理にでもメリハリでもつけないと、目的の駅まで、体力、精神力ともに持ちそうにない。

 4月から乗り始めた電車通学初心者なのだから少しは手加減してもらいたかった。



 ドアを開いて、わずかばかりの客を降ろして、その倍の客を乗せてくる。

 簡単な足し算と引き算をすれば、結果は明らか、なはずなのだけど、今朝も満員電車は客をどんどこ飲み込んでいく。

 限界まで奥へと押し込まれて、初心者は思わずバランスをくずした。

 おっとっととと、と情けない悲鳴を上げながら、手を伸ばした先にあったものにぎゅっとすがりつく。

 ぷしゅう、と、ドアが閉まる。

 地に足が着いた感触、ほうっと息を吐き出した。

 鼻の頭がこするくらい間近に来た、白いYシャツにこっそりと感謝を送る。命の恩人です、ありがとう。

 離した手の中から現れたボタンが、取れかかっていた。


「あ」


 頭のてっぺんから、声が染み込んでくる。

 首をすくめるようにして、視線を上へ上へとずらしていくと、見覚えのある顔がそこにあった。


「あー……」


 もう少し、と思うのに、名前がノドのあたりで引っ掛かってる。

 それは相手もそうだったらしく、あ、という形で口が固まったまま、視線だけが宙を動いていた。

 今年はじめて同じクラスになった、

 でもまだ一度も話をしたことはなくて、クラス全員の名前、名簿順に検索、

 えっと、佐野と仲がいい、サッカー部の、……


「おはよ」


 名前を思い出す前に、朝の挨拶が。


「あ、おはよう」


 それだけ言って、首が痛くなるので、すごすごと視線を元に戻した。

 鼻先をかすめる白いYシャツ、取れかかったボタン。

 学校の最寄の駅に着くまでの間、世界はそれだけだった。



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