中編
近づいていく零次に少女は気付かない。誰かが歩いてきていることは分かっても、自分を認識しているはずが無いと考えていたのだ。
だから何もしない。死んでいると知った彼女は暫くの間気付いていくれる人を探して話し続けた。だが、誰一人気付かない。見えないし、聞こえない。彼女は気付かれることを諦めて、その場でじっと迎えを待っていた。
どれだけそこにいても構わない。なぜなら彼女は死んでいるのだから。
「初めまして」
「え、え、え、えと、あの、私が、見えるん、ですか!?」
突然話し掛けられた少女は驚愕していた。どもりながら答えた声は見かけ以上に幼い声だった。見えないはずなのに、突然大声を上げてしまい、周りを気にしている。その姿に零次は再び苦笑が漏れた。
「ええ、声も聞こえていますよ」
「あ、あ、あの、は、初めまして。小金井、千尋、です」
「千尋さんですね。僕の名前は清水零次。好きに呼んでもらっていいですよ」
笑顔で落ち着かせるように話しかける零次に、千尋は深呼吸しながら気持ちを落ち着かせようとた。久しぶりに人と話をしたので緊張が収まらない。生前も彼女は内気な性格で、人前で上手く喋れた試しが無い。
久しぶりに話が出来る人物がやってきたのだ。緊張している場合じゃない。千尋は何とかして気持ちを落ち着けようとした。
「焦らなくても大丈夫。ゆっくりでいいから」
「…………はい」
声は不思議な魔法でも掛かっているかのように、千尋の心を落ち着けていく。言葉がすとんと身体の中に落ちてきて、身体が軽くなるような感じがした。幽霊に体重など無いが。
「あの…………」
「ん?」
「零次さんは、私の姿が、見えるん、ですよね?」
「ええ、僕は生まれた時から幽霊を見て、話をすることが出来ます」
「幽霊…………私は、やっぱり、死んで、いるんですよね」
頭で理解していても、人から言われると実感が湧いてきた。衝撃はないものの、それでも改めて言われると悲しさが込み上げてくる。涙は出てこないけど、身体に震えが宿る。
その様子を見て、零次は何も言わずにその場にじっとしている。今の千尋に何を言ったところで慰めにはならない。どんな言葉をかけたところで、彼女が死んでいるという事実を覆すことは出来ない。生きている人間が理屈をこねても、それは死んでいる者からしたら皮肉にしか聞こえない。
「…………す、す、すみません。湿っぽく、なっちゃって」
「気にしなくて大丈夫」
これまで接してきた幽霊たちは様々な感情を持っていた。怒ったり、悲しんだり、落ち込んだりと自分の死と上手く向き合えない。それが普通であり、人間の感情として正常だ。
そして最後には彼女のように死を理解する。中には向き合おうとしない者もいるが、千尋は理解を他人に預けることなく、自分の中で完了させた。
落ち着いた千尋にホッとして、視線を他に向ける余裕が出来た。そして視線は彼女の手元に行った。
「それは…………絵本?」
「あ、は、はい。生前、私が書いていた、絵本です。私、絵本作家を目指していたんです」
これまでと打って変わって明るい表情で話す千尋は、手元の絵本を開いて零次に内容を見せてくれた。
あるところに両親を亡くした少女がいました。
少女には親戚もなく、頼る人もいませんでした。
それでも彼女は絶望に囚われることなく、今を必死に生きようとしていました。
両親が残してくれた少ない財産で生活し、大変な重労働で少しばかりのお金を貰う。
そんな少女に更なる不幸が降りかかる。隣人の食料を盗んだ罪を被せられ、なけなしの財産を奪われていきました。
何もかもを失った少女は、それでも諦めませんでした。
少女には夢がありました。都会の街で華やかに働き、素敵な旦那さんを見つけて小さな幸せを掴むこと。
それは誰もが手にすることのできる権利。頑張った後にある成果。
その為に少女は人一倍に頑張り続けました。
そして…………。
「…………」
「あ、あの、どど、どう、ですか?」
「最後の場面が描かれていないね」
「そこは、描く前に、その…………」
「言わなくても大丈夫」
事情を察した零次は千尋のセリフを遮る。
絵本は彼女が生きている間に完成させることが出来なかった。最後を描く前に千尋は幽霊になってしまったのだ。
「幽霊になって、気付いた時に、これだけを、持って、いたんです。どうしてかは、分かりませんが」
「……幽霊になった者は、死んだ瞬間に未練が残った物を身に着けたり、持っていたりする。それがその人にとって大切なものならなおさら所持していることが多いらしい」
死ぬ瞬間、人間は自分の身がどうなろうとも守ろうとするものがある。それはその人にとって大事なものであり、死んでも手放せないもの。
「これは、私の、人生を描いた、絵本なんです……」
千尋は天涯孤独で、幼いころから施設で育てられてきた。それでも悲しみに囚われず、絵本の少女のように諦めずに人生を歩んできた。自分自身の夢であった絵本作家を目指して。
「施設の先生が、絵本を読んで、くれたんです。それは、私を、元気づけて、くれて」
子ども心に胸が暖かくなった。夢のような世界がそこには描かれていて、そんな世界があったから千尋は笑顔を忘れることなく成長できた。
そして今度は自分が子どもたちに笑顔を届ける番だ。そう思い、願い続け、夢を実現させるために努力してきた。もう少しでその努力が報われるところまで来ていた。あんな事故さえなければ。
目の前の子どもを助けるため、疲れた体を走らせる。運動神経など良くないのに無理をした代償は、自分の命だった。
「最後は、ハッピーエンドで、終わるはず、でした。でも、私は、ハッピーエンドに、なれなかった……」
「そんな自分が、ハッピーエンドを描いていいのか……」
「おかしい、ですよね。物語の、中でくらい、幸せでいい、はずなのに」
「…………」
零次は答えることが出来なかった。いや、答える権利が無かったのかもしれない。
この絵本は千尋が描いた物語。千尋を描いた物語だ。彼女以外の人間が決めていいことじゃない。
何も答えることが出来ないまま、零次は帰るしかなかった。
極楽荘へ向かいながら、零次は先ほどの絵本について考えていた。
(あれは、麗子さんが教えてくれた絵本と同じものだった。千尋は完成する前に死んでしまったし、作者も全然違う人だった)
千尋から見せられた絵本、あれは出版社で麗子から教えられた絵本と全く同じだった。出版された絵本には最後の場面が描かれていたが、千尋の絵本には最後が無い。その違いだけだが、それ以外は全く同じだった。
しかし、完成された絵本には『神埼憐華』という絵本作家には似つかわしくない名前が記されていた。
そして最後の場面は、少女が苦労の末に亡くなり、天国へと召され、幸せになったという内容だった。
これらの事を総合的にまとめると、ある一つの真実に辿り着く。
(ふむ、どうしたものかな……)
気付いてしまった真実に対して、何が出来るか。何をすべきか。何をしていいのか。
考えても答えは出てこない。これは千尋の問題であって、零次には全くの無関係だ。口を出すなどおこがましい。
そんなことを考えていると、前方のビルの角で千尋のいる方を見張っている怪しい男の姿がある。というか連夜だった。
「…………連夜、お前何しているんだ?」
「別に、なんでもない」
「本当にお前は面倒なほど真面目だな。彼女は地獄行きじゃないんだろう?」
「あ、ああ。彼女は天国行きだ…………彼女から事情を聞いたのか」
「そっちも複雑みたいだな」
スーツにサングラスという格好はあまりにも目立ち過ぎている。道行く人々が二人を眺めて、ひそひそ話をしている。
さすがにこのままではまずいと感じた零次は、警察を呼ばれる前にその場を離れることにした。
近くのカフェに入り、窓側の席に座り、注文を聞きに来た店員にメニューを見ながら注文する。
「コーヒーで」
「カフェオレをお願いします」
「デラックスパフェ一つ」
「…………美紀、奢らないぞ」
現れた三人目の声に、驚くことなく突っ込みを入れる。奢らないと言われた美紀はむくれながらも文句を言わずに席に座った。それを見ながら連夜は、これが天使の態度かと溜息と漏らす。
その光景を見ながら、零次はいつもと変わらないものに苦笑いをした。
注文した品を堪能しながら、三人は情報を交換し始めた。そして千尋の事が分かってきた。
「つまり、千尋をあの世に送れないのか?」
「どうもね、あの子にはあの世に行けない〝未練〟があるみたいなの。それが分からなくて途方に暮れている状態」
お手上げといった感じで手を上げる美紀。いつもの余裕はなく、疲れた顔で糖分を補給している。
死んだ人間は何かしらの未練を持っている。大抵は未練を残したままあの世に行くのだが、稀に未練が強すぎて現世に縛られている魂が存在する。その場合、担当の天使や死神がその未練を取り除く手助けをし、幽霊を連れていく。
千尋も未練が強すぎるようだが、その未練が何なのか、美紀や連夜も分からないらしい。千尋自身も検討が付かないそうだ。
「色々未練はあるけど、どれが一番なのか、本人も分からんそうだ。それで俺も色々調べてはいるんだが……」
「…………お前の担当ではないのだろう?」
「それでも彼女の境遇を思うと、早く未練を取り除いてやりたいんだ。あのままでは生まれ変わって新しい人生を歩むことが出来ない。担当でないとしても、何かをしてやりたいんだ」
「お前らしい考えだな」
どんな幽霊であろうとも真正面から向き合い、管轄が違っても何かをしようとする連夜。呆れてはいるが、それでもそんな連夜を嫌いではなかった。
そんな連夜とは対照的なのが美紀だ。
「どうでもいいけど、さっさと未練を取り除くための努力をしなさい。私のお給料の為に」
「期待を裏切らない態度だよ、全く」
自分本位の美紀だが、これでもそれなりにいいところがあるのは知っている。この態度はそんな自分を知られたくない鎧であることも。
ひとまず彼らを置いて、千尋から聞いた話を思い出す。
未練がありそうなのはやはり絵本関連であることは大体想像できる。
では、一体絵本の何に未練を持っているかだが、それを他人が判断することは難しい。
(単純に考えれば、やっぱり最後の場面かな)
千尋は絵本の最後を決めかねていた。死ぬ前ならばあっさり決まっていたことだが、作者である千尋がハッピーエンドでなかったが為に、彼女は決められずにいる。
人生とは頑張ったら幸せになれるということを教えるための絵本のはずが、千尋は頑張っても幸せになれなかった。その葛藤が千尋の判断を鈍らせているのだろう。
だが、それらの事を解決させる前にやっておかなければならないことがある。
「ふう、やっぱり僕もお人よしだな」
文脈の繋がらない台詞を吐いて、立ち上がる。零次は自分の馬鹿さ加減に自分自身で呆れていた。
目の前の二人には、何の事だかさっぱり分からなかった。
高級住宅街が立ち並ぶ団地を零次は道を確認しながら歩いていた。片手に赤ペンで印をつけた地図を持ち、反対の手に鞄を持ちながら目的の家を探している。
なぜ零次がこんなところにいるのか。それはあの絵本の気になる点を調べるためにここまでやってきたのだ。順調にいけば未練を解き放つ手掛かりが手に入るし、最悪何かしらの情報が得られるはずだ。
時刻は四時半。日も徐々に傾き始め、少し肌寒い。一旦アパートに帰り、上着を持ってきたがそれでも温まることはない。
この寒さの中、道行く人の姿は少ない。ペットの散歩程度で、他は高級車が走っている程度だ。散歩している人間は場違いな零次の姿に奇異の視線を向けているが、零次は気にしない。気にしたところで何も変わらず、彼らと自分では住む世界が違うのだと思うことで納得させる。
暫く歩き、目的の家の前に立つ。表札を見て、間違っていない事を確認する。
ピンポーン。
躊躇いなく呼び鈴を押す。電子音が響き、備え付けてあるインターフォンから声が聞こえてきた。
「どちらさまでしょう?」
「突然すみません。私、清水零次と申します。神埼憐華先生のお会いしたいのですが……」
「アポイトメントはお持ちでしょうか?」
「いえ、ありません」
「申し訳ございません。先生は約束のない方とお会いしませんので」
スピーカーから聞こえてくる女性の声は、申し訳なさそうなセリフを並べているが、申し訳ない気持ちは全く含まれていなかった。
(さすがにアポなしでは難しいか……)
いきなり押しかけて、会いたいと言う。ファンでもしなさそうな行為をしても、そう簡単に会えるはずもない。下手に上がらせて、犯罪でも起こったらシャレにならないだろうし。
ここで零次はカマをかけてみることにした。
「実は小金井千尋さんの事でお話があるのですが……」
「――――」
息を飲む声が聞こえた。スピーカー越しに固まっているのが分かる。何かまずいことを聞かれて、何の言葉も浮かんでいないのだろう。
策が成功した事を実感する。千尋が神埼憐華と何かしらの関係があるならば、彼女の知り合いをそう無碍には出来ないだろう。
「…………少々お待ちください」
暗い声でスピーカーから離れる女性。それから数分後、再び声が聞こえてきた。
「お待たせしました。お会いになるそうですので、お入りください」
言い終えると同時に玄関の鍵が遠隔操作で解除される。
零次は手に持った鞄の中身を確認しながら、家の中に入っていった。
高級住宅に相応しい内装がそこにあった。煌びやかな家具が並び、その一つ一つが高級品で、椅子一つで自動車が買えるほどの値段がする。典型的な成金スタイルそのものだ。
「初めまして、私が神埼憐華ですわ」
「突然の来訪、失礼しました。清水零次と申します」
通された仕事場のソファに腰掛けて、やってきた神埼憐華に挨拶を交わす。
憐華はこれまた高級そうな服を着て、腕には猫を抱いている。経歴から四十代後半であるらしいが、実際に見ると若作りで三十前半でも通用しそうだ。派手なアクセサリーで身を纏い、絵本作家とは到底思えないような姿だ。
(どこの社長夫人だ……)
心の中で突っ込みながら、笑顔で答えた。
そんな憐華の後ろでは、机を並べて作業を行なっている人達がいる。
彼らは憐華が絵本を教えている生徒である。憐華は絵本作家の傍ら絵本教室を開き、未来の絵本作家を育てていた。それなりに人気で、実際に有名な絵本作家になった人物もいるほどだ。
二人の会話を気にすることなく、生徒達は黙々と絵を描いていた。
「それでお話というのは?」
「はい、小金井千尋さんの事で。先生と知り合いだったとお聞きしたのですが」
「ええ、私が絵本のいろはを教えている教室の生徒でしたわ。才能があったのに、残念なことです」
「はい。それでこの絵本についてお聞きしたいのです」
何食わぬ顔で嘘をつき、話を引き出していく。悲しそうな顔で千尋の事について語る憐華を観察するが、実際の気持ちは分からない。
鞄の中から一冊の絵本を取り出した。それは憐華が作者として出版されたあの絵本である。机の上に置き、真剣な表情で再び嘘を語り出す。
「僕は生前彼女と親交がありまして、彼女はこれと同じ絵本を作成していたと聞いていました。しかし先日彼女が亡くなり、本屋にこれが売られていました。なぜ彼女が作っていた絵本を貴女の名前で出版されているのか。それを聞くためにここまで来ました」
「…………そうですか」
一瞬であるが、生徒達のペンが一斉に止まった。どのような思いが彼らの中であるのか分からないが、零次が語った事実に思い当たることがあるのだろう。
間接的に盗作ではないかと疑われている憐華は、余裕の笑みを浮かべながら戸惑いなく質問に答えた。
「実は彼女から、自分に何かあった時、この絵本を私に一任すると。私は彼女の思いを汲んで、出版したのですわ。まあ口約束ですので、証拠と呼べるものはございませんが」
「彼女の意志を継ぐのならば、なぜ著者の名前が貴女なのですか?」
「出版社には彼女の名前では出版出来ず、私の名前ならば出版できるとのことでした。ですので仕方なく私の名前で出版いたしました」
「…………そうですか」
一見筋が通っている。だが、違和感を禁じ得ない。
本当に千尋から任せられたのか。本当に出版社は千尋の名前でノーと言ったのか。
疑惑を上げればきりがない。証拠がない限り、この場では憐華の証言を信じるほかない。
「他に質問はございますか?」
「いえ、ありがとうございました。真実を知ることが出来て良かったです」
これ以上は何も聞けない。聞いたところで、有益な情報を得られるとも思えない。はぐらかされるのがおちだ。
話は終了し、零次は荷物を片づけた。軽く挨拶をして、部屋を出ようとした。
そこで何かを思いついた零次は、振り返って憐華に最後の質問をした。
「最後に一ついいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「絵本の最後の場面、どうしてあのような形で終わらせたのですか? 千尋さんはあの最後を望んでいたのですか?」
「あれは私が考えました。彼女からは絵本の内容に関して何も聞いておりませんでしたが、彼女が伝えたかったことを描いたつもりですわ」
「………ありがとうございました」
無愛想な態度でお礼を述べる。胸には憤りが込み上げていた。
憐華の言うとおり、千尋はこの結末を選んでいた可能性は否定できない。だが、零次にはそうは思えなかった。
話した時間はほんの僅かだが、千尋が子どもたちに伝えたかったメッセージは死んで幸せだということではないことは断言できる。死ぬことが良いことだなんて思っていないはずだ。
不機嫌を心の奥底に押し込んで、零次は神崎邸を後にした。