沖にクジラ、眼下には紺碧と白砂
春の嵐は去って、ふたたび窓の外は穏やかな青が漂った
髪の毛はなく、その代わりに鼻の下から顎の下までの豊かな髭が、風に揺れていた
「あれ、おばあさん、今日も来てくれたのかい?」
彼が振り返ると、彼の目には最愛の連れ合いが映った。その姿は、彼の今の姿に比べると、優に三十歳ほどの年齢差があった。
「今、いくつになったんだい?」
彼は、いつも同じ質問を彼女にぶつける。それでも彼女が応えたことはなかった。ただ、彼女の両目の輝きが増し、微笑みが彼の心に降り注いだ。彼はそのほほえみを受け止めると、そのまま海を見つめた。
白浜の海岸から先は蒼く、そのさらに先は色を増し、その先は深く果てしなく広がっていた。その先に白い息吹が見えた。クジラの親子が沖を横切っているらしかった。
ふと、海から陸側を見た景色が、彼の脳裏に浮かんだ。一瞬の波の間から見えた陸地は、全て緑に包まれていた。その後に、同じ景色が黄金に変わり、白に覆われ、そして再び緑につつまれた。そして、脳裏の景色は消えた。
おそらく、それらの景色は、鯨側から見えた陸地の記憶なのだろう。彼らにも四季が感じられ、歴史が記憶され、一生があるのだろう。そして、家族のつながりがあり、家族の記憶があり、家族の歴史があるはずだった。彼らはそれらを記憶し続けて、営みを続けているに違いなかった。
そんな記憶の断片を次々とめくりながら、彼は自らが見つめていた彼女の姿が消えたことに気づいた。
「あれ、何処に行ったんだい?」
ちょうどそこに介護係の若い婦人が部屋に入ってきた。
「おじいさん? また白昼夢をみたのですか?」
「白昼夢か? そうだな......白昼夢なのかな......僕にとってとても大雪だったものだけが、見えたんだ......それは確かに白昼だったんだろうね」
老人には子供がいなかった。いるはずがなかった。彼の連れ合いは彼が若い時にすでに天に召されたはずだった。介護士の若い婦人にはそれが分かっていた。
「明日も、お客さんが来るといいですね」
「ああ、明日も来るさ......」
そう言って、老人は外を見続けていた。




