前日
聞きなれた携帯電話のアラームは、僕に毎朝終わりを告げる。どうしたって朝は来てしまうもので憂鬱でだるい体を持ち上げた。モスグリーンのカーテンから冷たい空気が流れる。
今日もまったくもっていい天気。快晴である。太平洋側は冬場雨が少ない。地理の基本中の基本。
『 』
「今行くよ、母さん」
本当は聞いてなんかいないのに返事を返す僕、100点満点。
てん、てん、てん、と頼りない足音だけが鼓膜にとどく。
いつからだったか、僕はもう世界の音を聞きたくなくなってしまって、そう思ったときから僕の中で言葉はただの音に成り下がった。いや聞きたくもないのだからいいのだけれど。でもいっそのこと、そのただの音も聞こえなくなってしまえばいいのにと臆病者ながら思う。
『 』
「でもこの間のテスト1位だったし」
『 』
「でしょ?父さん。俺頑張ってるじゃん」
安っぽいコーヒーの香りがリビングを満たす。うるせーんだよ能無し夫婦、と叫びたい。お前らなんて大嫌いだ、と言いたい。けど臆病者の僕にそんなことできるわけなくて、それっきり会話をしないことが唯一の反抗だった。子供じみていて嫌になる。わかってるさ、ガキの遠吠えだなんて。恥ずかしさはダムのようにコントロールできずに溢れ、食べているものがトーストなのかクロワッサンなのかもわからなくなった。がりがりと飲み込むだけのみこんで、逃げるように家を出る。
冬独特の真っ青な空。気持ちよさそうに、楽しそうに、鳥が鳴いているのを確かに聞いた。今日はじめて耳に入れる音はこれがよかったのにいきなりバカ女のバカ丁寧な猫撫で声。寒気がする。じくじくと酸がかかったように起きぬけから耳が痛かった。空気は痛いほど冷たくてもどこか心地よい。その上、日差しはやわらかだ。通りのでかい家の梅の木のつぼみはほころびはじめている。何ともうららか。何とものどか。そんないつもの冬の一コマに、僕は、信じられないものを見た。
『 』
「おはよ」
『 』
「うっさいな、今日はしてねーよ」
『 』
「屋上」
『 』
「まあ、たそがれに?俺ロマンチストだから」
ばかだーあいつーとか言ってるんだろうが僕には関係ない。簡単にクラスメイトと「アイサツ」をすませて、屋上に走る、走る、走る。屋上への階段は天国への階段だな、といつも頭をよぎる。というのも屋上へつながるドアがガラス戸で空がよく見える、というだけなのだがそんなことは僕にとっては今どうでもよくて、とにかくあいつに知らせなければ、こんなに面白いことを!
「そ ら!」
「おう。お前はいつも元気まんまんだなヤス」
そら、と呼ばれた彼女はさもけだるげに壁にもたれたまま僕を見上げた。目の下には、くっきりとクマ。髪の色はまだオレンジ色のまま。夏から染め直していないからプリン状態で、しかも目つきが悪い。ただのバカ不良にしか見えないのに前のテストで僕はこいつに大差で負けた。
「お前が走るなんてめっずらしー」
「っ、だっ、て、」
「まあ落ち着いて汁粉ドリンクを飲め」
「あさ、っから、そんなもの、が、のめっ、る、か」
「汁粉を馬鹿にするな。ゲーム明けの朝もシャッキリ」
「とりあえず、おれの、話をきけ」
口の中に汁粉を流し続ける彼女に必死で伝える。
鳥のさえずりは、電線のところから聞こえた。あまりにもかわいい声で鳴くもんだから、姿をみたくなった。色とりどりの観賞用の鳥でも、ありふれている野鳥でもなんでもいい。ただの好奇心だ。目を上げる。青が目に痛い。目を細めて、青と黒い線のコントラストに見惚れる。鳴き声の持ち主はどこにでもいそうな鳥だった。視線をもう少し先に走らせると、そこには―
「人が、空を飛んでいた」
その日は一日中「そいつ」のことが気になってしょうがなかった。ソラも相手にしてくれないもんだから、滅多に行かない図書室なんぞにも言ったりして(いた奴ほとんどメガネだった)、UMAについて調べてみたりもしたが、あんな自由自在に飛ぶヒト(…?モノ…?何か…?)についての記述はもちろんなく、残りの昼休みは「ウォーリーをさがせ!」を読んですごした。メガネの視線が痛かった。あれはテリトリーを主張している目だった。あんな草食動物が何を言ってるんだか、と内心腹立たしく思ったりもしたが無視を決め込んだ。あの目は嫌いだ。学校、特に教室内で強く光るのだ。お互いがお互いの「グループ」というものを強く牽制し合うのである。外から見れば馬鹿馬鹿しいことこの上ない。ということに彼らは気がつかない。意見が同じだからこそ、僕とソラは月と地球のように一緒にいるのだけれど。
もちろんタイトルはぼくらの7日間戦争から。